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マタイによる福音書18章21~35節

5 10月

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまで、と家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

聖霊降臨後第十七主日礼拝(2014年10月5日 神水教会にて)

「赦されて生きる」

聖書が取り上げるひとつの大きなテーマ、それは罪であります。

きょうもいつものように、礼拝式文に従って礼拝を進めております。礼拝式文を読み始める。その第1ページ目で「わたしたちは生まれながら罪深く、汚れに満ち、思いと言葉と行いとによって多くの罪を犯しました。」と皆で声をそろえて言います。はじめてこういった言葉に触れたとき、違和感を覚える方は多いです。あるいは「いきなり、罪、罪と言われるのがなんだかいやだ」と反発心をおぼえる方も少なくありません。

そういうことは、わかっています。だれであれ「罪だ、罪だ」と、しかも「わたしたちは生まれながら罪深く」なんてことを、声をそろえて言うということについて、反発する思いを抱くのはよくあることだと、いや、ほとんどの人においてそうだということ、知っています。これを書いた人も知っています。

でも、「これははずせない。この問題から逃げてはいけない。まず、このことをしっかり見つめない限り、神を知ることはできない、神がどんな御方か知ることはできない、そして何より、この問題をきちんととらえなければ、自分自身を知ることができない」と思っているのです。それが、聖書の姿勢であります。

その聖書の姿勢に忠実に立つと、このような形で、礼拝を始めることになります。

また罪の問題について語る機会があると、よくこんな言葉と出会うこともあります。「『あなたは生まれながらの罪人だ』と言われても、日本人はピンとこないのではないか。」と。「日本人は、罪、罪と言われても、分からないのではないか。」と。

どこかの国の人が言うのではありません。日本の人がそう言います。「日本人には、罪の問題、いきなりそういわれても、ピンとこないであろう」と。

どうしてかというと、キリスト教という世界とあまり親しんでいないから。

諸外国の人々は、世界のベストセラーである聖書、当たり前に知っている。昔から。子供のころから。そして、神さまというお方を知っている。意識している。

それに対して、「日本人は、キリスト教の語り口に慣れていない。いきなり、罪と言われても、かえって反発心が起こる。」・・・まあ、そういう理由のようです。

なるほど、そうかもしれない。事実、ルース・ベネディクトさんも著書『菊と刀』の中で、西洋人は罪の文化、日本人は恥の文化という有名な言葉を残されました。つまり、神を知る西洋人は自分のなすことについて「これは神がどう思われるだろうか」という意識で見るから、そこで生じるのは罪の意識であると。それに対して、神を思わない日本人は周りの人の目を意識する。世間体を見る。だから「こんなことをしたら、どう思われるだろうか」という恥の意識が強い。

西洋人は罪の文化、日本人は恥の文化。そういったところからも日本人に、罪の問題を突き付けても、それは分かりにくいのではないか、と言われるのです。

なるほど、そうかもしれない。そうかもしれないと思いつつ、わたしは、いつも「でも、罪がピンと来ないのは、日本人に限らないのではないか」と返すことが多いです。

はたして、この地球上で暮らしている人類の中で、本当に罪という意識をしっかり持っている人は、どのくらいいるだろうか。

日本人ならわからないのか。でも、太宰治などは、自分の罪の意識にたいへん悩んだ人であったとも思えます。だからこそ「人間とは何ぞや」ということを、深い洞察でとらえることができた人ではないかと思えます。

きょうは、久しぶりに大学生の皆さんがおいでですが、大学生の皆さんには、太宰治の作品は、わたしはやはり若いときには読んでほしいと思います。

さて、罪が分からない。でも、とてもよくわかる時があります。それは、だれかが自分に罪を犯した時です。これはすぐにわかります。自分の罪は分からないとしても、ピンと来ないとしても、どこのどんな人でも、すぐに、敏感にわかるのは、自分に対してだれかが罪を犯した時です。これは、その罪が、どのようなものであるか、はっきりわかります。

それは、決して、警察に突き出すような事柄でなくても、「ああ、この人は腹黒い」とか、「この人は自己中心的に物を考えてばかりで、人の気持ちが分からない」とか、そういうことがはっきり見えます。

本日、与えられたマタイ福音書18章のみことば、途中から、興味深いたとえ話が紹介されていますが、話のきっかけは、弟子のペトロがイエスに向って、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねたことが発端でした。

何気なく読んでしまいそうです。初めて読む人にも、何十年と教会に通って、この話を、何十回も読んできた人にとっても、何気なく読んでしまいそうです。

でも、はっきりしているのは、ペトロは、自分の罪を論じていないこと。「誰かが、わたしに対して罪を犯した場合」ということを想定しています。ペトロだけの問題ではありません。そのほうが、いつも肌身に感じます。敏感に感じます。そして、記憶にも残っています。あの人が、あの日、わたしに対してなしたあのこと。あの態度。あの言動。それによって私がどれだけ傷ついたか。その記憶は、鮮明に残る。

ひょっとしたら、この世の中のみんなが、そう思っているのかもしれない。被害のことばかりを。他者の罪のことばかりを。とすれば「あの人の罪」と考えているこのわたしも、誰かから見たら、恨まれているかもしれない。人のことを思い出しては、その人の罪を思い出すかもしれないけれども、ひょっとしたら、周りの人たちは、私がいないところで「あの人は自己中心で困るね」と悪口を言われているかもしれない。

「日本人には罪が分からない。」ではなく、古今東西、この地上の人類は皆、人の罪は分かるけれども、自分の罪は分からないのではないか、と思えるのです。

さて、そんな問いを発したペトロに対して、イエスはひとつのたとえ話をなさいました。それは、一度読んでみれば、話の筋はすぐにお分かりになったことと思えます。多少、時代背景の違いなどもあって、理解しづらい面があったとしても、言わんとすることは一度読めばお分かりいただけたと思います。

話の筋は分かります。でも、この話が何を意味しているのか、それこそ、ピンとくるでしょうか。つまり、自分をどこかに投影することができるでしょうか。

お金の話だけ、簡単にしておきます。あとのほうで家来が仲間に貸していた金額が百デナリオンとあります。一デナリオンは当時の日当と言われます。一日働いて得る収入。どのくらいでしょうか。仮に1万円とみれば、百デナリオンは100万円となります。少ないお金ではありません。

もうひとつあります。この家来が、主君に借りていたお金。一万タラントンとあります。一タラントンというのは、先ほど出ていたデナリオンで言うと、6000デナリオンと言われます。つまり、6000日分の給与です。一年間300日働いたとして、20年分の収入額です。もし1万円として計算したら、一タラントンは、6000万円となります。ここで言われているのは、一万タラントンです。6000万円の一万倍です。単純計算で、6000億円です。もしも、日当を、2万円とみて計算したら、1兆2000億円です。どちらにしても、国家予算のような金額です。家来が主君に借りていたお金。それはそういう金額でした。

その借財に対して、「すみません、待ってください、必ず返します」と頭を下げます。その姿を見て、主君は全部、帳消しにしました。

少し猶予を与えたわけでもなく、ある分だけでも返せと言ったのでもなく、借金の肩代わりに何かを要求したのでもなく、まったく赦しました。

このところも、わたしたちは、さらりと読んでしまいます。さらりと書いてあるから、さらりと読んでしまいます。でも、立ち止まって見れば、考えられないことです。それこそ、本当はピンとこない話です。でもさらりと読んでいる。なぜか。自分の問題ではないからです。もし自分が人に貸したお金が、たとえば百万円が帰って来ない。五十万円貸したのに帰ってこない。一千万円貸したのに、帰ってこない・・・としたら、それは、その問題は放っておけません。でもこれは、自分とは関係のない話だから、さらりと読みます。

しかし、とんでもないことです。ありえないことです。

貸したお金、まあ、帰って来ないとしてもいいか、と思えることがあるとすれば、どんな時でしょうか。

ひとつのケース。それは、お金にあまり不自由していない場合です。わたしは、このたとえ話を読んで、今まで何となく、この主君は、家来たちをたくさん抱えている。しかも一万タラントン貸すような人なのだから、そもそもお金に不自由していないだろう、となんとなく思っていました。それは、ある面事実だろうと思います。お金持ちだから、このくらいのお金、帰って来なくてもいいという腹積もりかな、なんて思う節がありました。

でも今回、改めて、この個所を読みながら考えたのは、そうではない。いくらお金に余裕があったとしても、それを「いいよ」と言うのは、お金に余裕があるからではない。そうではなくて、借金を帳消しにできたのは、その人が大事な人だからだ、とわかりました。

たとえば、わたしたちも自分が貸したお金。貸した相手が、大切な家族であるとか、親友であるとか、恋人であるとか。自分にとってとても大切な人である場合、「死んでも返せ」なんてことは言いません。この話にあるように牢に閉じ込めるようなことはしません。

お金よりも、その人との関係のほうが大事だからです。自分の子供に親が貸した。子供が返さなかった。親は、恨まないでしょう。子供を愛しているからです。

主君は、家来を大切に思っていました。だから、水に流すことができました。

このたとえ話に、自分を投影できるでしょうか。このゆるされた家来はあなたです。ゆるした主君は神さまです。

あなたがどんなに罪深くても、神さまは、あなたを赦されます。なぜなら、あなたは神さまの大切な子供だから。

わたしたちは赦されて生きている。生かされています。神の大きな御ゆるしの中で、生かされています。

では、赦されるのならば、何をしてもいいのか。それは、違います。

これも人間関係にたとえたらわかります。何でも赦してくれる人がいる。何でも赦してくれる人だからと言って、平気でその人を傷つけたりするでしょうか。自分のことを信じてくれる人に対して、裏切るようなことをできるでしょうか。

もしできるとすれば、それは、あなたに愛がないということです。

本当にゆるされていることを知っている人は、その赦してくれる人を裏切るようなことはできないはずです。その人を喜ばせたいと思うはずです。

でも、そのことも振り返ってみると、本当のところ、どうでしょうか。

何十年も教会生活を送っておられる方もここにはたくさんおられます。牧師であるわたしもここにおります。

「神の愛を、神の赦しを知っているから、もうどんな罪をも犯さないのか。」と言われれば、そうではない自分自身の現実を知らされます。

そこにこそ、まさに深い罪の現実を知らされる思いがいたします。

でも、それでも、神さまの愛は揺らぎません。

そして、変わることなく、わたしたちを招いておられます。赦しの道へ。赦された者として、今度は、わたしたち自身も、大きな愛と赦しの心をもって生きる道へ。

憎しみ、恨みの連鎖からは何も良いものは生まれません。わたしたちの出発点は、まず神に愛され、すべてを赦されていること。そこから始まっています。

愛の連鎖を、赦しの連鎖を、平和の連鎖をつないでいきましょう。

それができるあなただ、と。なぜなら、あなたがたはみな神さまの子供だから、と今日のみことばは語っておりました。神の憐れみが皆様の上に豊かにありますように祈ります。