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ルカによる福音書10章25-37節

21 7月

10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 10:26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 10:27彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 10:28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 10:29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 10:30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。 10:31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:32同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 10:33ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 10:34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 10:36さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 10:37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

聖霊降臨後第六主日 (2019年7月21日神水)

 「隣人とは」  ルカ福音書10章25~37節

イエスは、さまざまなたとえ話を通して、神の国についてお語りになられました。たとえ話を通して、目には見えない神様のことを、何かにたとえてお伝えくださいました。あるいは、目には見えない、神さまとわたしたちの関係を、イエスは、この世の何かにたとえて語ってくださいました。

ある時は、神とわたしたちは、ぶどうの木と、ぶどうの枝にたとえられ、またある時は、羊飼いと、羊たちにたとえられます。

また、主人としもべ、父親と息子、といった姿で、神さまとわたしたちの関係、そして、そこにある神の国について、語ってくださいました。

たとえ話を、ひとつひとつ丁寧に学んでいけば、ひょっとしたら、それだけで、聖書の伝えようとする神の国について、救いについて、神のみ心について、悟ることができるかもしれません。

さて、その中でも、最も有名なたとえ話はなぁに?と言われれば、おそらく、放蕩息子のたとえ、そして、良いサマリア人のたとえ、というのが思い出されると思います。

本日、与えられたルカ福音書10章にありますのは、その良いサマリア人のたとえ話であります。

その話自体は、一度お読みになれば、話の筋はお分かりいただけるでしょう。

追剥に襲われて、倒れている旅人を、見て見ぬふりして通り過ぎた人と、駆け寄って、助けた人といたと。簡単に言えば、それだけの話です。

それだけとはいえ、読みながら、情景も浮かんでくるし、また、自分をそれぞれの登場人物に投影せずにはおれないところもあるでしょう。

単純な筋であるだけに、読み返すごとに、考えさせられるかもしれません。

そして、「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスの言葉が、やはり深い余韻となって残って行きます。

話に出て来るサマリア人は、倒れている人のために、デナリオン銀貨二枚を出しました。一デナリオンは、当時の日当と言われておりますから、2日分の給料。一日一万円としたら、2万円。見ず知らずの人のために差し出したのですから、それをわずかなお金だ、なんて言えません。人助けのために、さっと出せるか、と言えば、容易ではないでしょう。

でも、とんでもない大金でもありません。こう言っては語弊があるかもしれませんが、わずかデナリオン二枚です。その働きを、とうとい隣人愛として歌っております。

わたしたち、教会におりまして、この教えは、やはり響き渡っており、また、浸透しているような気がいたします。教会には、さまざまな奉仕の働きがあります。

壮年会の、清掃作業、松橋教会まで出向いての奉仕作業、婦人会のチャリティセールもそうです。各方面に、こつこつとその名のとおり、チャリティを続けておられます。ほかにも、数えられないほどの奉仕を、援助を、続けております。

みんなで行う援助活動、奉仕活動、また、必要とされるところへの募金活動、そして、もちろん日常的なところで、少しでも、キリストのしもべとして、隣人にお仕えしていきたいという気持ちを、わたしたちは、少なからず与えられていると思います。

このサマリア人のたとえを聞いた者は、その、「行って、あなたがたも同じようにしなさい」という言葉が、きっと残っていると思います。

わたしたちひとりひとりが、できることは、決して、とんでもないことではないかもしれない。それは、きっとデナリオン銀貨二枚のことでしょう。

でも、このたとえ話を通して、それは、その人の持ち合わせのデナリオン銀貨二枚であっても、尊い隣人愛なのだ、と教えられているようです。

わたしたちの小さな働きも、天では、大きな隣人愛として、祝福されているよ、覚えられているよ、そこに、私も共にいる、あなたの小さな愛を通してこそ、私の大きな愛は、実現していく、と語られているようです。

先日、九州教区の平和セミナーが行われましたが、2日目朝の礼拝で、岩切牧師が、讃美歌367番2節の歌詞を取り上げておられました。

「励みて行うちいさきつとめに、思うにまされる平和はひそみ しのびてつとむるかくれしわざに、この世をきよむる 力は宿る」と。

小さな勤めの中に、実は、確かな平和がひそんでおり、誰にも知られることのない小さな奉仕に、この世を清める力が宿っている、という歌詞です。お話をうかがいながら、私自身、改めて、その歌詞を、深く思い返すことができました。

デナリオン銀貨二枚のような働き、でも、それは、何にもまさる隣人愛、この世を清める力が宿る働き、そのことをおぼえておきたいものです。

隣人は誰か、ではなく、「隣人になりなさい」と。イエスのお言葉は、わたしたちを押し出してくれます。

さて、その、「隣人になりなさい」というところ。・・・そこは、ひとつ大きなテーマでありました。もともと、私の隣人は誰ですか、と尋ねられたのが、話のきっかけでした。「隣人を愛することが大事だとおっしゃるのならば、その隣人とはどこの誰ですか」と。

ここにいるAさんと、あそこにいるBさんが、あなたの隣人ですよ、だから、Aさんと、Bさんをしっかり愛してください、お世話してください、とそういうふうに言われたのではありませんでした。いっそ、そういうふうに言われたほうが、やりやすいかもしれません。

でも、隣人とは誰ですか、と尋ねられながら、イエスは最終的に、「隣人とは、この人だよ」と言われたのではなく、「隣人になる」という言い方をなさいました。すなわち、サマリア人のたとえを用いながら、さて、追剥に襲われた人の隣人になったのは誰か、と。

隣人になる。「なる」という言葉。ごく普通の言葉でありますが、しかし、聖書を読んでおりますと、この「何々になる」という言葉は意味深く使われていることに気づきます。

ギリシア語で、ギノマイという単語です。なる、という言葉。このギノマイが立て続けに使われている個所があります。それは、使徒パウロがコリント書の中で綴っている次のようなくだりです。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

伝道するにあたって、出会う人はさまざまです。その中で、自尊心をかなぐり捨てでも、福音のために、自分はどんなひとにもなったと。相手の立場に立って、相手と同じ所に立って、その人が福音を受け入れられるように、そのためならば、自分はどんな自分にもなったと。

「なる」というのは、わたしたちは、今より大きくなることを考えがちですが、実は、なることは、特に、聖書が語る、なることは、自分を小さくさせて、他者にとって必要な自分になっていくことのようです。

そこに追い剥ぎに襲われて倒れている人がいるならば、あなたが、その人の隣人になりなさい、と。隣人。その言葉のとおり、隣にいる人になりなさい、と。

もちろん、それは、24時間ずっと一緒に、というわけでもありません。実際、このたとえの中のサマリア人も、デナリオン銀貨二枚を宿屋の主人に渡すと、自分の旅を進めて行きました。仕事か何かあったのでしょう。離れて行きました。また帰りに寄ります、ともちろん言っていますが、ずっとい続けよ、というわけでもありません。

そのようにできる時もあるでしょうが、わたしたちは皆、限界があります。できる範囲ということも、教えられる気がします。

でも、心を込めて、隣人になる。

そして、「なる」ということ、それは、イエスにこそ、見られることです。

イエスさまは、2019年前に、わたしたちと同じお姿になって、ひとりの赤子の御姿になって、ベツレヘムにお生まれになりました。わたしたちがオギャーと言って生まれるのと同じように、イエスさまは、神の子でありながら、この地上で、しかも貧しい御姿で、人となってくださいました。あなたの友となるためです。

また、フィリピの信徒への手紙にこのようなくだりがあります。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

主イエスは、神の子でありながら、その身分に留まろうとはなさらず、むしろ、人間と同じ姿になられた。しかも、しもべのようになられた、と。

最後の晩餐の席で、弟子たちの足を、ていねいに洗ってくださいました。しもべの姿になられた御姿でした。

そして、それは、弟子たちにたいして、一人一人に対して、隣にいる人、隣人になられた、お姿であったと言えましょう。

「誰が隣人になったか。」

そのお言葉は、もちろんこのたとえ話を通して、追剥に襲われた人を助けるサマリア人であり、わたしたちも、同じようにしなさい、と押し出されています。小さなサマリア人になって行きたいと思います。

と同時に、「誰が隣人になったか」という問いを思いめぐらす時、その問いの向うで、この問いを投げられたお方が、神の子でありながら、人の御姿になられた、しかも、しもべのようになられた、そうして、いつもわたしたちの隣におられる、友となられた御方を思わずにはおれません。

イエスさまの愛は、あなたに注がれています。何があっても、あなたを一人にしない、あなたの隣に来て、いつもそばにいる。その愛のゆえに、イエスさまは、神の子でありながら、人の子となり、しもべのようになってくださいました。

そこに天の福音があります。この主の愛によって、わたしたちは救われる。

その喜び、神に愛されている、喜びが、またわたしたちに力を与えます。さあ、今度は、あなたも隣人になりなさい、と。

わたしたちのために、どこまでもお仕えくださる主を、その愛を、しっかりとこの胸に刻みましょう。主はあなたの隣にいてくださいます。

あなたの上に、神さまの祝福と平安がありますように。

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ヨハネによる福音書16章12-15節

16 6月

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。 16:13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。 16:14その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 16:15父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

三位一体主日(2019年6月16日 神水)

 「いつも、共に」  ヨハネ福音16章12-15節

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

こう言って本日のヨハネ福音書16章は始まっておりました。

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

これは、私たちのことをとてもよく象徴していることと思えます。

神さまが、私たちにお伝えになりたいこと、それは本当はもっともっといっぱいある。でも、それを全部、伝えようとしたら、私たちのほうがパンクしてしまうということ。

小学校1年生の子供に、高校で習うような外国語や、物理や、数学、歴史などを全部伝えようとしたって、それは無理なことであります。

同じように、神さまが私たちにお伝えになろうとしていること、それは、全部、やろうと思えば、それは私たちには理解できません。

となれば、何が必要であるか。「これだけは、これだけは知っておいてほしい」という肝心かなめの核心となることだけ、伝えることとなります。

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

神さまのお考え、神さまの御計画、神さまの御心。それは、すべて私たちが知ることなどできません。

それはそうです。神様が創造者で、私たちは、その神様によって造られた被造物に過ぎないのですから。

わたしたちも何かを作ることがあります。皆さんも、大なり小なり、今まで何かを作って来られたことがおありでしょう。子供の頃の工作なども含めて。

私も子供の頃、油粘土で遊ぶのが好きでした。油粘土は何か作っては、また壊し、また次のものを作る。ずっとずっと遊ぶことができます。おかげで私の子供の頃は、爪の中によく粘土が詰まっていました。しょっちゅう、粘土で遊んでいたからです。

あるいはスポーツカーのプラモデルを作るのも好きでした。

皆さんの中には、絵を描かれる人もおられるでしょう。陶器の作品を作られる方もおられるでしょう。短歌や詩を作られる方もおられるでしょう。

色々作る。その際、作者は、作品を知っています。どういう構造になっているか。どういう順番で作ったか。どの辺に力を入れたか、どの辺に思いを込めたか。

作品が、作者を知っているのではありません。当たり前のことですが、作者が、作品を知っています。

神さまは私たちをお造りになりました。

当然、神様が、私たちを知っておられるのであって、私たちが神様を知っているのではありません。神様は、私たちのことを全部知っておられます。だって、作者ですから。

私たちはこの神様に造られたもの。造られたものが造ったものより優れているわけはありません。

神さまは、私たちに、知ってもらいたいことがおありのようです。

私たちは確かに造られたものです。

でも、粘土の作品とちょっと違います。

それは意志を持っていること。魂を持っていること。造ってくださった方に感謝することもできるし、造ってくださった方に背を向けることもできます。謙虚になることもできるし、傲慢になることもできます。

神などいるか、と笑うこともできるし、神の御前に、ひれ伏し祈ることもできます。

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。

造られた私たちに対して、神さまは、お伝えになりたいことがある。いっぱいある。わたしたちが神様の特別な思いを込めて、造られたものであることを示しているといえましょう。

とはいえ、被造物に過ぎない私たち、限りある体と心を携えて生きる私たちだから、全部をうけとることなど不可能。

神様は、私たちのすべてを受け取ってくださいますが、神さまのすべてを私たちがすべて受け取るのは不可能であります。

そこで、神さまは、全部を伝えることはなさらなくても、このことだけは、という真理を伝えてくださいます。

言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

主イエスが天に帰られて、わたしたちのもとにおいでになった聖霊。

ここでは真理の霊と表現されています。

このお方が、私たちを教える。全部を教えるのではない。

真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

何でもかんでもではなく、真理を悟らせる、と。

核心です。急所です。心臓です。真理というのは。

この世界でも、あれこれの知識というのがあります。博学な人がいます。クイズなどの難しい問題にもポンポン答える人もいます。それは、知識です。

でも、知識とは別に、人として、知っておくべき、人として身に着けておくべき、また人として、生きて行くために、知っている、動かすことのできない真理というものがあります。

時代が変わっても、状況が変わっても、動かないもの。

自分自身が倒れそうな時、危機に面した時、不安にさいなまれる時、などなど、そのような時にこそ、思い起すことのできる教え、それを思い起したら、もう今ある様々な不安も消えてしまうというもの、自分を支えるもの、そのようなもの、それが真理です。

いくらクイズにたくさん答えることのできる知識があっても、大学で博士号を取るほどの勉強を積み重ねても、ここぞという時に、自分を支える真理、また自分だけでなく、他者をも救うことのできる慰めに満ちた真理、助けとなる真理、これを持っていることの方が、ずっと、ずっと尊いことであります。

神さまは、私たちにたくさんの知識を持つように、とは導かれませんでした。

・・・もちろん、知識を持ってはいけないということではありません。

博識であることはいいことです。世の中で役に立つことがいっぱいあるでしょう。

その博識が、だれかを助ける場面もいっぱいあるでしょう。

でも、神さまは、命の神さまは、私たちを救いへと導くために、まことの命へと導くために、多くではなく、むしろ、ただ一つの真理へと導かれました。

そしてその真理へと導くために、神は、独り子イエスさまを私たちのもとに送ってくださり、さらに、イエスさまが天に帰られたあと、真理の霊を送って、私たちを導いておられます。今も、です。あの時から、ずっと、変わりません。

その真理とは。神は、あなたを愛しておられるということであります。

御自身の独り子イエス・キリストを、十字架の死に渡して、父なる神は、だまって見ておられました。断腸の思いだったでしょう。自分の子供ですよ。

天の、独り子。かわいい自分の子供。その子供を、このわからずやで、傲慢で、いつ何をしでかすかわからない人間の世界に放り込む。

そして、案の定、この真理に満ちた神の子を、人間たちは捕まえて、蹂躙し、あざ笑って、つばをかけ、手足に釘を打つ。やりで刺す。

そして、挙句に、「お前が神の子なら、そこから降りて来てみろ」とあざ笑う。しかも、その苦しみの中にあるさなか、兵隊たちは、はぎ取った衣服をくじ引きで分け合う。

父なる神は、どんな思いで、見ておられたでしょう、どんなにその心がお痛みになったでしょう。

でも、手を出されませんでした。黙って見ておられました。

人間の罪を、この独り子に、身代わりに背負わせるためでした。

あなたの罪を帳消しにして、あなたを救うためでした。

その身代わりの痛みを、すべて独り子に背負わせるためでした。

それほどに、御自身の独り子を犠牲にするほどに、あなたを愛しておられる。

あなたはそれほど、神さまから愛されている。

これが真理です。多くの知識ではありません。ただ一つの真理。

あなたを神は愛しておられる。あなたは神様の宝物、かけがえのない宝物。

あなたのためなら、神さまはすべてを捨てても構わない。そうお思いです。

私たちが、ここで神を礼拝する。それは、ただこの一つの真理をいただいたからです。

そして、わたしたちはどんな状況でも、希望を捨てません。このただ一つの真理をいただいたからです。

大切な人の死に遭遇する。悲しいです。大切な人であればこそ、その寂しさは言いようがありません。でも、神はあなたを愛しておられる、あなたを救う、わたしたちは、やがてこのお方のみ前で、再び会う。

その真理をいただいているから、希望の中に生きることができます。

神の愛、その愛を携えておいでになった独り子イエス・キリスト、そしてその神の愛を、天の真理をわたしたちに伝え、わたしたちを信仰に導く真理の霊なる聖霊。

何ゆえ、神は、このような、いわゆる三位一体と呼ばれる形なのか。

わかりません。人間ですから。

造られたわたしたちですから。細かいことはわかりません。

でも、知っています。一つの真理は知っています。

神は、わたしたちを愛しておられるということ。

その愛を、その真理を伝えるために、いちばんいい方法を取られたということ。

それだけ。それを知っていれば十分です。

そして、わかります。父なる神は、いつも人々に言われた。「恐れるな、わたしはいつもあなたと共にいる。」と。

また、御子イエス・キリストは、お生まれになった時、インマヌエル、「神我らと共にいます」と言われたこと。

そして、「あなたがたをみなしごにしないために」と、「いつもそばにいるために」と天の父と、御子イエスさまが送ってくださったのが聖霊であるということ。

御心は、いつも、あなたと共にいる。

それを知っているように、そのたっとひとつの真理へとわたしたちは導かれました。

父、御子、御霊の神、三位一体と呼びますが、まるで、その教えを聴いていると、四位一体と呼んでもいい程に、わたしたちをその中に巻き込んで、また、いつも一緒にいてくださる神の御心が伝わってくるようです。

もちろんわたしたちは、神ではありませんから、四位一体などと言ったら、おこがましいと思います。

でも、それほどに、神はあなたを愛しておられる、あなたから離れることはない、というその真理を、今日、改めて思い起し、信仰に生きる喜びを新しくしたいと思います。 <

ルカによる福音書17章20-21節

1 5月

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

2019年5月1日(水) 慈愛園朝の職員礼拝にて


私は、大胆に、キリストを信じますと、大声で告白できなかった。

そうだ、私は、自分がクリスチャンであると、告白すべきだった。

今、セントヘレナにあって、もはや遠慮する必要はない。

私の心の底に信じていた事実を告白する。

私は、永遠の神が存在していることを信じる。

その方に比べると、バートランド大将よ、貴方はただの元首に過ぎない。

私の天才的なすべての能力をもってしても、このお方と比較する時、私は無である。

完全に無の存在なのである。

私は、永遠の神キリストを認める。

私は、キリストを必要とする。

私は、キリストを信ずる。

私は、今セントヘレナの島につながれている。

一体誰が、今日私のために戦って死んでくれるだろうか。

誰が、私のことを思ってくれているだろうか。

私のために、死力を尽くしてくれる者が今あるだろうか。

昨日の我が友はいずこへ。

ローマの皇帝カイザルもアレキサンダー大王も忘れられてしまった。

私とて同様である。

これが、大ナポレオンと崇められた私の最後である。

イエス・キリストの永遠の支配と、大ナポレオンと呼ばれた私の間には、大きな深い隔たりがある。

キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献身は、全世界を包んでいる。 これを、死んでしまったキリストと呼ぶことが出来ようか。

イエス・キリストは、永遠の生ける神であることの証明である。

私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。

イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。

少し長くなりましたが、今お読みしたのは、セントヘレナ島に島流しにあったところで、ナポレオンが書いた遺書の全文であります。彼は、人生の最後に、私はキリストを信じる、と叫んでいる。それを言えばよかった、と後悔も含めています。そして、かつてのローマ皇帝も、アレキサンダーも、そして自分自身も、大帝国を夢見たが、それは皆かなわなかった。世界で唯一、広がり続けているのはキリストの愛の帝国である、と歌っています。

その通り、キリストの愛の帝国は広がり続けて、今、ここにある慈愛園も、キリストの愛の帝国として、生まれ、もう百年もたちました。

今日は、世の中では、令和ということでお祭り騒ぎのようですが、キリストの愛の帝国が広がり始めて、2019年、このことをこそ慈愛園の皆様は、お忘れなくお願いします。ナポレオンだろうが、アレキサンダーだろうが、天皇だろうが、みんな人間ですから、数十年です。いつか終わります。

でも、キリストはまことの神の子ですから、それは終わることなく、永遠に続きます。

今日お読みしましたルカによる福音書には、神の国はどこにあるのか、と尋ねられたイエスが、それはどこかな、あそこかな、と探すのではない。神の国はあなたがたの間にある、と言われた言葉でした。

慈愛園も神の国です。世界中にあるキリストの愛の帝国のひとつです。どんどん広がって行くキリストの世界です。この地で生きることができることを感謝します。

そしてこの愛の国を愛の国とする働きは、職員の皆様のお働きです。皆様のお働きに、神様の祝福豊かにありますように。

ルカによる福音書20章9-19節

7 4月

20:09イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 20:10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 20:11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。 20:12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 20:13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』 20:14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 20:15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 20:16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 20:17イエスは彼らを見つめて言われた。

「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。

『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。』

20:18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 20:19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

2019年4月7日(日) 於健軍教会

『教会の土台』 安井宣生牧師就任式礼拝

4月になりました。桜の花びらが舞う季節、それだけでも、気持ちを新たにさせられますが、日本という国で暮らす私たちにとりましては、4月は、新しい時が始まる節目でもあります。

私も一昨日、ひかり幼児園の入園式、そして、昨日、愛光幼児園の入園式に行って参りました。やや緊張した面持ちの新入園児たち、そして、ひとつずつ学年が上がって、やはり不安や期待をのぞかせている園児たち、また、その保護者さんたち。

おそらく、こちら健軍教会でも、めぐみ幼稚園などで、入園・進級式が行われたことと思います。

そして、健軍教会、ならびに甲佐教会にとりましては、安井宣生牧師と、そのご家族をお迎えになり、やはり新しい歩みが始まる主日となりました。

安井先生ご家族は、すでに木曜日にこちらに御到着なさり、私のおります神水教会にもご丁寧に挨拶に来てくださいました。

その意味では、すでに安井先生の新しい牧会生活は始まっておられます。

が、しかし、やはり最初の日曜日、最初の主日、この日は記念すべき時であります。

私たち、教会に連なる者にとりましては、この日、この時が大事。

日曜日を、「週の初めの日」と呼ぶことがありますが、あらゆることの初めの日と呼んでもいいでしょう。

健軍教会、甲佐教会の、新しい歩みとなる週の初めの日。この日に感謝します。

甲佐教会、健軍教会の皆様の上に、そしてこの地で牧会をなさる安井先生、そのご家族のお一人お一人の上に、私たちの思いを超えた、神の恵みがありますように。

さて、その記念すべき今日の日は、四旬節第五主日、次週からはいよいよ受難週を迎える、そのような時であります。新しい牧師先生家族を迎えて、めでたい、喜びに満ちた時ではありますが、主イエスのみ苦しみを思う四旬節であります。

しかも与えられた聖書の言葉は、血で血を洗う、凄惨な出来事の話であります。

就任式を司らせていただくにあたって、せっかくだから、もうちょっと喜びに満ちた感じの、他の聖書に変えることもできましたが、しかし、新しい歩みをなさる健軍教会、甲佐教会の皆様にとって、安井先生と、そのご家族にとって、本日のみことばをご一緒に聴くことが、意義深いと思いまして、そのままこのみ言葉での礼拝を選びました。

それは、主イエスのなさったひとつのたとえ話であります。

ぶどう園を所有している主人がいた。この人は、そのぶどう園で働く農夫たちを雇い、彼らに葡萄園を託して、長い旅に出たと。

何年かたったのでしょう。収穫の時を迎える。

主人は、僕を遣わして、収穫を納めさせようとしますが、農夫たちは、その僕を袋叩きにして、何も持たせず、追い返す。その後、主人は、ほかの僕たちを、二度、三度と送りますが、農夫たちは、収穫を納めないで、追い返す。

そこで、主人は、「かわいい息子を送れば、彼らも収穫を渡してくれるだろう」と願って、息子を送り出す。すると農夫たちは、「これは跡取り息子だ、これを殺してしまえば、このぶどう園は、自分たちのものになる」と言って、息子を殺してしまう。

このようなことがあったから、主人は、きっと、この農夫たちを殺し、他の人たちに、このぶどう園をまかせるであろう、と。そんなお話です。

土地を持った人が、その土地を誰かに預けて自分は旅に出る。それは当時、珍しくなかったようであります。これを聞いていた人たちは、身近なたとえとして、聞いていたのではないかと思います。

ぶどう園を任されて、一所懸命仕事をして、いよいよ収穫の時を迎える。

私、学生の時に、初めて自分でプチトマトを植えて、育てて、そして実ったプチトマトを食べた、そういう経験があります。楽しかったです。美味しかったです。野菜嫌いの子供も、自分で世話をして、育てたものならば、食べてみる、そして好きになることもあると聞いたことがあります。

ぶどう園を任されて、いったいどれほどの月日がたったのか。

ふと見れば、立派にぶどうがなっている。また、日々の労働を続けてきた、自分たちの手のひらを見れば、やわな手ではなく、ごつごつとした、農夫の手になっていたことでしょう。汗を流してきた日々が思い出されるでしょう。

そこへ、「ぶどうがなりましたね、では、持っていきますよ」と使いの者がやって来る。今ならさしずめ、背広でもきちんと着込んだ人かもしれません。「ご苦労様」とか言いながら、「そのぶどうをいただきましょう」と。

農夫たちは、惜しくなったのでしょう。手渡すのが。

もともとご主人の葡萄園で働かせていただいていた。雇っていただいた身。その土地で得られた収穫は、土地の主人のもの。当たり前です。

でも、この土地で働いてきたのは自分たちです。主人ではありません。

主人は、またその僕は、このぶどう園で、汗を流したことなどありません。

ここで毎日、雨の日も、風の日も、春も、夏も、秋も、冬も、やってきては、その手で、ぶどうを育てたのは、農夫たちです。

実ったぶどうが、まるで自分の子供のようにすら思えたかもしれません。

「この土地は、俺たちが、ここまで育ててきたのだ」と思っていたことでしょう。

でも、それは、主人の土地です。すべては主人のものです。

農夫たちが、もしも、主の祈りを知っていたならば、「国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり、アーメン」という祈りを思い出さないといけないところです。

これが、今日のたとえ話の前半部分です。まだ後半に、大いなるメッセージがありますが、それでも、この前半の話で垣間見える、神と私たちの関係・・・あなたと神様の関係、神様の前にある、あなたの姿、私の姿が、鮮やかに映し出されております。

主人を追いやって、自分が主人になろうとする姿であります。

私、今日は普段と違う車で来ました。少し前に事故に遭って、車修理中です。それでお借りしている車なのですが、運転するときに神経を使います。人の車を借りたご経験のある方、おられると思いますが、その時、普段より神経を使われると思います。自分の車なら、どうでもいいわけではありませんが、人の車を借りているときは、より一層、緊張します。こすらないように、傷つけないようにと。

でも本来、何をするにも、そうでないといけないのでしょう。だって、この世界は、すべて神様のものですから。この体だって、この命だって、また、自分の時間だって、今日この後、お献げするお金、献金。それも、自分のお金ではないでしょう。神様からお預かりしているものでしょう。本来は。国と力と栄えとは限りなく神様のものです。

健軍教会のお働き、それは神様にお献げするお働きです。そのようなこと、今更言われなくてもよくお分かりの皆様でしょうけれど、すべては神様のもの、神様のためのものです。

教会では、礼拝堂が新しくなりますと、献堂式を行います。

以前、ある教会で、信徒の方が献堂式の際、献という字を、建築の建、建てると書きました。耳で聞いただけでは、それは、建物を建築した儀式が、建堂式なのか、と勘違いしそうになります。でも、そうではなくて、教会が出来上がると、出来上がったこの教会堂を、神さまにお献げする。それが献堂式です。献金の献の字です。

収穫のぶどうを、お献げしなければなりませんでした。

でも、自分のものとしたくなったのです。

この話の中に、私がおります。農夫の姿の中に、私がおります。あなたもおります。

主人を追いやって、自分が主人になろうとする姿であります。

そんな農夫たちならば、殺して、他の人に代わってもらおう。

たとえ話は、そう言って終えました。

すると聞いていた人々が言いました。「そんなことがあってはなりません。」

それは、おそらく、農夫たちが、そんな立場をわきまえずに主人の土地を奪おうとする、まして、その息子さんを殺してしまおうなんて、「そんなことがあってはなりません。」と言ったのでしょう。

テレビのニュースなどを聞いていて、もう耳を塞ぎたくなるような事件を聴くことがあります。「いや、もう聞きたくない」、そんな気持ちになることがあるのと似ているでしょう。

「そんなことがあってはなりません。」

でも、その言葉、不思議なことに、神様がおっしゃる言葉になりました。神様の思いが込められた言葉になりました。

主人を忘れて、自分のことばかり考えている私たち、わたしたちが滅びて、捨てられていく、「そんなことがあってはならない」と主人である神様が、おっしゃる。

「あなたが滅びるなんて、そんなことがあってはならない」と。

角本浩が滅びる。「そんなことがあってはならない」と。

みなさん、ご自分の名前を入れて、読んでください。角本浩が滅びる、「いくら罪深いとしても、そんなことがあってはならない」と。

皆さん、自分の名前を入れてください。「あなたが滅びるなんて、そんなことがあってはならない。」

そんなことがあってはならないので、どうしたか。

農夫たちに殺された一人息子が、捨てられたあの息子が、家を支える隅の親石となったのだと。あなたを支えるために、あの息子が隅の親石となったのだと。

この、「あなたを滅ぼすわけにはいかない」「そんなことがあってはならない」という、神の御心が、教会を根底から支える土台です。隅の親石です。

旧約聖書のヨブ記の中にこんな一節があります。

わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。/誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。/誰が隅の親石を置いたのか。

誰が隅の親石を置いたのか。・・・神様が、置いてくださいました。この健軍の地に、甲佐の地に。

皆さんを支える、イエス・キリストという隅の親石が根底から支えています。

あなたが滅びるなんて、そんなことがあってはならないという御心によって、です。

昨日、愛光幼児園の入園式にいました。私のすぐそばにいた新入園児の子供さん、まだ小さくて、お母さんに抱っこされています。

会が進むにつれて、眠くなってしまって、いよいよ新入園児紹介と言って呼ばれた時には、すやすや眠っていて、会場の笑いを誘いました。

お母さんの腕の中は気持ちがよくて、その腕の中で安心しきっていたのでしょう。

皆様も、神様のおおいなるみ腕の中に抱かれています。大事な子どもですから。

そして、神の家である、この教会に来れば、あのおさなごのように、安心できます。あなたを滅ぼすまいと、あなたを支えようと、隅の親石となってくださったお方がおられるからです。土台となって支えておられます。教会を、そして、あなたを。

たいへんしっかりした信徒の方々が集う健軍教会、甲佐教会であり、また、安井先生も素晴らしい牧師、そして仲の良いご家族。わたしは心配はちっともしていません。

でも仮に、牧師が少々だらしない時があっても、どうにもならない問題が起きたとしても、大丈夫。あなたを救うために、隅の親石となってくださったお方がおられます。それが教会です。

新しい歩みが始まりました。主はいつもあなたと共におられます。

皆様の上に、神の導き、祝福、豊かにありますように。

ルカによる福音書13章1-9節

24 3月

 13:01ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 13:02イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 13:03決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 13:04また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 13:05決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

13:06そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 13:07そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 13:08園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 13:09そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

2019年3月24日(日)四旬節第三主日

「あなたを救うために」  於神水教会

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。と言って始まる、今日のルカによる福音書の話、「いったい、何のことやら・・・?」と思われる方も多いかもしれません。

さらにその後、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。と続いている話も、初めて耳にする人にとっては、「一体何のことか」と思われることでしょう。

簡単にお話しますと、舞台はエルサレム。ユダヤの人々にとっての都です。都と言っても、ただの都会ということではなく、彼らにとって大事だったのはそこに神殿があったことです。今でも聖地という言い方をするとおり、中心的な場所であります。

その聖地エルサレムに、ある時、ガリラヤ地方の人々が祈りを献げに行きました。そして、当時の慣例ですが、犠牲の動物などを捧げていました。羊とか、鳩とか、動物をいけにえとして、ささげる。そういう習わしでした。

聖地エルサレムにきて、そのように礼拝をしていたその時でした。ローマ帝国の総督ピラト、彼は、のちにイエスに十字架刑の判決を下す役割も担いますが、ピラトが、兵士たちを送り、礼拝中の彼らに、襲い掛かり、惨殺しました。

なんでそんなことをしたのか。細かい事情はよくわかりません。でも、とにかく、そのような蛮行が繰り広げられました。

「いけにえの中に彼らの血を混ぜた」とあります。本当に、いけにえの動物の血の中に、人間の血を混ぜたかどうかはわかりません。

よりによって、いけにえの血を流しているときの流血事件だったために、当時の人々がこういう言い方をしていたのかもしれません。いずれにしても、そのような事件が起こった。これが、初めに言われていることです。

もう一つは、事件ではなく、事故の話です。塔が倒れて、下にいた人たちが下敷きになったという痛ましい事故。

事故は、突然やって来ますね。ちょうど一週間前、先週の日曜日、出張で、わたしは大分県の日田教会に行っておりましたが、帰り道、事故に遭いました。車同士の接触事故で、お互い、運転手にはかすり傷もなかったのが、幸いでした。

いつ、どこで、どんな事故が起こるか。だれにもわかりません。

エルサレム神殿の境内地にあったシロアムと呼ばれる塔が、ある時、倒れるという事故が起こります。ひとつの塔が倒れる。

当たり前ですが、ある方角に向かって倒れます。そうして、倒れてきたところにちょうど居合わせた人々が、下敷きになって犠牲となってしまいます。

ほんの少し、ずれていたら、運命が変わります。

家を出る時の時間、そこへ行くまでの時間、なにかがちょっとずれていたら、事故に遭わなかったのに、と思えるようなことがあるでしょう。

私も、先週、事故に遭った際、思いました。対向車線を走ってきた車の運転手さん、「一瞬、ぼーっとしていた」とおっしゃっておられましたが、中央線をはみ出して、私の車に突っ込んできました。

それは、本当に、その一瞬です。その人は、ずーっとはみ出して運転しておられたのではなく、その瞬間、ハンドル操作を誤って、中央線を出て来てしまいました。

すぐにハンドルを切って戻されたから、車と車が、こすり合う程度の事故で済みました。

しばらくして、わたしはふと思いました。

私が日田教会を出る時間があと少し早かったら、あるいはあと少し遅かったら、事故に遭わなかったのに、と。あの日、わたしは行きは高速道路を使ったのに、帰りは、ちょっとのんびり帰ろうと、下の道路を走りました。

それも、一度、高速道路に向かいながら、たまにはのんびり行こうと思って、道を変えて行きました。さらに、途中、のどが渇いて、お土産屋さんに入って、お茶を買い、店内をうろうろしました。

そうこうして進んでいて、もうここしかないというタイミングで、事故に遭いました。あと少し、何かがずれていたら、事故は起こりませんでした。

そんなものなのでしょう、事故というものは。何かがちょっとずれていたら、と思うけれど、何もずれていない。その通りの時間なのです。

シロアムの塔が倒れて、18人の人々が下敷きになったようです。

よりによってその日、その時、そこに居合わせたために。被害者は被害者であって、だれも悪くはありません。

ところが、そのような事故を見て、人々の中に、人々の心の中に、「きっと、あそこで、あんなタイミングで死んだからには、何か、神様の罰を受けたのではないか」「人にはわからないけど、神にはわかる、というように、あの人たちは、何らかの罪を犯していて、その罰を、その裁きを受けたに違いない」と受け取る、そういう思いがもたげる。

神殿での惨殺事件も、「よりによって、神殿でいけにえを捧げているときに、惨殺されたということは、それこそ神の裁きではなかったか」などという声が上がる。

「だって、神を礼拝するその時に、殺されるなんて、正しい人であるならば、そんなことは起こらないだろう」と、そんな思いを抱いていたようです。

それがこの話の発端です。

そのような心理は、ある意味、だれもの心の中にあるのかもしれません。

そして、その思いは、ただ、その犠牲者となった方々を責めるばかりでなく、「そうなっていない自分は、守られているんだ」「自分は神に認められているのだ」という自己義認も大いに含んでいます。

そのような話をお聴きになったイエスがおっしゃったことは、「決してそうではない」という強い否定でした。

その否定は、「犠牲者たちが、何の罪もない」ということではありません。イエスが強く否定しておられるのは、「ある人たちが罪深くて、ある人たちは、罪がなく、清い」という考えにたいして、「それは絶対に違う」ということであります。

簡単に言うと、イエスは、事故に遭おうが、遭うまいが、事件に巻き込まれようが無事でいようが、人はみな、神の御前に等しく、罪深い者であるということ、そのことであります。清い人なんかいないということです。

私たち牧師は、その点では、間違って見られることがあります。「きっと清い人なんだろう」と。そう思われることがあります。「決してそうではない」と強くこちらも言いたくなります。

もちろん、神様のためにお仕事をしておりますから、神様の顔に泥を塗るようなことはしないようにしておきたいですが、それでも、人間です。

何の仕事をしていようと、どんな肌の色をしていようと、何歳であろうと、何人であろうと、同じ人間です。同じ人間の中に、罪を犯したことのない、清い人がいるなんて思ったら、それは大間違いです。決してそうではないのであります。

いけにえの中に血を混ぜられたという犠牲者たち、シロアムの塔の犠牲になった人たち、「その人たちが特別に罪深い?」・・「とんでもない。」「決してそうではない。」

神の御前に、みんな欠け多き存在、みんな助けがないと、ゆるしがないと、生きていけない存在。「自分は、事故に巻き込まれていないから、清いんだ」なんて思ったら、、大間違いだ、と叫んでおられます。

だから、皆、等しく、罪人なのだから、皆に等しく、必要なことがある。

それは「悔い改めることだ」と語られています。みんな悔い改める必要があると。

悔い改め。聖書のギリシア語で、メタノエオーといいますが、それは、「もう、悪事はしません」「足を洗います」「過去を反省します」という意味の悔い改めではありません。そうではなく、これは、向きを変える、ということを意味します。

それまで、西を向いて生きた人は、東を向いて生きる。南を向いて生きてきた人は、北を向いて生きる。

つまり、百八十度向きを変える。メタノエオーには、そのような意味があります。

これを実行するためには、まず自分がどっちを向いて生きているのか、何に背を向けているのか、を知らなければなりません。

私たちはみな、自分の方を向いています。今日の話で言えば、ある人たちは、自分の正しさに目を向けています。自分を信じています。自分を守ることを考えています。

それは、ある人たちの話ではありません。皆、等しくです。私たち皆に共通していることです。・・・正しさばかりではありません。自分の情けなさ、自分の罪、自分の弱さ、そこにも、きっと向いているでしょう。

その結果、何に背を向けているか。神の憐れみに背を向けています。憐れみ深い神様のことをすっかり忘れているとき、わたしたちは、自分の罪ばかり見ています。

また、憐れみ深い神様をすっかり忘れているとき、わたしたちは、傲慢になっています。鼻が天狗のようになっています。「神などいらぬ、自分は立派だ、自分は強い、自分は正しい」といい気になる。その時もやはり、憐れみ深い神様を忘れています。

いや、もっと正確に言いましょう、その時、十字架の上のイエスさまを忘れています。血を流しておられるイエスさまを、忘れています。背を向けています。

十字架上のイエスさまに背を向けているとき、わたしたちは、思い上がりを抱き、また、絶望を抱いています。

その私たちに語りかけます。「主を仰ぎなさい」と。「あなたがもしも、自分の罪深さに打ち砕かれそうな時、ちゃんと向きを変えて、イエスさまを見なさい」と。「あなたのために、十字架にかかられた主を見なさい」と。

その時、あなたは、このお方によって贖われていることを知る。このお方の愛によって、救われていることを知る。

また、あなたが、すっかり思い上がって、自分の力に酔いしれているような時、やはり十字架の上の主を仰ぐこと。

私たちは、所詮、最後は灰になる身です。火葬場に行って、最後は、灰になります。

聖書は、だから、私たちのことを土の器と呼びます。消えてなくなります。

シロアムの塔の下敷きになった人たちだけではありません。皆、等しく、塵に、灰になって終わりの、土の器です。

ただし、この土の器を愛しておられるお方がおられる。

この土の器のために、御自身の命を捧げてくださった方がおられる。

この土の器にまことの命を、永遠の命を与えるために、代わりに死んでくださった方がおられる。

十字架の上のキリスト。こちらに向きを変えるのです。

今日は、二つの事件、事故を通して、人々の心の中にあったあらぬ思いがきっかけになって、「決してそうではない。」というイエスさまの強い言葉を聞いておりました。

わたしたちも、いま、誰かを責めたり、裁いたりする心があるならば、その思いに対して、「決してそうではない。」と叫ばれる主のみ声を思い出しましょう。

また、もし、私たちが、「どうせ自分なんてダメな存在だ」と思い、落胆したり、絶望しているのならば、「決してそうではない。」と叫ばれる主のみ声をやはり思い起したいものです。

なぜなら、あなたのために、主はその身を献げてくださったのですから。

あなたは神様の大切な宝なのですから。どんなひとりひとりも、尊い命。

十字架上のイエス・キリストのお姿が語りかけます。

春は近付いていますが、四旬節の日々は続きます。十字架の上の主を、わたしたちのために、犠牲となられた神の小羊を深く、思い起しましょう。

イエスさまは、あなたの救い主です。いつも共におられる、あなたの友です。

わたしたちのために、わたしたちの救いのために、成し遂げられた主のみわざを忘れず、歩んでまいりたいと思います。

詩編100編

3 2月

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。

感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。

感謝をささげ、御名をたたえよ。

主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。

2019年2月3日 「恵みに感謝しよう」 神水教会総会礼拝

喜び、恵み、讃美、感謝、慈しみ。

詩編100編には、こういった言葉が、短い文章の中に繰り返されます。

喜び、恵み、讃美、感謝、慈しみ。

ここでいつも礼拝をしている皆様にとりましては、聞き慣れた言葉ばかりでありましょう。

聞き慣れているというか、信徒の皆様にとっては、喜び、恵み、讃美、感謝、慈しみといった言葉は、もう、自分の体の中にしみ込んでいるようなものかもしれません。

たとえば、朝だれかと出会うと、「おはようございます。」と挨拶します。それは、普通にこの日本で生活をしていれば、当たり前のことであって、特に珍しい言葉でもない。

お礼を言いたいときは、「ありがとう」「ありがとうございます。」と言う。

もう体の中にしみ込んでいて、生活の中に入り込んでいて、別に、考えて、言うほどでもない。

そのくらい、当たり前になっていると思います。

それと同じように、クリスチャンのみなさんにとって、喜び、恵み、讃美、感謝、慈しみといった言葉は、もう日常的な言葉、「おはよう」や「ありがとう」などと同じように、自分の生活の中の普通の言葉となっているのではないでしょうか。

もしそうであるとするならば、なんと幸いなことでありましょうか。

教会に全然通っていない人、キリスト教というものを縁のないものと思っておられる方々にとりましては、喜び、恵み、讃美、感謝、慈しみなんて言葉は、決して当たり前の言葉とは限りません。

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

感謝の歌をうたって主の門に進み

賛美の歌をうたって主の庭に入れ。

感謝をささげ、御名をたたえよ。

おそらくいつも教会に来ておられる皆さんにとって、特に難しい単語はないだろうと思います。自分の考えとかけ離れたものでもないと思います。

むしろ、当たり前のことを言っていると思えるかもしれません。

主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

感謝の歌をうたって主の門に進み

賛美の歌をうたって主の庭に入れ。

感謝をささげ、御名をたたえよ。

日常的なことと思える。

事実、今も、私たちは、ここに、こうして、主を喜び、主に感謝し、主を讃美するために、集っています。いつものとおりに・・・何と幸いなことでしょう。

私たちは、普段、礼拝を守ります。「礼拝を守る」という言い方をよくいたします。

礼拝を守る。その通りです。私たちは、いつも礼拝を守っている。

今日も、この良き日に礼拝を守っています。

でも、本当は、礼拝が私たちを守っているのではないでしょうか。

あなたが礼拝を守っている。それも確かなこと。

でも、もっと確かなことは、礼拝があなたを守っていることであります。

礼拝が、あなたを世の思い煩いから、守っている。

礼拝が、あなたを、横道にそれることから守っている。

礼拝が、あなたを、罪から守っている。

礼拝が、あなたを、絶望から守っている。

そして、礼拝があなたを、讃美するあなたに導いてきた。礼拝が、あなたを、喜びへと導いている。

礼拝が、あなたを、主につながる者としている。・・・・

神水教会の70周年記念誌を見ると、パウラス先生が、日本を離れられる時、「慈愛園を、祈りと、信仰と、聖書の言葉、イエス・キリストの言葉によって守っていきなさい」と言われたと伊豆永高徳兄が書いておられます。

慈愛園は信仰によって守る。御言葉によって守る。祈りによって守る。

別の言い方をすれば、礼拝によって守る。

どんなに屈強で頼もしいガードマンがいても、・・・いてくれていいのですが、・・・それよりも、本当に慈愛園を守るのは祈りだと。聖書だと。信仰だと。つまり礼拝だと。

私たちが礼拝を守る。でも本質は、礼拝があなたを、私を守っています。

詩編100編は、礼拝を守り、主をほめたたえる、この幸いを歌っています。

そして、その喜びへと招いています。

誰を招いている。みんなを招いています。特定の誰かではありません。

詩編100編は「全地よ、」と呼びかけています。

「神に選ばれた人々よ、」ではありません。「心の清い、立派な人よ、」でもありません。

「全地よ、」です。

クリスチャンだけではありません。「全地よ、」です。

神水教会におりますと、その言葉が実現しています。

神水教会では、クリスチャンだけの礼拝を守るのはめったにありません。

いつもクリスチャンでない、いろいろな方々がおいでになります。

神水幼稚園の関係の方々、慈愛園の関係の方々、九州ルーテル学院や九州学院の方々、また、皆さんのご家族やご友人、YMCAの方々、そして近隣住民の方々。

今日も後で、聖餐式を行います。その時、洗礼を受けてクリスチャンとなった方々には、キリストのからだであるパン、キリストの血であるぶどうジュースを配ります。

そして、洗礼を受けておられない、クリスチャンでない方々には、祝福の祈りをささげております。この、祝福の祈りがなかったためしはありません。

私も早いもので、神水教会に参りまして3月で丸9年、4月からは、こちらに参りまして10年目を迎えます。

一年に50回以上の礼拝を守ってきましたから、かれこれ500回近い主日の礼拝を、わたしはここで過ごしてきたことになります。

そして聖餐式も何百回も司式してきました。

洗礼を受けていない方がいつもおられます。祝福の祈りをささげる方々が、必ずおられます。いなかったことがありません。クリスチャンしかいない、という礼拝は記憶にありません。

そして、それだけではありません。

ここでは、この土地では、神水幼稚園の園児や保護者の方々、先生方、慈愛園の子供たち、ご年配の方々、職員の方々、色々な場所で、讃美歌を歌います。聖書を聞きます。祈ります。

ちょうど、おとといもここで神水幼稚園の年長さんの礼拝を行いました。園児たちの元気な讃美の歌声が響いていました。

私が祈ると、みんなで元気よく「アーメン」と言います。

「全地よ、主をほめたたえよ」の言葉のとおりです。

クリスチャンだけではありません。

ここでは、色々な人々が主を讃美しています。

「全地よ、主をほめたたえよ」という言葉が生きています。当たり前になされています。それが神水教会です。

主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え

喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。

礼拝を守る人々の歌声がこの歌の中にあります。

そして、礼拝によって、命を守られてきた人々の姿をここに見ることができます。

それは羊と羊飼いの姿によって歌われています。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民

主に養われる羊の群れ。

わたしたちは羊、主は羊飼いです。

主イエスは、おっしゃいました。「私は良い羊飼いである。」と。

羊は、羊飼いのいる牧場で過ごします。羊飼いのいる牧場で過ごすのが、安全で、安心です。

ここは牧場です。

神水教会は牧場です。

安全で、安心の場。まことの羊飼いがおられます。

羊たちが羊飼いのもと、牧場にいて守られるように、私たちも、羊飼いなるイエスさまに導かれ、ここで讃美し、祈りをささげ、み言葉を聴くことにより守られます。

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

喜び祝い、主に仕え
喜び歌って御前に進み出よ。

知れ、主こそ神であると。

主はわたしたちを造られた。

わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ。

感謝の歌をうたって主の門に進み
賛美の歌をうたって主の庭に入れ。

感謝をささげ、御名をたたえよ。

主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。

この最後の5節を、今年の神水教会の主題として掲げました。

主は恵み深く、慈しみはとこしえに
主の真実は代々に及ぶ。

三つのことが歌われています。恵み、慈しみ、そして真実です。

恵み、慈しみ、真実。実は、読めば読むほど、この三つは、ある意味、同じことを語っています。それは、私たちへの神の愛ということです。

最後にある真実。ヘブライ語でエメトと言います。エメト、これは私たちがいつも言っている「アーメン」と同じ語根です。エメト、アーメン、似ています。同じです。

どちらも真実、ほんとう、です。

主なる神のエメト、その真実は、代々に及びます。

神水教会は87年目。でも、ルーテル教会の歴史は、502年目。イエスさまの宣教から数えたら、2000年ほどです。

時代は変わっても、主のエメトは、主の真実は変わりません。

主は、永遠にまことなるお方。

私たちには偽りがあります。曲がったところがあります。

ゆがんだところがあります。

関係を築く時にも、まっすぐに向き合えないことが多々起こります。

でも、神は真実です。まっすぐです。

だから、私たちは自分の正しさに頼ってはなりません。神の真実に頼るのです。

昨年末、新しい翻訳の聖書が出版されました。読んでいて、おおっと驚いたところがありました。有名なガラテヤ書の下り、それは、「私たちは自分の行いによるのではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と訳されてきました。

今回、新しい翻訳において、「行いによるのでなく、イエス・キリストの真実によって義とされる」と訳されておりました。

ここの翻訳は、昔から議論のあるところでしたが、今回、大胆に、そこを「キリストの真実によって救われる」としました。

翻って、詩編100編の結びは、「主の真実は代々に及ぶ」と歌っています。

主の真実とは、私たちを救ってくださる神の愛です。それは永遠に変わらない。まさに、神の慈しみ、神の恵みです。

今日は総会の日。これまで神の真実により、神の愛により、慈しみにより、そして神の恵みによって、神水教会は歩んでまいりました。

今日、振り返り共に感謝し、主をたたえましょう。

同時に、この神の愛を知らない人々がまだまだたくさんおられます。

主を讃美しつつ、隣人のために祈る私たちでいましょう。

主が、あなたのことを、神水教会のことを守り、豊かに導いてくださるように。

マタイによる福音書2章1-12節

6 1月

02:01イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 02:02言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」 02:03これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。 02:04王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。 02:05彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

02:06『ユダの地、ベツレヘムよ、

お前はユダの指導者たちの中で

決していちばん小さいものではない。

お前から指導者が現れ

わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

02:07そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。 02:08そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。 02:09彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。 02:10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。 02:11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。 02:12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

顕現主日 (2019年1月6日 神水教会にて)

 「救いの光」

先々週の日曜日、12月23日、私たちはクリスマスの礼拝を守りました。

その日、ルカによる福音書1章から、マリアとエリサベトの話を聴きました。それは天使の御告げを受けたマリアが、おばのエリサベトのところへ急いで行ったという話でした。

突然の御告げ、男の人と関係を持ったこともない自分の身に、男の子が宿る。神にできないことは何もない、との御告げを受けたマリア。同時に、不妊の女と言われていたエリサベトもまた、妊娠し、すでに六か月になっていると聞く。

マリアは、居ても立っても居られず、エリサベトの暮らす場所へ急いで行くのでした。

マリアは、居ても立っても居られなかったのです。

私たちには、そのように、もう抑えきれない感情を抱く時があります。頭の中で冷静に考えることもできないほど、気持ちが高ぶる。もうそうせずにはいられない、という気持になる。

たとえば、恋愛感情もそのひとつでしょう。年齢を重ねた方々は、すっかり忘れてしまった感情かもしれませんが、若い時、抑えきれないくらいの熱い思いを抱く。誰かを好きになる。それは、頭の中で冷静に考えてのことではなくて、抑えたくても、抑えられない感情が、ほとばしってくるのであります。

昨日、お隣の健軍教会の小泉先生と一緒にいる時間がありました。お互い、クリスマスのシーズンには、いくつもいくつも礼拝をする機会が与えられます。

昨日お会いした時、小泉先生、ずいぶんのどが苦しそうでした。私もときどきやりますが、のどが枯れてしまうのです。礼拝などが続いた時、のどをやられてしまうことがあります。

昨日も、しゃべりながら、ずいぶん苦しそうにしゃべっておられました。今ごろ、やはり健軍教会で礼拝をしておられるでしょう。はがゆい思いをしながら、礼拝の司式、説教をしておられることと思います。

その中で、「こうしてのどをやられてしまった時は声を出さないのがいちばんの薬だよね」と言いつつ、「それができないから、大変だね」とかしゃべっておりました。

そして、どうしても苦しい時は、礼拝中、讃美歌は、歌わないでおく。そういうことをする時があります。会衆のみなさんが、大きな声で歌ってくださるから、こちらは、説教のために声を残しておいて、歌わずに過ごす。私ものどをやられているときは、歌わずにいます。

でも、「そこで、歌いたいんだよなぁ」ということで、昨日は、共感しました。

オルガンのメロディーが流れているのに、みんなが歌っているのに、讃美歌を、歌わずに、じっと過ごしているのは、本当につらい、歌いたくて、仕方がない、「歌えないのがつらいよね」と二人で語り合っておりました。

特に、クリスマスの讃美歌なんて、もう楽しくて、歌いたくて仕方ない。主を讃美したくて仕方がない。喜びを、讃美を、轟かせてたくて仕方がない。そういう気持になります。

それは、頭で考えていることではありません。気持ちです。抑えられない感情です。

抑えられないほどの喜び。それを味わえる、なんと幸せでしょうか。

こうして礼拝に集う。

クリスチャンの皆さんは、まだ体も元気なうちならば、日曜日になったら、礼拝に来る。祈る、讃美する、聖書のお話を聴く。すべてある意味で、当たり前に思える時があります。

でも、それを失った時、このひとときが、どんなに幸せな時間であったか。主を信じて生きる喜び、主に生かされる喜び、神様の愛を全身で受け止め、そして、その神様をほめ歌う喜び。どんなに尊いものだったか。と気づくでしょう。

それは言葉で説明したくてもできません。

言葉で説明したくてもできないほどの喜びが与えられています。ここで。

抑えようのない喜び。

本日、与えられましたマタイによる福音書2章、そこには、救い主のお生まれを見届けようと、東の国から星に導かれ、はるばる旅してきた博士たちの話がありました。

星に導かれつつ、長い旅を終えて、ついに幼子イエスのおられるところにやって来た時、彼らは、喜びました。

こう書かれていました。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

何気なく書かれている一節です。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

実は、この一節は、もう文法などもあまり気にしないくらいの表現がなされています。

「彼らは、非常に、大きな喜びを、喜んだ。」というような言い方。

「喜びを喜んだ。それもすごい大きな喜びを。」という感じでしょうか。

それは、もう人間の言葉で、冷静に語ることができないほどの喜びだった、ということでしょう。どこにもでも転がっているような喜びではない。見たことも、聞いたことも、経験したこともないような喜びだと。

イエスは、やがておとなになり、宣教活動を始められた時、たくさんのたとえ話をもって天の国についてお教えになりました。

その中で、雇われて人の畑で働いていた人の話があります。その男は、畑で働いていた。すると、その畑で、とんでもない宝物を見つけてしまう。おそらく埋蔵金か何かなのでしょう。すると、彼は、自分の持ち物、財産、家屋敷など、全部売り払い、大金を作ってきて、その畑を買うであろう、というたとえ話です。

本当に、神様を知った者は、神の救いを知った者は、まさに、このように他のことなど全部捨て去ってもよいほど、その素晴らしさを知るのである、ということを示しています。

最初の弟子となったシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネも、イエスと出会ったとき、網を捨て、舟を捨てて、すぐに従って行ったとあります。

まさに、畑の中で、宝を見つけてしまった人の姿です。

神様を知るというのは、まさしくそういうことです。

そして、神様を知るということは、その神様によって、愛されている自分を知るということです。

なぜなら神は愛だからです。そのことを知る、それが宝を知ることです。

それを知ったら、他のものなど、どれもたいした問題でなくなります。

何かと何かを天秤に載せて、どちらが重たいか、比べることがあります。

たとえばお金が大事か、愛が大事か。仕事が大事か、家族が大事か。安定した暮らしが良いか、それとも、思い切った冒険もよいか。

いろいろな時に、私たちは、ふたつのものを天秤にかけつつ、どちらを優先すべきかと考えることがあります。

でも、その中で、もう何ものとも比べる必要のないことを見つけたら。

ただひとつの真理を知ってしまったら。

すべてを覆いつくす永遠の愛を知ってしまったら。

もう何かと天秤に載せて比べる必要はなくなります。心は、二つに分かれる必要もなくなります。

そのような宝を見つけたら、人は、表現しきれないほどの喜びを知ることになります。

東の国からやって来た博士たちは、それを知りました。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

彼らは占星術の学者とある通り、星を調べる博士たちでした。

彼らは星の光に魅了されていました。でも、その星が、見たこともない星が、星の輝きなどでは比べようもない救いの光を指し示します。

来週の日曜日、イエスがヨルダン川で洗礼を受ける場面を学びます。そこに現れたのは洗礼者ヨハネでした。人々はヨハネをみて、「この方こそ、救い主だろうか」と見まごうほど、ヨハネもカリスマ的な存在でした。

でも、ヨハネは、「私ではない。私などこれから来られるお方の履き物のひもを解く値打ちもない程だ」と言ってイエスを指し示します。

学者たちは、星を見ました。今まで見たこともない程輝く星を見ました。

その星の光に導かれ、ベツレヘムへ行きました。

そこで、彼らは、その星の光などかすんでしまうほどの本当の輝き、本当の光を見ました。

神の愛の光、救いの光でした。私たち一人一人を愛してやまない、神の愛の光でした。

それを知った時、彼らは、もはや手にしている宝をずっと持っている必要もなくなり、その宝をむしろ献げものとして捧げました。

シモンら漁師たちは、網を捨てました。

博士たちは、宝を手放しました。本当の宝を知ったからです。

その宝、救いの光は、私たちにも届けられました。

何ものにも代えられない宝、何ものにも比べられない光。

小泉先生も、私も、それを知ったから、のどが枯れていても、歌いたくて仕方がないのです。その喜びは、わき溢れて、抑えきれないのです。

そのような喜びを、まことの救いを私たちは知りました。

占星術の学者たちは、星を見ている生活でしたから、星によって導かれました。

あなたはどうでしょうか。

人によって、さまざまな形で、導かれていきます。その人にふさわしい形で導かれていきます。

導かれる形は違っても、救いはひとつです。たどり着く救いの光はただひとつ。

あなたのために、その命までも捨ててくださった救い主。何があっても、あなたを守り、あなたを救ってくださる救い主。この方のもとへ導かれる時、私たちは、喜びを知ります。

その喜びを今年も、ここで喜びましょう。その喜びが、一人でも多くの方に届くように、祈り、励んでまいりましょう。

2019年、この一年も神様の祝福が、神水教会に溢れますように。

皆様お一人お一人に、主の恵みが、豊かにありますように。

ルカによる福音書1章39~45節

23 12月

01:39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。01:40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 01:41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 01:42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 01:43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 01:44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 01:45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

待降節第四主日(2018年12月23日 神水教会にて)

「喜びの知らせ」 

「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。」と言って、本日のルカ福音書1章のみ言葉は、始まっております。

マリアは急ぎました。駆り立てられるかのように、急いで行きました。

皆さんの中にも、今日、この礼拝においでになる時、急いで来られた方もおられるかもしれない。

ひとつは、遅れそうになったから、このままのろのろ行っていたら、時間に間に合わないとか、思ったより、電車やバスが渋滞して、進まなかったから、遅くなって、とか、そういった事情で、急いでここに来られた方もおられるかもしれない。

その一方、時間はゆったりしているけれど、急いで来られた方もおられるのではないでしょうか。別に早足になるほどでないとしても、なんとしてもここに向かう、そのまっすぐな気持ちで、わき目もふらず、ここに、この教会に向かって来られた方もおられましょう。

特に、今日は、クリスマスの祝いをする礼拝。それだけでも、もう楽しみ。

他のどのことよりも、とにかく気持ちは、今日は礼拝に行く。その思いで、ここに向かって来られた方も多いと思います。急ぎ足でなくても、それは、ある意味、あの日、マリアが急いで行ったことと似ていると思います。

マリアは、エリサベトという女性のもとへ急ぎました。

それは、彼女のおばであったと言われます。

エリサベトが住んでいたのは、ここではユダの町と書かれています。エルサレムのそばだったと思われます。なぜなら、エリサベトの夫は、祭司であり、エルサレムの神殿でお勤めをしていました。エルサレムからそれほど遠くない場所であったと思われます。

マリアが、住んでいたのはガリラヤのナザレ。地図で見ると、北のほうです。

一方、エルサレムは、パレスチナ地方のずいぶん南側。ゆうに100キロくらい離れていたと思われます。このあたりからだと、人吉くらいまで行くことになるでしょうか。あるいはもっと南、もう鹿児島県に着いてしまうくらいかもしれません。

今から、みなさん、鹿児島県か、人吉まで急いで行けるでしょうか。車や電車ではありません。自分の足で歩いて、です。いったい、どれだけかかるでしょうか。

マリアは、それをしました。急いで、行きました。

エリサベトおばさんに会わずにいられなかったからです。

エリサベトとマリア。この二人は、似たような境遇をこの時、背負っておりました。

それは突然の妊娠です。しかも、ありえないと思える状況の中で、です。

エリサベトは、夫ザカリアと結婚してから、もう何十年たっていたと思います。具体的な年数までわかりませんが、それにしても、とにかく結婚して、十年、二十年くらいはたっていると思います。そして子宝に恵まれずにおりました。

そういった御夫婦は、世の中に少なからずいらっしゃいます。

そして、きっと、多くのカップルは、ある程度の年数を経れば、ああ、うちは子供が生まれないんだ、とあきらめられることでしょう。あるいは、昨今では、不妊治療というものに出かけて、たいへんおつらい思いをなさることもありましょう。

でも、この時代、今から2018年か、2019年ほど前、不妊治療などというものはありません。結婚して、ずっと子供を授からないならば、それは、もうあきらめるほかありませんでした。

ところが、そのエリサベトが突然妊娠します。しかも、そのことについて、夫ザカリアに天使が御告げを届けました。

一方、マリアは、皆様もご存知の通り、まだ結婚していない。いや、男の人と結ばれた経験もない。しかし、神にはできないことはない、と言いながら、天使は、あなたは男の子をやどる、それは、神の子、皆が待ち望んだ救い主であると、告げられます。

そのみ告げを受けて、マリアは、エリサベトのもとへ急ぎました。

行かずにおれませんでした。

そして、ようやくたどり着くと、だれがまず反応したかというと、意外な人物でした。マリアでも、エリサベトでもなく、エリサベトのおなかの子が反応しました。喜び、踊りました。

そのおなかの子の喜びを、肌で感じたエリサベトが今度は喜びました。

この喜びを分かち合うために、マリアは急いだ、と言ってもよろしいでしょう。

そこに行けば、エリサベトのもとに行けば、こうして喜びを分かち合える、そう思ったのでしょう。

マリアは、自分の置かれている境遇、突然、神のみわざが自分の身に起こったということについて、おそらく誰にも相談もできなかったことと思います。

その中で、唯一そのことを語り合える、理解し合える人がいる。それは、同じ時期におなかに子を宿す運命を背負ったエリサベトでした。

二人は今、自分たちの身に起こった神様の御計画、神様のみわざについて、受け止めた者同士として、心が通じ合い、語り合っています。どんなに幸いな時間、どんなに慰めに満ちた時間、年は離れているのに、心が通じ合う。どれほど満たされたことでしょう。

この二人の姿に、何が映し出されているでしょうか。教会が重なって見えます。

ここに来ると、神様の救いを知っている者、信じている者が集います。

神様のみわざについて語り合えます。

マリアとエリサベトは年が離れていました。

でも、ただ神を信じるということで、通じ合いました。

まさに、教会です。いま、この群れの姿は、まさにあの日のマリアとエリサベトです、それが教会です。

皆さんも、もちろん教会の外にも、たくさんお友達や、、お知り合いの方、そして、家族、親類の方など、おられるでしょう。

どのお友達も大事でしょう。

けれども、きっと、ああ、やっぱり教会の仲間がいちばんと思われる面がおありではないでしょうか。

なぜなら、ここに来る人は、神様のことを共有していますから。ただの趣味の集まりではありません。仲がいいから、一緒にいるのでもありません。

ただ、ただ、神さまを信じる、という、この一点で集まっているのが教会です。

ここにくると、何をするか。礼拝をします。賛美歌を歌います。一緒に祈ります。聖書からみ言葉を聴きます。

それは、教会ではそれが安心してできます。高らかにできます。

マリアは、あの時、エリサベトのもとへ急ぎました。

神様のなさったことを、また神様がこれからなさろうとしておられることを、受け止めて、語り合える人、一緒に祈れる人、一緒に喜べる人は、あの時、エリサベトしかいなかったからです。

そして実際、あの時、二人は喜び合いました。

本当は、喜べない状況、、戸惑いを生むような状況でしたが、神のみわざが起こっているのだ、ということを受け止めた時、二人は、喜び合いました。

皆さんも、今日、ここに来られました。急いで来られました。

私などは隣の牧師館に住んでいます。急いで来なくていいです。

でも、急いで来ました。日曜日の朝が来た、嬉しくてたまらなくて、来ました。

皆さんと礼拝をしたくて、皆さんの顔が見たくて、皆さんとクリスマスの讃美をしたくて、気持ちはもう、ほかにはない。ここにしかない。

まるであの時のマリアのように、ここに来て、神様のみわざを共有することだけを求めて、ここに来ました。

皆さんも、同じであろうと思います。

ことに、今日は、5人の方々の洗礼式があります。

みんながその喜びを、自分の喜びのように、駆けつけました。

今日ここで、神様の救いのみわざが行われます。

それを見届けられるのだと思ったら、気持ちは、もうまっすぐにここに向けられました。

エリサベトは言いました。

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

私たちは、主のおっしゃったことを信じています。

主のみ言葉を信じています。それは幸いなことです。

主はおっしゃった。

わたしはいつもあなたと共にいる。そのことは、本当だと信じる人は幸いです。

その幸いを、その信仰を、心に抱いている者同士なのです。私たちは。

なんと幸いでしょう。

信じて洗礼を受ける者は救われる。主はおっしゃいました。

そのことを信じる者は、何と幸いなことでしょう。

今日、そのことを、救いのみわざをご一緒に見届けましょう。そして、喜びを共にしましょう。

アドベントに入り、クランツのろうそくを一本ずつともして、今日まで来ました。

少しずつ少しずつ、歩む。

まるで私たちの信仰のようです。

マリアもそうでした。初めは、戸惑った。突然の天使の来訪、突然の出来事、戸惑うばかりでした。

でも、少しずつ、受け入れる。そして、ついに、喜びとして受け止める。

その喜びが、きょう、ここにもやって来ました。

救いが、ここに、今日やって来ました。

イエス・キリストはマリアのおなかに宿りました。

今、わたしたちひとりひとりの胸に宿ります。

クリスマスおめでとうございます。この喜びは、今日、あなたのために、届けられました。

その知らせを、御一緒に喜び合いましょう。

マルコによる福音書13章24-31節

25 11月

 13:24「それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
13:25星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
13:26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
13:28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 13:29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 13:30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 13:31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 

聖霊降臨後最終主日(2018年11月25日 神水教会にて)

  「天地が滅びても」

今から20年ほど前、1999年を迎えたころ、世間では時折、世の終わりが意識されていたように思います。

一つの原因は、ノストラダムスの大予言というのがありまして、世界は、1999年に終わるといったことがまことしやかに言われていたからであります。

これはずいぶん昔から言われていたことを、私もおぼえております。

私がまだ小学生だったころに、実は、このノストラダムスの大予言というのが話題になって、本屋さんでたくさん売れて、さらに映画にまでなっておりました。

1970年代のころです。

わたし自身は、小学生でした。そして、小学生なりに数を数えて、そうか、世界は、1999年に終わるのか、とすると、私の場合は、1965年生まれですから、34歳になった時に、死んでしまうのか、自分の人生は、34歳までなんだ、と同級生たちなどとも話題になっていたのを覚えています。

でも、しばらくすると、その話題はだんだん忘れられていました。

ところが、実際にその1999年が近づく、そして、1999年になった時、もう一度、あのノストラダムスの大予言が話題になって、マスコミなどでも、興味本位に取り上げられていた気がします。

そんなのばかばかしいと思いながらも、おそらく、誰もの心の中に、ひょっとしたら本当かも、という思いがもたげていたのではないかと思います。

それは、1999年というのが、その名のとおり、世紀末であることもあるし、そして、現実の世界を見ると、地球温暖化、人口爆発、各地で起こるテロ、戦争、内乱、頻発する大地震などなど、ああ、ひょっとしたら、本当に地球が終わる日は近いのかも、とある意味、誰もが思うことかもしれません。

それは、1999年を過ぎた今も、変わらない面もありましょう。

すでにノストラダムスの大予言がうたった1999年は終わりましたが、21世紀を過ごす今、果たして、わたしたちの孫の代には、孫の孫の代には、今から100年ほどたったころには、この世界は、変わらず存続しているだろうか、といった、未来に対する漠然とした不安は、多くの人のこころの中に宿っていると言えるのではないでしょうか。

本日与えられましたマルコによる福音書13章のみことば、そこには、まさに、終わりの日を思わせるような表現が並んでおりました。

それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
 

太陽が暗くなる。月が光を放たなくなる。星は空から落ちる。そして、天体は揺り動かされる、と。

今日も、天気が良いので、外に出れば、太陽の光が輝いていますが、その太陽が、光を失い、暗くなっていくと。

夜には、今ちょうど真ん丸お月さんが出ていますが、その月も光を放たなくなると。おどろおどろしい表現です。

でも、これに似た状態は、わたしたちは、実際にときどき味わいます。

昨年朝倉市など、九州の北部を豪雨が襲いました。

今も、困難な生活を強いられておられる方々がいらっしゃいます。

一日も早く、もとの生活、安心して暮らせる新しい生活を取り戻されるよう祈るばかりです。また、今後も、様々な形でできる支援は続けてまいりたいと思います。

あの時、どんな様子だったか。

朝倉市にあります甘木教会の方々にうかがいましたら、空が真っ暗になり始めたのだと。雨が降る時は、雨雲が覆いますが、こんなに真っ暗になるのは初めて見たとお聞きしました。そして、まるで天から槍が降ってくるような勢いで、雨が降ってきたのだと、そんなお話をうかがいました。

そのような経験したことのないような、自然の姿と接するときに、わたしたちは、どうにもならない不安な気持ちになります。

空が光を失う、夜でもないのに、真っ暗になって行く。

そんな状態を経験するとき、人は、言い知れぬ不安を覚え、何かが起こるのではないか、と思います。

そして、その何かというのは、おそらくあまりよくないものであろうと思います。

空が真っ暗になって、次の瞬間、とっても嬉しいことが起こる、というのではなく、何か良くないことが起こる、と考えると思います。だから不安が襲います。

世の終わりを迎える、地球が滅びる時を迎える、など、考えるとき、わたしたちはおそらく、そのことを嬉しいことではなく、悲しいこと、あってほしくないことと思っているだろうと思います。

それはその通りで、特に何事もなく、平穏に暮らしている人にしてみれば、それが奪われる時と考えるわけですから、それは、怖いもの、悲しいもの、と思います。

またそれだけでなく、そのような終わりを来たらせる大きな力、つまり神という存在を思い描きつつ、そこに裁きというものも思い浮かんでくると思います。

最後の審判という言葉があります。

それは、勝手気ままに生きて来た人類に対する神の裁き、それが意識される。

それまでは、宗教なんてばかばかしいと思っていた人であっても、人間の力ではどうにもならない天変地異が起こるときに、そこに言い知れぬ力、人間の思いを越えた力を見るのではないでしょうか。

太陽が暗くなり、月も、光を失う。天体が揺り動かされる。

おどろおどろしい表現をもって、イエスは語られました。

聞いていた人たちは、何やら得体のしれない恐ろしさを覚えたかもしれません。

また、今、ここで、こうして聖書の言葉を開いているわたしたちも、同様でありましょう。

でも、これは、いたずらにわたしたちをおどかしてやろうというためのものではありません。

これらの言葉を語りつつ、イエスはおっしゃいます。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

崩れ去るものに、おどろおどろしい表現に、わたしたちの心は、奪われがちかもしれませんが、むしろ、何が起きても、変わらないもの、永遠なるものがここで力強く語られています。

すべてがなくなって、消えてしまって、無になっておしまい、ではありません。

残るものがあります。

それは、主イエスの言葉であると。

天地が滅びても、私の言葉は残る。

と言われる、主イエスの言葉とは何か。

それは信仰に導かれてこられた方々は、おわかりでしょう。

すでに洗礼をお受けになられた皆さん、いつもここでみ言葉を聴いておられる皆さん、皆さんの胸には、きっとひとつやふたつ、大好きな言葉があると思います。

それはイエスさまがくださった言葉です。

当時の弟子たちもイエスさまのお言葉をたくさん聞きました。

徴税人レビは、弟子入りするとき、医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。との言葉を聴きました。

その言葉、わたしたちにも届いています。

皆さんが神様に愛されているのは、よほど立派なことをしたから、ということではありません。

むしろ、欠け多く、間違いが多く、過ちも繰り返す、罪深い自分を、主が、憐れみ深い主が、愛してくださるから。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

その言葉は、たとえ、天地が滅びても、消えることはありません。

舟の上で嵐に遭い、恐れていた時、水を踏み越えて、イエスは来てくださいました。

恐れることはない。私だ、とおっしゃいました。

たとえ、天地が滅びても、その時、恐れることはない、私だとの言葉が聞こえます。それは消えることがありません。

どうしたら救われるのだろうか、と悩む弟子たちに、それは人にはできないが、神にはできる、神は何でもできるからだ、と言われました。

その救いの約束の言葉は、永遠に消えません。

あなたは救われます。全能の神がそれを成し遂げられます。

今年も来週から、アドベントに入ります。2018年前に、主がおいでになる時、どんな約束があったでしょうか。

恐れるな、わたしはいつもあなたと共にいる。との約束、インマヌエルの約束を掲げて、主はこの世においでくださいました。

その約束は、決して消えることがありません。

天地が滅びても、主のみ言葉は、変わりません。

終わりの日の言葉、それは、言い換えれば、この世にあるもの、形あるもの、それがたとえ、天であろうが、宇宙であろうが、いつかは滅びる日が来るという知らせのようです。

この世界にあるもの、すべてがいつかはなくなる。

形あるものは、いつか消える。消え去る。

でも、あなたへの愛、神様のあなたへの愛は決して消えない、だから恐れることはない。

その日には「天体が揺り動かされる」という表現もございました。天体までもが揺り動かされても、信仰に立つならば、わたしたちは決して揺り動かされることなく、しっかりと立ち続けることができます。

それが、イエスさまのメッセージでした。

あなたに届けたいと願われたメッセージでした。

今日までの日々、わたしたちは主に守られていました。

そして、今、主はあなたと共におられます。守られています。

そして、これからも、どんな時も、主はあなたと共におられます。

主は永遠ですから。

永遠なる主が、あなたと共におられます。

永遠に変わらぬ愛で、あなたを守られる主がいつもあなたの味方です。永遠にです。

新しい日々、主の平安が皆様の上に豊かにありますように。

ヨハネによる福音書2章13-22節

28 10月

02:13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 02:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 02:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 02:17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 02:18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 02:19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 02:20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 02:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 02:22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

宗教改革主日(2018年10月28日 神水教会にて )
      「神の愛により」 ヨハネ福音2章13-22節
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。と言って、今日のヨハネ福音書のみことばは始まっております。

神殿で、イエスは人々の様子を見ておられました。神殿。今のわたしたちの教会と同じです。

今日、私たちは教会に来ている。その教会に来ているわたしたちを、イエスは見ておられる。
さて、イエスの目に、わたしたちはどんなふうに映っているでしょうか。

神殿にいる人たちを見ているイエス。
聖書には、同じような場面があります。それは、神殿の境内で、献金をしている人たちがいて、その人たちが献金をするさまをイエスが見ておられたという場面です。

その時、まず、金持ちたちが、たくさんの献金をしている姿がありました。
当時、神殿での献金というのは、大きなラッパのように、大きく口を開けた入れ物があって、そこに投げ入れるような様で献金がなされていたと言われます。
ラッパのような形をしていたせいか、入れるお金がたくさんであれば、大きな音が反響していたとも言われます。であれば、お金持ちがたくさんのお金を入れると、周りの人たちも、おお、あそこの人は、ずいぶんたくさん献金したな、と分かったことでしょう。
金持ちたちがたくさん献金する姿を、周りの人も、イエスも見ておられた。

一方、額が少なければ、目立つこともありません。実際、とても額の少ない人は、自分の献金を恥ずかしく思っていたことと思います。
今でも、そうです。人前でいくらのお金を出すか。あんまり堂々とできることではありません。そのような思いもあって、神水教会も、献金袋を用意して、いくらであれ、人には見られずに入れられるように、配慮するようにしています。

まして、当時のような、袋に入れて、入れるというのではなく、ラッパの大きな口の空いたところに投げ入れる。貧しい人たち、献金額の少ない人たちは、人目を避けて、こそっと献金を入れたことでしょう。

その日、ひとりのやもめは、最もちいさなコイン、レプトン銅貨を二つだけ入れました。
その様をも、イエスは見ておられました。
ただ、その時、イエスは、この女はここにいる人たちの中で、いちばん多く入れた。なぜなら、金持ちたちは、たくさん持っている中の一部を入れたが、この女は、自分の持っている全部を入れたのだから。と言って、彼女の献金を称賛されたのでした。

そのような御話が聖書に記されています。
神殿で、人々の姿をじっとご覧になっていたイエスを伝えています。

そして、今日の個所、イエスは、やはり、ご覧になっています。そこにいる人々を。
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
その人々の姿、イエスの目に、どう映っていたのでしょうか。

それは、追い出さなければならないと映ったようです。
このままではいけない、いささか乱暴なことをしてでも、今、ここにある状況をひっくり返し、追い出さなければいけない、と思われました。

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。02:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 02:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

神殿境内に入る際は、たとえば棒のようなもの、武器になるようなものは持っていくことができませんでした。今のわたしたちでいえば、飛行機に乗るときに、搭乗前に、荷物や、身に着けているものをチェックするような感覚に似ているでしょうか。

イエスも、なにか暴れまわるための道具など持ち合わせておられません。それで、おそらく家畜などを縛っていた縄を鞭のようにして、振り回し、動物たちを追い出します。
その動物たちは、神殿で礼拝をする人たちが買って、犠牲を捧げるためのもの。また、礼拝者たちが、当時、献金するに際しては、ユダヤのお金を捧げることになっていたので、そのための両替商がありました。便宜上、必要なものであったと思われますが、イエスの目に、それらは、縄で鞭を作ってでも追い出したくなるものに見えたようです。

このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。
追い出しながら、おっしゃったイエスの言葉でした。

商売。商売というのは、物とお金が交換されることです。一方的にプレゼントしたりするのは、商売とは呼びません。お金を出して、それに見合ったものを受け取る。何らかの物を売って、お金を受け取る。それが商売です。

父の家では商売をしてはならない。
間もなく、バザーが行われますが、これは教会ではバザーをやってはいけませんよ、という教えではありません。イエスさまは、そんなことを言うために、命を懸けておられるのではありません。そのことは初めに申し上げておきます。バザーは、バザーで、教会らしく、楽しみましょう。

では、ここで何が言われているのか。
さきほど、牛や羊、それから両替商のようなもの、これらは、便宜上、必要なものであったとわたし、申し上げました。
遠くから何日もかけて、礼拝をするために、このエルサレム神殿にやってくる人たち、牛や羊を引き連れてくるのは大変です。
お金も、そこが、エルサレム神殿であり、献金は神様にお献げするものである以上、ローマ皇帝の顔が刻まれているお金では都合が悪いと考えていました。それでその場で両替をしていました。

私たちも便宜は図ります。どこでも。世の中を生きていくうえで、きっといろいろと上手にやっていくことを学びます。
それ自体は、何も悪いことはないでしょう。
教会の中でも、きっといろいろと便宜を図って事を進めます。

でも、それは行き過ぎると、神様を忘れることもあるかもしれません。上手にやれるのですから。

マニュアルという言葉があります。マニュという言葉は、すべて指先、手先のことを言います。爪に塗るのはマニュキアです。手工業のことを、マニュファクチャと言います。指先、手先。あまり労力を使わず、近道で行けるやり方がそこにあります。

繰り返しますが、それは、悪いことではありません。
ただ、それらは、いつの間にか、人のこころを失わせるかもしれません。便宜を図りすぎると、神様への祈りは必要ない世界が生まれてくるかもしれません。

レプトン銅貨二枚を入れたやもめ。便宜も何もありません。
赤ちゃんが泣いている。便宜などありません。
必死で祈る。そこにはマニュアルなどありません。
心からの叫びをあげる。その時、あっちこっちを見る暇などありません。ただ、父なる神様を仰ぎます。

ここは父の家である。どこを向いているのか。
ここは父の家である。父を見よ。
天の父を、まことの父なる神を仰ぎ、ひれ伏しなさい。

両替商、動物を売る人々の姿・・・イエスは、その日、これらを父の家から追い出されました。

今、わたしたちの中には何があるでしょうか。
ここは父の家。そこに集う私たちを主はご覧になっておられる。
わたしたちも、父なる神に、まっすぐに思いを向けたいものです。幼子のように。すべてを捧げたやもめのように。
もし余計なものが入っていたら、主はそのようなものは追い出せ。ここは父の家である。とおっしゃいます。

ここが父の家である以上、ここは商売をするところではありません。
すなわち、ここでは、何かと何かを引き換える必要はありません。

私たちはどんな間違いをして、この父の家で交換をしようとするのか。

今日は、宗教改革主日です。501年目を迎えた宗教改革主日。
御存じのように、その頃、教会で、贖宥状、または免罪符と呼ばれるものが売られていました。商売の家とされていました。
そのことにルターが異を唱え、いつの間にか、大きなうねりをもって広がって行ったのが宗教改革でした。

ルターは、ここは父の家ではないか、と叫びました。
父の家だから、私たちは、子供である。
子供は、特に、まだ小さな、小さな子供、赤ちゃんのような子供は、ただただ、親の愛に包まれて、守られて、生きる。

私たちは、神様の子供。ただ、ただ神の愛によって、神の恵みによって、神の慈しみによって、守られ、救われる。
それだけ。
救われるために、何を便宜を図る必要があろうか。
そのような気持ちがあるなら、主はきっと縄で鞭を作りそれを追い払われる。
ここは父の家だ、とおっしゃって。

ここは、何かと何かを交換する商売の家ではない。恵みの父、憐れみ深い父、あなたを愛する父の家である。その愛を、信じる場所です。

やもめは、持っていた全財産を捧げました。
それによって、何かを買おうということではありません。お献げしました。ただ、ただお献げしました。
神への愛を、神への祈りを、神への信頼を、神への祈りを。
ただただ献げしました。

その姿をおほめになったイエスさまは、その後、どうなさったでしょうか。
イエスさまご自身が、こんどは、御自身のすべてをお献げになりました。
いや、そもそもイエスさまは、神の身分でありながら、そのすべてをお献げになるために、おいでになられました。

あと一か月ちょっと経ちますと、今年もアドベントを迎えます。
天の父は、御子イエス・キリストを、わたしたちのもとに送ってくださいました。これをあげるから、代わりに、ちゃんとお金を払え、などとおっしゃいません。
神様は、私たちに御子を、救い主を、ただお与えになられました。あなたのために、イエスさまは、この地上に送られました。なぜ?あなたを愛しておられるから。それだけです。

その愛を今日、改めて感謝しましょう。この父の家に招かれていること、感謝しましょう。神様の永遠の愛を届ける、この父の家に、これからも多くの人が招かれてまいりますように、祈りたいと思います。
愛にいます主の平安、皆様の上に、豊かにありますように。