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なんでもゆるす?

8 1月

今日のさまざまなことに対して、ゆるす心を持つ、という教えは納得がいかないところもあった。小さなことだったら、ゆるす心を持つべきだと思うが、ゆるされないこともあると思う。それは、自分の線引きが必要だと思う。(中略)角本先生は、すべてをゆるせますか。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。赦しということについて、聖書から学んで)

ゆるすか、ゆるさないか、そこに線引きが必要だと。理屈としてはよくわかります。

でも、その場合、あなたは(そして皆さんの多くは)そのゆるす相手について、漠然と考えておられるのだと思います。もっと言えば、「ひとごと」だと思っておられるのです。

「ひとごと」ではない場合、それはたとえば、こんな質問を考えて下さい。

「もしも、あなたのお母さんが人を殺して、刑務所に入りました。あなたはお母さんをゆるしますか?」

こう問われたとき、初めて「ひとごと」ではなくなります。このケースにおいても、「さて、どこに線引きするか?」と悠長に考えられるでしょうか。

殺人犯となったとしても、お母さんは、お母さんではないでしょうか。

おそらく、その時、「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉の意味がよく分かると思います。そこで起こった罪を憎むことはあっても、お母さんを憎むことはできないでしょう。

つまり、「どんな罪をも、ゆるす」ことを可能にするのは、ただひとつ。「その人を愛している」場合です。

そこで、聖書をもう一度読んでみると、「神は、あなたの全ての罪をゆるす」と言われる。それは、ただ一つ、「あなたを愛しておられるから」です。このゆえに、神は、本当に神なのです。

「私はすべてをゆるせるか」という質問。私は神ではありませんから、残念ながら、どんなことでもゆるせるなんてことは決してありません。それはつまり、「私はすべての人を、まるで自分の家族のように愛せない」「私の愛なんて、しょせん、それくらいのもの」ということです。だから、わたし(たち)は罪人なのです。

その私(たち)をしかし、神は、愛してくださいます。私(たち)はそれを、信じています。大きな愛の神を。その神によって、救われることを。

*非常勤講師として講義を持たせていただいている大学の学生さん、チャプレンとして関わっている幼稚園、保育園の先生方、熊日聖書講座の受講生の方など、キリスト教ビギナーの方々から、さまざまな疑問を寄せていただいています。そこで交わされたQ&Aをこのコーナーではご紹介して行きたいと思います。

*そしてもちろんあなたからのご質問もお待ちしております。キリスト教に関すること、聖書に関すること、なんでも結構です。牧師メール宛、送ってください。

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牧師に向いてる?

31 12月

先生は、自分のどういうところが牧師に向いていると考えたことはありますか。あるのなら教えてください。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。)

うーん、難しい問いを投げてくださいましたね。

牧師になる面接試験の際にも、「あなたは自分が牧師に向いていると思いますか」という質問があり、悩んだ挙句、「向いていないこともないと思います」と答えて、試験官たちに笑われたことを思い出しました。

足りないところ、直せるものなら直したいところもいっぱいありますが、いいところ(向いているところと言えるか分かりませんが)としては、くよくよしないところですかね。

*非常勤講師として講義を持たせていただいている大学の学生さん、チャプレンとして関わっている幼稚園、保育園の先生方、熊日聖書講座の受講生の方など、キリスト教ビギナーの方々から、さまざまな疑問を寄せていただいています。そこで交わされたQ&Aをこのコーナーではご紹介して行きたいと思います。

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望まない道も導きか

25 12月

どんなに努力しても、自分の行きたかった職につけなかったとしても、自分のやりたいことではない職に就いたら、その方向に、神様が導いたということなのでしょうか。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。神さまはわたしたちひとりひとりに、一番良い道へ導いてくださるというお話をした際)

いいご質問ですね。

願った道でない方に進むことがあって、それを、神の導きと取るかどうか。

私はそう受け取ります。

(講義で行った)私の自己紹介を覚えておられるでしょうか。私は第一希望の大学を通ることが出来ず、第二希望の道へ行きました。それのおかげで、今があります。

進みたい道を断念する時は、それは残念です。その時、「うん、これも導き!」とすぐに受け止められないこともいっぱいあります。納得できない、悔しい、悲しい、もういやだ、・・・いろんな感情が渦巻きます。

でも、あとになって振り返った時に(←ここが大事!)、「これも、神様の御計画だったのだ。だから、よかったんだ」と受け止めることが出来たなら、そのほうが幸せだと思いませんか。

わたしたち(信仰者)は神を知っている(信じている)から、そうやってポジティブに考えることが出来ます。絶対者なる神を信じて生きる人は、そのところで、すべてのことを肯定できる。そこはとても幸せなところだと思っています。

御自身の質問に対して、あなたはどうお考えですか?

*非常勤講師として講義を持たせていただいている大学の学生さん、チャプレンとして関わっている幼稚園、保育園の先生方、熊日聖書講座の受講生の方など、キリスト教ビギナーの方々から、さまざまな疑問を寄せていただいています。そこで交わされたQ&Aをこのコーナーではご紹介して行きたいと思います。

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罪を問う、とあるが・・・。

15 12月

十戒の中に、わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う、とありますが、神を否定する者は罪に問われるということでしょうか。ゆるされないのでしょうか。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。十戒を学んだ際)

こういう表現と出会うとご指摘なさったような疑問がわきますね。とても良い質問だと思います。

結論から言えば、いかにわたしたちが罪深いとしても、それをおゆるしになるのが神です。

ただ、その際、なんでもかんでも、いとも簡単に「はい、ゆるすよ、よかったね」といった具合ではありません。ゆるすというところには、大変な思いが込められるからです。

人間関係で考えてみましょう。あなたが誰かを赦す(それもかなり自分の怒りを抑えて)という時、それは相当なエネルギーが要りますよね。ゆるすという作業は、人類にとって、もっとも大きなことのひとつ、と言っても過言ではないと思います。

その「ゆるし」を可能にするのは、根本的には「愛」だと私は思います。その証拠にあなたの親は、あなたが何をしても最終的にはゆるしてくれるのではないでしょうか。仮に、あなたが殺人などの重い罪を犯して、刑務所に入ることになっても、手作りのお弁当でも差し入れしてくれるのではないでしょうか。

それは、愛しているからです。ゆるしを可能にするのは、最後は愛なのです。

ただ、そういう場合でも、「はい、ゆるすよ」と簡単には言わないはずです。怒るところは怒るし、悲しむ所は悲しみます。悔やみもするし、やるせなさも感じるでしょう。根本的には、ゆるしているとしても、それでも、「おまえは、なんてことをしたのか」と言って、責めるでしょう。

それはつまり、わかりやすい表現のひとつを借りれば、「罪を憎んで人を憎まず」なのです。

それと同じように、神様も、怒るところは怒るし、聖書を読んでいると、とても厳しい言葉と出会うことがあります。でも、根本は、わたしたちをゆるしてくださいます。それは(天の父として)私たちを愛しておられるからです。

ご質問された文章なども、機械的に、「神に従わない者は罰!」ということではなく、本気で関わればこそ、神は、本気で怒るし、悲しむし、その上で、最後はゆるしてくださいます。

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神が求めることは

31 7月

神が私たちに求めていることは何ですか。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。)

うーん、これは深い問いですね。

「神という存在」、「神という存在に造られたわたしたち人間」というものを見つめて、しっかりお考えになったとお察しします。そこから出て来た問いと思います。

この問いに対しては、人によって答えが異なるだろうと思います。そして、どんな答えをする人も、ひとことで言いきってしまうのは、難しいかもしれないと思います。たとえば、この問いを発する状況、場面が違うこともあるから、場面、場面において「今、神は何をわたしたちに求めておられるだろう」という問いへの答えも、変わってくると思うからです。

でも、ここでは、わたしなりにひとつのことに絞ってお答えします。

神が私たちに求めておられること、それはズバリ「信じること」だと思います。

その際、「幽霊を信じる」「UFOを信じる」というようなものとして、神という「存在」を信じるということではありません。そうではなく、「神というお方は、間違いない」「神というお方は、きっといちばん良いものを下さる」

「神というお方は、100%の愛をもってわたしたちのことを愛される」ということを信じる、ということです。

人間関係で言えば、「おまえのこと、信じてるぞ」という時の「信じる」に似ていると思います。だから、それは、どちらかというと、「信頼」に似ていると思います。

神を信頼する。それを、神は、わたしたちに求めておられる、と私は思います。そしてその「信じること(信仰)」が人間の救い、幸せに大きくかかわっているとわたしは思います。

そんな角度で、今後、講義で聖書の話、神様の話、信仰の話を聞いてくださるとよいと思います。

根本を考えたすばらしい質問!ありがとうございました。

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地獄を信じるか

18 7月

先生は地獄を信じますか。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。講義で、死について学ばれたときに。)

先生は地獄を信じますか。と書かれていますが、私が信じているのは聖書なのです。聖書がどう教えるかどうか、だけです。聖書と関係のないところで、信じるも信じないもないのです。

では、聖書はどう語っているか。実は微妙なのです。地獄という言葉は出てきます。その概念は確かにあるようです。でも「○○なら地獄に行くぞ」という発想はちょっと違うようです。

私はこう考えています。すくなくともこの地上に生きる人間として、「○○をするような者は地獄へ行くのだ」「○○しない者は救われない」などと言うのは、人間の語ることではないのだ、と。だから、聖書はそこを微妙に書いているのだと思います。

天国と同様に、地獄・・・あるかもしれません。でも、あるとしても、そこへ誰が行くのか、それは神のお決めになることです。私たちのだれも判断はできません。

私たち人間に語ることがゆるされていることは、「○○は救われる」ということだけだと思います。「○○しないなら救われない」と言うのは、人間の領域ではないことだと思いますし、それに、そんなことを言えば、ただの脅しにしかならないと思います。

地獄を信じている人(またこれを強調する人)は、つまり、その地獄に行く人の条件も一緒に考えてしまうと思います。

でも、それはしちゃいけないことのように思います。だから、わたしは(そして多くの牧師がそうだと思いますが)救いや天国は語りますが、地獄は語りません。それは語っても、意味のないことだと思うからです。

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葬儀はいくらかかる

14 7月

お金の話になってしまうのですが、教会で葬式をする場合はどのくらいかかりますか。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。講義で、葬儀について学ばれたときに。)

正直な質問ですね。いいです、いいです、いい質問です。

これは教会によります。

神水教会の場合、通夜、葬式あわせて20万円です。ここにすべて入っています(礼拝堂使用料、牧師謝礼、オルガニスト謝礼、など。あとになって、他にあれこれ、は一切ありません。)。

ただしそれは「お値段」ではなくて、「目安」としてお伝えしております。

冠婚葬祭というのは、物を買うのと違って、お値段がついているのはちょっと違和感があるし、「いくら払わないとだめだ」というのも宗教としてしっくりこないですし、かといって、いくら位にしたらよいか全く分からないのも気持ち悪いので、神水教会では「目安」としてこの金額をご紹介しています。

*非常勤講師として講義を持たせていただいている大学の学生さん、チャプレンとして関わっている幼稚園、保育園の先生方、熊日聖書講座の受講生の方など、キリスト教ビギナーの方々から、さまざまな疑問を寄せていただいています。そこで交わされたQ&Aをこのコーナーではご紹介して行きたいと思います。

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パンを食べちゃいました

6 7月

私が高校の時、礼拝に参加するという課題が出ました。その時の記憶ははっきりではありませんが、パンを食べてしまった記憶があります。私は洗礼を受けていません…。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。講義で、洗礼について学ばれたときに。)

あはは、それはあなたの責任ではありません。ちゃんと確認をしなかった司式者(牧師or神父)がいけません。

神水教会でも(どこでも)聖餐式を行って、そこに並ぶ人々を見て、牧師は普段見かけない方がいれば、「洗礼を受けていますか」と尋ねます。洗礼を受けている人であれば、「はい、○○教会の信徒です」くらいのことを言います。受けていない人であれば、「いいえ」と答えたり、よく分からない顔をなさったりします。よく分からないということは、信者ではない人ということですから、聖餐の代わりに祝福を祈ります。

まあ、でも、人間のやることですから、間違いは起ります。私も以前、あまりにも堂々と、平気な顔で受け取る方がいて、後で聞いたら、洗礼の意味も知らない人だったと分かったことがあって「あちゃぁ、やっちゃった」と思いました。

もう一度書きます。それはあなたの責任ではありません。ご心配なく。ただ今後はもし同じような場面になったら、「私は洗礼を受けていません」とおっしゃっていただければと思います。よく正直に書いてくださいました。

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なぜイエスが受洗

2 7月

イエスさまがバプテスマを受けたということは、何か罪を犯していたのでしょうか。それとも逆に人の模範として、お手本としてバプテスマを受けたみたいな感じなのでしょうか。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。講義で、洗礼について学ばれたときに。特にイエスの洗礼の記事を読んで)

GREAT!!素晴らしい気づきです。よく気づきました!

洗礼は罪の赦しのためのもの。であれば、神の御子には必要ないはず。疑問に思われた通りです。

それで、マタイ福音書3章のところを読むと、洗礼者ヨハネは、民衆と一緒にイエスが来られた時、躊躇したと書かれています。「わたしがあなたから洗礼を受けるならわかるけど、わたしがあなたに洗礼を授けるのですか」と言って。・・・わたしが同じ立場でも同じことを言ったと思います。もしも、神水教会にイエスさまが来られて、洗礼を受けさせてください、と言われたら、「いや、ちょっと待ってください。立場が逆ですよ」と言うだろうと思います。

でも、それは「正しいこと」とイエスはおっしゃいました。

あなたがおっしゃるように、「お手本」の意味も確かにあったと思います。イエスも洗礼を受けられた。ひざまずいて、水の中に身を浸して、洗礼を受けられた。それを見た人々は、心して洗礼を受けねば、と思ったことと思います。

と同時にもうひとつの大きな意味があります。それは神の御子(イエス)が「わたしたちと同じ者になられた」ということです。

ひざまずいて民衆と一緒に洗礼を受けるお姿を通して、神は、私たちを高い所からご覧になっている御方ではなくて、「いつもあなたと共にいるんだよ」ということを示してくださいました。

そもそも神の御子が、天から龍のように降りて来るのではなくて、赤ん坊の姿で一人の女性(マリア)のおなかから生まれてきたこともそうです。

神は、私たちを天の上から手を出してヒョイっと救ったり、あるいは上から見下ろす恐い裁判官のように見つめるのではなくて、「私はあなたのそばにいるよ」という約束を「救いのしるし」として届けてくださったのです。

イエスの洗礼は、そのことをわたしたちにはっきりと示すひとつの出来事でした。

素晴らしいご質問です。おかげでキリスト教の神髄を語ることになりました。ありがとう!

*非常勤講師として講義を持たせていただいている大学の学生さん、チャプレンとして関わっている幼稚園、保育園の先生方、熊日聖書講座の受講生の方など、キリスト教ビギナーの方々から、さまざまな疑問を寄せていただいています。そこで交わされたQ&Aをこのコーナーではご紹介して行きたいと思います。

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説教は「お説教」ではなかった

23 6月

説教と聞くと、「怒られる」というイメージだが、「聖書の説きあかし」だと初めて知った。

(九州ルーテル学院大の学生さんより。講義で、礼拝について学ばれたときに)

こちらは質問ではありませんが、いいところをご指摘くださったので、紹介します。

おっしゃる通りですね。同じような感覚を持っている人は結構いらっしゃると思います。

「説教」(英語でpreachまたはsermon)は、日本語で「説教」と訳されて、現代にまで受け継がれていますが、先生や親が子供を叱る時の「お説教」と混同しそうですよね。

それで「メッセージ」と呼ぶこともあります。

礼拝での聖書の説きあかしを「説教」と呼ぶ。キリスト教用語のひとつとご理解ください。

*非常勤講師として講義を持たせていただいている大学の学生さん、チャプレンとして関わっている幼稚園、保育園の先生方、熊日聖書講座の受講生の方など、キリスト教ビギナーの方々から、さまざまな疑問を寄せていただいています。そこで交わされたQ&Aをこのコーナーではご紹介して行きたいと思います。

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