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ヨハネによる福音書12章36節b~50節

18 3月

イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。 12:37このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。 12:38預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」 12:39彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 12:40「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」 12:41イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 12:42とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。 12:43彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。 12:44イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 12:45わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 12:46わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 12:47わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。 12:48わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。 12:49なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。 12:50父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

2018年3月18日 四旬節第五主日  神水教会にて

「闇を照らす光」 
本日は、ヨハネによる福音書12章の36節以下のところを与えられました。
新共同訳聖書で開きますと、二つの段落に分かれております。
そして、この二つの段落の出だしを見ますと、興味深いことに気づかされます。

まず36節には、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」とあります。
大勢の群衆と語り合うのは終わっています。今日の個所より前のところを読みますと、受け入れる、受け入れないは別にして、いろいろな人々の前でイエスは語っておられます。
でも、それを終えられたようです。

今日の個所、出だしを見ると、そういった不特定多数の群衆の前から立ち去って、身を隠されたことが書かれています。
実際、このあと続きの13章以下を読みますと、舞台は最後の晩餐と呼ばれるところになり、登場人物は、イエスと弟子たちだけになります。

今日、私たちに与えられた個所は、イエスが群衆のもとから立ち去り、身を隠された、と言って始まります。

さて、二つ目の段落。何と書いてあるか。
イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。

語られた言葉はなお続きますが、ここの出だし、「イエスは叫んで、こう言われた。」とあります。
今、イエスは群衆のもとを立ち去り、身を隠されました。おそらくもう目の前にいるのは12人のお弟子たちだけでしょう。
いや、読みようによっては、その弟子たちのこともきちんと書かれていませんから、立ち去って、身を隠されたために、今、イエスはまったくおひとりになられたと読むことも、可能かもしれません。

12人の弟子だけと御一緒か、それとも、まったく誰もいないか。そんな状況の中で、なぜ叫ばれたのでしょうか。

たとえば、わたしがこの神水教会の礼拝堂で、マイクなしに、会堂のいちばん後ろにいらっしゃる方にも聞こえるように何かを言わなければならないとしたら、それはかなり大きな声で叫ばないといけないでしょう。
あるいは、外に出て慈愛園のグランドに出て、やはり拡声器もなしでグランドに集まった人々に何かを伝えようとしたら、やっぱり叫ばないといけません。
思い起こされるのは、熊本地震の発生した時、慈愛園の子供たち、職員の皆様、そして、牧師館にいるわたしたち家族、そして、あの時いらっしゃったボーマン先生家族、グランドに出てきました。家の中にいるのは危険と思いましたから。皆様の多くもそうであったことと思います。

夜中に、突然の出来事で外に出て、ここに住んでいる私たちは慈愛園のグランドに集まりました。子供から大人までみんな出てきました。もちろんそのような中、マイクなどありませんから、何か伝えようとしたら、大きな声で叫ばなければなりませんでした。
叫ぶというのはそういうことでしょう。

今、群衆のもとから立ち去って身を隠されたイエス。
お弟子たちだけはそばにいたか、あるいはお弟子たちすらもいなかったか。
とすれば、イエスはなぜ叫ばれたのでしょう。誰に向かって叫んでおられるのでしょう。

ずばり、イエスは、あなたに向かって叫んでおられます。
今日の場面は、イエスは群衆から身を隠して、ただあなたのもとにやって来ておられます。そして、あなたに向かって、叫んでおられます。

必死です。何とかして、聴いてもらわないといけないこと、伝えずにおれないこと、それを、必死になって、神の御子が、天からおいでになった神の御子が、あなたに向かって、叫んでおられます。
どうか、よくお聴きください。

イエスは叫んで、こう言われました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

いささか抽象的に聞こえて、わかりにくいとお感じになると思います。でも、イエスはとにかく叫んでおられます。聞いてほしいから。

この叫んで語られた言葉を記すにあたって、ヨハネは群衆について書きました。
何を書いたかといえば、群衆はイエスのことを信じなかったということを、であります。

多くの人々は、イエスを信じませんでした。今の日本だけではありません。
多くの人は信じませんでした。このお方が、神の御子であると、信じませんでした。

このお方によって救われるということを、信じませんでした。
自分が羊で、このお方が羊飼いであるということ、自分が葡萄の枝で、このお方が葡萄の木であること信じませんでした。

神水教会の納骨堂には「我は復活なり、命なり」と刻まれています。
でも、多くの人は、私たちがこうして生きているのは、このお方の中で生かされているということ、つまりこのお方が、私たちの内に、私たちがこのお方のうちに、生きているということを、信じませんでした。

そういう大勢の人のもとから離れてきて、今イエスはあなたのもとに来られました。そして叫んでおられます。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

父の命令は永遠の命である、とあります。
驚くべき言葉です。天の父なる神様がお命じになったことは、永遠の命なのだと。
父が、永遠の命について語ってきなさい、とか、永遠の命を見せてきなさい、とか、言われたというのではありません。
永遠の命を命ぜられた。永遠の命を与えてくるように命ぜられた。

永遠の命を与えることが、父なる神様の御命令。御心。
それは別の言い方をすれば、神様御自身を捧げることです。
永遠の命を与えるということは、神様御自身を捧げること。
誰に。あなたに、です。

だれが、それを信じられようか、とイザヤ書は歌いました。
そして、信じない群衆のもとをイエスはこの時、離れました。いや、正確に言うと、信じられない群衆が、イエスのもとを離れていったのでしょう。

そして、イエスはあなたのもとに来られる。そして、叫ばれる。わたしはあなたに永遠の命を与える。それが父なる神の御命令だから、と。

ご存知のように、神水教会では、ここのところ、会員の方々の訃報が続いております。毎週のように、週報に、どなたかの訃報が紹介されております。
別れは悲しいことです。特に、大切な方を失う、きのうまで一緒にこの地上で生きていた人が、今日はもういない、そこにいない、というのは、辛いです。言い知れない寂しさが襲います。

でも、わたしたちは、ただ真っ暗なお葬式をしているのかといいますと、そうではなく、希望を持って、涙は流しつつ、しかし、顔を挙げて、主を仰ぎ、命の主を仰ぎ、また会う日を信じて、逝きし者をお送りしております。

お墓の中は暗いです。
私たちはふだん、お墓の中、納骨堂の中で暮らしてはいません。
でも、いつか、召される時を迎えたならば、私たちは皆、お墓の中に入ります。
それは闇の中です。
もしも、もしも、そこに、命の御方がおられないならば、それはただの闇であります。

でも、神水教会の納骨堂に、書かれています。「我は復活なり、命なり」と。
わたしたちは闇が覆う墓の中に消えていくのではありません。
その闇を照らす命の光であるこのお方のもとで、生きるのです。
死にません。生きます。永遠に、です。

今日この後、聖餐式を行います。
聖餐式の時、いつもの祝福の言葉、覚えておられるでしょうか。
「わたしたちの主イエス・キリストの体とその尊い血とは、信仰によって、あなた方を強め、守り、永遠の命に至らせてくださいます。アーメン」と。

あの小さなパンと、ぶどうジュース。それが、あなたを強め、守り、永遠の命に至らせると。なぜなら、あれはただのパン、ただの葡萄ではなく、わたしたちのためにその身を献げてくださったイエスさまのお体であり、御血であるから。その命が、わたしたちの中に生きるから。

あなたは、これを信じるか。それとも、あなたも、イエスから離れて、闇の中に行くか。
闇のほうに行ってはならない。光のもとに来なさい。命のもとに来なさい。と主は叫んでおられます。あなたを愛しておられるから。
イエスさまはあなたを照らす命の光、永遠の光。このお方のもとで、わたしたちは永遠に生きます。世の闇を照らす、この永遠の光の中で、光の子らしく歩んでいきたい、このように思います。

 

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テサロニケの信徒への手紙一5章16~22節

4 2月

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

2018年2月4日 神水教会総会礼拝 「神の家族として」

2月を迎え間もなく3月。教会の掲示板に、この春、新しく誕生する牧師たちの門出を祝う神学校の夕べ、あるいは教職授任按手式のポスターが貼られています。今年も3名の新しい牧師たちが誕生します。神水教会では、先週の日曜日、ちょうど中島神学生がここに来て司式、説教をしてくれました。
現在、牧師の数が減少気味であることは、皆様もよくご承知のことと思います。その中で、こうして新たな息吹が吹き込まれることは嬉しいことであります。

さて、わたしたち牧師になる時、こんな言い方をされることがあります。それは「神と会衆によって立てられる」という言い方です。
牧師になるというのは、もちろん基本的には神様の選びである、と。それに異議を唱える人は少なくとも教会の中にはいないでしょう。何よりこれは、神様御自身の召しであると言えます。

では、人間の出る余地はないのか、と言いますと、そんなことはなくて、実際にこの世において、一人の人を育て、養い、教育し、そしてその人がその働きにふさわしいのかどうかを吟味します。
具体的には、たとえば最終的には牧師の試験があります。また、その途中、途中にも、いろいろな形でその人を教育し、また道を整えていく助けがあります。

基本は神の選びであります。しかし同時に、教会に集められた一人一人によって選ばれるのもまた事実です。どちらも大事です。
だから牧師は「神と会衆によって立てられる」と表現します。

今年も、神と会衆によって、ルーテル教会に3名の牧師が立てられます。良き伝道者としてのお働きがなされるよう祈るばかりです。

さて教会では毎年、今年の主題聖句というものを決めます。
そして、神水教会では礼拝の初めのところ、オルガニストの前奏を聞き終えたところで、いつもその主題聖句をご一緒に読んでおります。
2018年の主題聖句は、テサロニケの信徒への手紙一5章16節から18節。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。」であります。

この言葉、誰が選んだのでしょう。役員会の議事録をお読みいただければわかりますが、昨年の11月の役員会で決定しております。
裏話をいたしますと、わたしは毎年だいたい三つ用意します。こういう思いでこの聖句、また、こういう角度のことにも力を入れていきたいからこの聖句、と。二つか三つ選んで、役員さんたちに話し合っていただき、最終的には多数決となります。その中で、今回はテサロニケの信徒への手紙一5章に決まりました。
そう考えれば、これは、もともと牧師である私が考え、そして役員会の皆さんが協議して、決定したものとなります。

しかし同時に、御言葉は常に神様から与えられるものであります。
わたしは、自分ではじめに選んでいる立場ですが、確信しています。御言葉はいつも神様がお与えになっておられると。
2018年を歩むうえで、神水教会がこの新しい年を歩んでいくうえで、最も必要な御言葉、最もふさわしい御言葉、どんな時も心に留めてほしい御言葉、それはこれだ、とわたしたちの父なる神はこの御言葉をわたしたちにお与えになりました。
感謝したいと思います。

さて、主題聖句として掲げ、いつも礼拝の初めに読むときは、その出だしの所だけを読んでおります。
今日、この総会の礼拝におきましてはその段落を全部読みました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
あなたの愛唱聖句はどれですか、と尋ねられて、この御言葉を真っ先に思い起こされる方も少なくないでしょう。おうちの壁などに、掛け軸などに刻まれたこの文字を毎日目にしているという方もおられるのではないでしょうか。

しかし、よく愛され、よく知られているとはいえ、じゅうぶんそれを実行できているか、といえば、こんなに難しく、厳しい教えもほかにはないといっても過言ではないでしょう。

ただその際、わたしたちが「喜ぶ」ということ、「祈る」ということ、「感謝する」ということについて、これを、自分自身の強い精神力を磨いて成し遂げる、と考えると、少しずれが生じてくるように思います。

聖書はわたしたちに、今よりもっと高い精神性を持った人になれ、といった教えを勧めているわけではありません。
もちろん、主に生かされることにより、結果的に、私は以前より落ち着いていますとか、祈るとやっぱり心が静まります、とかそれはあるでしょう。

でも、後に続く文章を読みますと、そこに大切なことがあります。
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。

私は、この聖句を主題として掲げる時、少しばかり悩みました。それは、この一文まで加えるかどうか、ということです。
本当は入れたほうが内容的にはいいと思いました。
でも、主題として掲げて、ここにsさんの書いてくださる立派な習字で書いていただいて、パッと目で見てわかるのには、コンパクトなほうが良いだろう、そう判断して最後の一文ははずしました。

でも、文章としては、もともとパウロがこれをしたためた時には、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と書きました。

簡単に言えば、「いつも喜んでいなさい。」というのはなぜか、といえば、それは神様がそうお望みだから、ということです。ほかに理由はありません。

わたしたちは、おそらくこのテサロニケの信徒への手紙一5章の御言葉を愛して、好んで、読みます。そして、生き方の指標のように掲げることもあります。
その時わたしたちは、自分の生き方として、こんないつもくよくよせず、喜ぶ人でありたい、という願いをもって、この御言葉をとらえているかもしれません。
でも、「いつも喜んでいなさい。」というのは、わたしたちの願望ではありません。神様の願望なのです。あなたが、何があっても前を向いて歩いていく、というのは、あなたの望みではなく、神様の望みなのです。

またこうも言えましょう。
「いつも喜んでいなさい。」と主がおっしゃるのは、どんな状況になったとしても、わたしはあなたに永遠の喜びを与える、という神様の約束の言葉でもあるということです。

皆様もよくご存じのマルティン・ルターの逸話があります。
宗教改革の旗を上げたのですが、その結果、彼は破門され、命を狙われ、お先真っ暗。さすがのルターも意気消沈していました。
するとある時、妻カタリーナが喪服を着てやってくる。ルターは「いったい誰が亡くなったのだ」と尋ねると、カタリーナは「神様が亡くなりました」と答える。「神様が亡くなった、なんて、なにをおかしなことを言うのだ」とルターが尋ねると、彼女は「あなたがそれほど落ち込んでいるから、てっきり神様が死んだと思いました。もし、神が生きていらっしゃるなら、絶望はないのではないですか」と答える。
これを聞いて、ルターは改めて、神ともにいます、という信仰を奮い立たせられて、雄々しく突き進んでいく勇気を与えられていきます。

状況は変わっていないのです。でも、主が共におられる、ということを忘れているわたしたちがいるのです。神は変わりません。神の愛は変わりません。でも、それをしっかりっと仰ぐことを忘れるわたしたちがいるのです。

「いつも喜んでいなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

さらにこう続きます。
「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

ひとつひとつお話しすると、時間が無くなりますので、最後の一文のみ、今日は触れておきます。
「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

悪いことから遠ざかる。・・・簡単なようで、簡単ではありません。いつも喜んでいる、絶えず祈る、と同じで、いつも正しいことを考える、いつも悪いことを避ける、絶えず、善行をし続ける、というのはありえないことです。

悪いものから遠ざかりなさい。
これと似ている祈りを、わたしたちはいつも捧げています。主の祈りです。
「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」

悪より遠ざかる、ということもまた、自力で頑張る、ということも、もちろん努力はすべきですが、しかし根本はそうではありません。
罪深く、弱いわたしたちですから、いつも悪から遠ざかるどころか、いつも罪の中に落ちている、と言ったほうが正確でありましょう。

だからイエスさまは、我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。と祈るよう教えられました。
それは、自分の弱さを知る祈りです。主の助けがないと、生きていけない自分であることを知る祈りです。

教会は何の群れか。神の家族。神様の子供。それを存分に味わう群れです。

そしてそのことは、わたしたちが、わたしたち自身の弱さ、神の助けなくしては、神の恵みなくしては倒れてしまう者ということを知っている群れということでもありましょう。

先週、神水教会ではUさんのお葬式が行われ、また1月の初めに御召天されたAさんの記念会が、昨日ここで行われました。
葬儀ですから、確かに参列者は喪服を着て集まりますが、しかし教会の葬儀は、悲しみ、絶望の闇の中に沈んでいくものではありません。
今、ここにどうにもならない悲しみがあっても、寂しさがあっても、それでも我らが主は救いの神、死んでも共にいる、恐れるな、安心せよ、と言ってくださる御方。
このお方のもとで光をいただきつつ、涙を流しつつ、顔を上にあげる力をいただきます。

もし、このお方の恵みを知らなかったら、先週はただの悲しみに暮れる一週間で終わりでした。
でも光や希望が見えるのです。まるで、雲の隙間から太陽の光が少しずつ差し込んでくるかのように、ここが教会であり、ここが神の家族であり、ここが神の恵みを味わう場所であればこそ、わたしたちは見えざるものを見ることができます。

そしてそれは、自分がそれを見て満足、ああ、よかった、というものではありません。わたしたちは神様の子、神様の家族なのですから、その光を隣人に届けることができます。いや、それこそ、神がイエス・キリストにおいて望んでおられることです。
教会の皆様が、御遺族の方々にお声をかけては、慰めの言葉をかけておられるその姿勢を幾度も目にしました。これぞ神の家族です。まさに神が望んでおられる姿がありました。

神の望みはどこでかなえられるか。ここでかなえられます。
この神水教会で、神の御心は現れ、神の光が輝き、愛の業は行われていきます。

そのために、わたしたちは召し集められました。感謝しましょう。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。
ああ、ここに来ると、それがよくわかる・・・神水教会はそういう群れです。
新しい一年も、神様の恵みが豊かに降り注がれますように。

 

 

 

マルコによる福音書1章9-11節

14 1月

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

2018年1月14日 主の洗礼日 神水教会

「我、汝を喜ぶ」

本日与えられたマルコによる福音書1章のみことば、とても短い段落でした。
それは、主イエスの洗礼について書かれた個所です。

実は、わたしが聖書を読み始めてからか、あるいは、クリスチャンになってからか、どっちだったか、はっきりとした記憶ではありませんが、とにかく、教会に通うようになって間もないころ、不思議に思った個所の一つでありました。
「イエスさまが洗礼を受ける。何だろう、これは」と不思議に思いました。

このお話は、同じ出来事を記したマタイ福音書では、洗礼を授ける側であるヨハネが躊躇します。だって、神の子ですから、イエスさまは。
「なんで、普通の人間の自分が、神の子のイエスさまに、洗礼を授けるのか?反対でしょう」と。「イエスさまが、・・・天からおいでになった神の子イエスさまが、わたしに洗礼を授けてくださるというのが筋でしょう!」と。
その言いたいことに同感です。私もそう思います。

昨年のクリスマスの礼拝で、ここで、Kさんが洗礼を受けられました。夏にはTさんが洗礼を受けられました。
教会に通い始めて、そして、神様を信じて、自分もクリスチャンとして歩んでいこうと洗礼を受けられることになりました。そこで、牧師である私が洗礼を授けました。
言ってみれば、教会に通い始めたTさんや、Kさんが、牧師である私に洗礼を施すような感じかもしれません。私のほうが、ここでひざまずいて、教会に来たばかりの方に洗礼をしてもらう。そんな感じです。立派なお二人ですから、それもよさそうな気もしますが、でも、ご本人たちにしてみたら、「いや、それは逆です。牧師先生、私に洗礼を授けてください」とお願いしたくなるでしょう。

まして、主イエスです。
天から来られた神の御子、イエス・キリスト。このお方から洗礼をいただくなら、わかるのです。なぜこのお方が、ひざまずいて「よろしくお願いいたします」と首を垂れて、洗礼を受けられるのか。わかりませんでした。なぜ、この話がここに記される必要があるのか、よくわかりませんでした。

しかし今は、この出来事がとても大事なことであった、なくてならないことだったと思っています。
書き手であるマルコさんにしてみれば、これはもう初めに・・・、イエスというお方がこの世界においでになって初めに、何をやったかといって、まず、初めに、洗礼をお受けになったのですよ、ということを伝えないわけにはいかなかった。とても大事なことと考えて、これを書き残してくれたのでしょう。

そのことに、私は心より感謝したいと思います。

それは、このお方、天からおいでになったこのお方、神の子は、私たちと同じ者になられた、ということだからです。

そもそも天から、この地上に、降りてきてくださったということ。わたしたちと同じ人間となられたこと、これが驚きです。

先週で、クリスマスのシーズンは完全に終えましたが、改めて、なぜ2018年前に、神の子が、この世界においでになられたのか。しかも、わたしたちと同じお姿で・・・あなたと同じ人間という存在になられて・・・。考えさせられます。

神の子がこの世界にやってこられたのだから、それはもう、神々しい、近寄りがたい御姿だった、というのではなく、あなたがお生まれになった時と同じ、赤ん坊の御姿でした、このお方は。
天からおいでになるとき、雲を突き抜けて、まるで天から光線銃でも撃ち込まれるように、レーザービームのようにシューンとやってきました、というのではありません。
あるいは、ドラゴンのようなお姿で、それはもう怖かったです、というものではありません。

このお方は、あなたと同じ、私と同じ、人間の姿で来られました。
あなたと一緒にいるためです。あなたを大好きだからです。

そのことがわかるとき、このお方がなぜ洗礼をお受けになったのか、ということがわかります。私たちと同じものになられた。神のみ前に罪深いわたしたちの仲間になられたということ。

多くの人に愛されているイエスの言葉があります。
「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。」という言葉です。
主イエスは、「正しい者、しっかりやっている者、元気溌剌な者、世間からもとても高く評価されている者たちよ、さあ、おいで、一緒に天国へ行こうではないか」なんてことはおっしゃいませんでした。
「疲れた者、重荷を負う者はおいで、わたしのところにおいで」と言われました。

また、罪深い一人の男をご覧になった時、彼を弟子にしました。
「あんな罪深い者を」と周りで陰口をたたく人たちにおっしゃったのは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という言葉でした。

主イエスは、神の子イエスは、小さな一人一人、悩める一人一人、欠点も多く、失敗も多く、多くのことに不安を覚える一人一人、そんな一人一人を愛し、いつくしみ、そういった一人一人をお招きになるために、お救いになるために、同じ人間の姿で来られました。
そして、自分の弱さや罪に悲しみながら、洗礼を受ける群れの中にお入りになり、一緒に洗礼をお受けになったのでした。

そのことのゆえに、イエスの洗礼は、神の御子が、この地上で、まず初めになされるのに、たいへんふさわしいことであったと言えましょう。

さて、その洗礼の際、視覚に訴えるものと、聴覚に訴えるものとがあったようです。
視覚に訴えるもの、それは、聖霊が鳩のように降りてきたこと。
聴覚に訴えるものは、その時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえた、ということ。

でも、これらは、周りにいたみんなが見届け、きちんと聞いたということではなかったようです。イエスがご覧になり、イエスがお聞きになったものです。

それで、昔からこんな疑問も言われるようになりました。
「イエスだけが見、イエスだけが聞いたものを、どうして、マルコが知っていて、こうやって書くことが出来たのか?」と。なるほど、これまた疑問になる話です。

でも、これについてはそう難しく考えなくてよいと思います。
つまり、このあとイエスは弟子たちと出会って行かれます。弟子たちと寝食を共にしつつ、歩んでいかれます。その日々において、この日のことが話題になったことがあっただろうということ。

たとえば、このヨルダン川での洗礼の出来事、ここには、大勢の人々が来ていました。大勢の人々が罪を告白し、悔い改めるために洗礼を受けてに来ていました。
その中には、のちにイエスの弟子になって行った人々もいたかもしれません。

すると、ある時、そういう弟子が「イエスさま、私はあの日ヨルダン川で洗礼を受けたのですよ」なんて話す。するとイエスが、「そうか、よかったね。実は、わたしもあの日、あそこにいたよ」と。「ええ?!そうだったんですか」と驚く弟子たちにさらに「私はね、あの時、みんなと一緒にヨルダン川に入って、洗礼を一緒に受けたのだよ」とお話しされたことでしょう。

驚きを抑えきれない彼らに、さらに、その時のことを語られる。
「そしてね、ヨルダン川から上がると、私の目にははっきりと、天が裂けて、聖霊が、神の霊が下りてくるのが見えたのだ。それは鳩のような姿だったよ。そして同じく、天からの声をわたしは聞いた。お前たちは聞こえなかったか」なんて会話をしていても不思議ではありません。
その話を受けて、弟子たちにも、印象深く残り、こうして紹介されていったのでしょう。

でもわたしは、ただ印象深いから、マルコはこれを書き残したのではなかったと思います。
この話は、さらに、私たちひとりひとりへのメッセージであるということも分かったから、書かれたのだと思います。

そのカギを握るのは、天から聞こえた声です。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声。素晴らしい声です。
実はこの声の中身について、少しほかの訳と比べますと、「わたしの心に敵う者」というところは、もっとストレートなイメージです。どんな具合か、といえば、「わたしはおまえが大好きだ」あるいは、「わたしはお前を喜ぶ」という表現です。

新改訳聖書では、その通り、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と訳しております。
また、教会生活の長い方々には、なつかしい文語訳聖書では、「汝は我が愛しむ子なり、我、汝を悦ぶ」とありまして、やっぱり「わたしはお前を喜ぶ」とあるのです。

「我汝を喜ぶ。」この言葉をイエスさまはお聞きになった。そして、そのことを弟子たちにもお話しになった。

なぜ、弟子たちにこのことをお話しになったか。
それは、
「この言葉はね、わたしだけに言われた言葉ではないのだよ」
「これはあなたにも同じように届けられている言葉だ。汝は我が愛しむ子なり、我汝を悦ぶ。天の父はあなたのことを喜んでいる。あなたを見ているだけで父は幸せ。」
「その声を聴けるといいな。わたしは聞こえるよ。魂の耳で聞こえる。あなたも、魂の耳で聞いてごらん。天の父の声が聞こえる。汝は我が愛しむ子なり、我汝を悦ぶ、と。」
「魂の目を開くとね、見えるんだよ。神の霊が、鳩のように降りてきているのが。」
「何も恐れなくていい。あなたは神様のお気に入り。大切な、大切な子供だよ。」

そう教えられた出来事だからこそ、これは大切な話として語り伝えられたのではないでしょうか。

そして、それは今も同じです。
昨年洗礼を受けられた方々、その前に、その前に、いつでも、どこでも、洗礼を受けられた皆さん、思い起こすことができます。

その時、天からの声が響いていました。
あなたは私の愛する子、わたしの心に敵う者
汝は我が愛しむ子なり、我汝を悦ぶ

人間同士の世界でも、親は、子をもう見ているだけで、幸せになります。「生まれてきてくれてありがとう」の気持ちです。
神様も一緒です。天のお父様は、あなたを見ているだけで幸せ。
あなたは私の愛する子、わたしの心に敵う者
汝は我が愛しむ子なり、我汝を悦ぶ

その天の父の思いを携えて、おいでになられたのがイエスさまです。あなたのそばにいるために、あなたを救うために、です。

罪人のわたしたちを愛し、友になってくださった、兄弟になってくださった主の愛に感謝しつつ、新しい日々を歩んでいきたい、このように思います。

ルカによる福音書2章1~7節

14 12月

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

九州ルーテル学院大学チャペルにて(2017年12月14日 )

「その手で」

今、読んでいただいた聖書の言葉はクリスマスの時期に、もっとも多く読まれる個所です。

世界中で、この時期、このルカによる福音書2章は、どれだけ読まれるでしょうか。

また、2000年ほどの間に、この個所は、いったい、人類にどれくらい読まれてきたのでしょうか。天文学的な数字になろうかと思います。

そこに、「イエス」ではなく、アウグストゥスという人名が出てきました。

これは、実は、ひとつの称号でありまして、本名ではありません。彼の本名はオクタビアヌス。歴史に詳しい人であれば、オクタビアヌスと聞けば、「ああ、重要な人物の一人だ」とお分かりになるでしょう。

ローマ帝国の皇帝の一人です。彼は、アウグストゥスという称号を与えられました。それは、荘厳なる者、畏れ多い御方といった意味です。

そういう称号を与えられるほどに、オクタビアヌスは、名君であったということです。ローマの平和と呼ばれる時期の基礎を築いたとも言われます。

そして、このアウグストゥスと呼ばれるローマ皇帝が、その頃、人口調査の命令を出しました。現代で言えば、国勢調査に似ているかもしれません。でも、現代のようにシステマティックに進めることもできませんし、さらに、当時のローマ帝国が、ものすごい領土を広げていましたので、一説によりますと、当時の人口調査は、四十年ほどの歳月を費やしたと言われます。

そのような大きな時代の中で、一組の男女がおりました。ヨセフとマリア。神の子イエスの両親となる二人です。

大海に浮かぶ小舟のような、二人です。

二人は、寄り添うように、その時を過ごしました。

だれも助けてくれない。宿屋がなかったから、飼い葉おけに、生れたばかりの赤ちゃんを寝かせたとあります。皇帝アウグストゥスの暮らしぶりとは、大違いの状態です。

でも、これが、今から2017年前の、世界で最初のクリスマスです。

アウグストゥスは、人口調査をしようとしました。国民をきちんと把握しようとするものです。

「掌握する」という言葉があります。手のひらに握る、と書いて、掌握。

あるいは、もっと柔らかく、「手に入れる」「手中に収める」という言葉もあります。

面白いものです。手という言葉が、こういうとき、たくさん使われる。

でも、皆さん、自分の手を見てください。それは、小さいですね。その手の中に、収めると言っても、たいして入らないでしょう。

以前、私が入ったお店で、枝豆を、つかんだだけ食べることが出来るという企画があって、私も欲張りだから、この時とばかり、グイッとつかもうとしたら、バラバラと指の間から落ちて、あまりたくさん取れませんでした。

何事も、そんなものかもしれません。

オクタビアヌスがその手に納めよう、手中に納めよう、この国のトップとして、全領土を、全国民を、掌握しようと思った。

しかし、彼の手は、・・・人間の手は、世界を、世界に住む人を、その手に納めるなんてことはできないと思います。たかが、こんな手だからです。

でも、その小さな手が、とても頼りになる時もあります。それは、その手が、だれかを助ける時です。

あなたの手が、誰かを、支えようとするとき、あなたのその小さな手は、とても暖かくて、優しくて、頼りになる手になります。

あの日、ヨセフとマリアは、孤独な中で寄り添っていました。マリアは、初めての出産です。産婆さんもいません。そのような中で、そばにいるヨセフさんがしっかり手を握っていてくれたのではないかなと思います。そして、その手は、どんなにか、マリアさんにとって頼もしい手だっただろうかと思います。

そのようなぬくもりの中で、神の子イエスはお生まれになりました。

何が、人の救いとなるのか、それは、そばにいてくれる人のぬくもり、世を治めるほどの力や、権力ではなく、そばにいる人のぬくもり、それがいちばん大切だと教えているかのようです。

そして、そのような中でお生まれになった神の子イエスが、届けてくれたのは、「私はいつもあなたと共にいる」という約束でした。その約束は今も、永遠に続きます。なぜなら、この御方は、まことの神の子だからです。

今年のクリスマス、パーティーも楽しいですが、どうか、「いつも共にいる」と約束された救い主、イエスさまのことを、おぼえていただきたいとおもいます。

祈ります。

御子イエス・キリストの父なる神さま。

皆さんと一緒に祈ることのできるひとときを感謝します。

私はいつもあなたと共にいる。この尊い約束が、皆さんの体を、心を、優しく包むクリスマスとなりますように。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

ヨハネによる福音書15章1~17節

5 11月

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

全聖徒主日(2017年11月日 神水教会にて)

「いのちは神の御手に」

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

先ほどお読みいただきましたヨハネ福音書15章のみ言葉、11節に、こういうひとことがありました。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

イエスは、たくさんのみ教えを弟子たちに残されました。聖書を読んでおりますと、わたしたちも、その一端を垣間見ることができます。

自分を愛するように、隣人を愛しなさい。

求めなさい、そうすれば与えられるであろう。門をたたきなさい、そうすれば開けてもらえるであろう。

一粒の麦は落ちて死ななければ、一粒の麦のままである。だが、落ちて死ねば、豊かに実を結ぶ。

隠れているもので、露わにならないものはない。

あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを迫害し、あなたがたを呪う者のために、あなたがたは祝福を祈りなさい。

などなど、キリスト者でなくても、どこかで耳にしたことのあるような、珠玉の教えの数々。おそらく、わたしたちが聖書で読んでおりますのは、そのみ教えの一部であって、当時、寝食を共にしていた弟子たちは、もっと、もっと多くの言葉を、主イエスの口から聞いていたことでしょう。

そういったたくさんの言葉を語って来たのは、何のためであったか、それはわたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。と。

喜びのためであると。キリストの言葉は、何のために発せられたかと言えば、わたしたちが喜びにあふれ、喜びに満たされるために、そのために、主イエスは、これらの言葉を語って来たのだと。

わたしたちが、聖書を読む。これは、何をわたしたちにもたらすのか。喜びをもたらすのである、とこう言いきっても過言ではないでしょう。

イエス・キリストの言葉、すばらしい聖書の言葉、それは、喜びとなる。

ですから、聖書を読みながら、暗い気持ちになることがあるとしたら、それは、正しい読み方をしていないということになりましょう。聖書を読みながら、いつもしかめっ面をしているなら、それはどこかでずれが起こっているということになりましょう。

聖書を読めば、喜びがやって来るのです。

さて、しかし、ここで考えないといけないことがあります。それは、では、喜びとは何か、ということです。

皆さんは、喜びとは何か、と聞かれたら、何が浮かんでくるでしょうか。

孫がやって来た。これは喜びかもしれない。

いつになったら結婚するかと思っていた息子さん、娘さんがいい人を連れて来た。これも嬉しいかもしれない。

給料が上がった、学生さんならば、成績が上がった。あるいは、志望校に入学できた。こんなところには、間違いなく喜びがあります。

でも、こういった喜びは、ある特定の人の喜びです。

成績が上がったということは、すぐ隣の席の人が成績が下がったということかもしれない。自分には喜びでも、他人には喜びとは限りません。

あるいは、逆に、あの人にとって喜びであることが、わたしにとって喜びでないことがあります。

人の喜ぶ姿を、素直に喜ぶことができない、むしろ、妬ましい気持ちさえ起るのも、わたしたちの現実です。

では、聖書が告げる喜びは何か。

聖書は、古今東西、万人に向けて書かれた書物です。

いま、ここでわたしたちが読む。この言葉は喜びですと読む。それは、地球の裏側の人にも喜びであり、いま、ここに来ていない人にも喜びであり、さらに千年前の人にも喜びであったし、まだ見ぬ遠い将来の人、わたしたちの孫の孫のそのまた孫にとっても、聖書のもたらす喜びは、喜びなのであります。

キリストは、そういう喜びについて語っておられます。

それは何か。

それは、天の喜びです。

天上の喜び。神さまの領域にかかわる喜びです。

この地上の喜びは、限界があります。あの人にはよくても、この人にはよくない。地上の喜びは、決して、みんなに共通の喜びとはなりえない。

古今東西、みんなに等しく喜びとなるのは、天の喜びです。

あと一ヶ月ちょっとすると、クリスマスを迎えます。クリスマスの夜には、天使がやって来て、羊飼いたちにメッセージを告げた、と聖書に書かれています。あちこちでクリスマスの聖誕劇をやる時に欠かせない場面です。

羊飼いたちへの天使のセリフはこうです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:10、11)

クリスマスの夜にも、天使から喜びについて語られました。それは、民全体に与えられる大きな喜びと言われます。

これは、今日のイエスのことばと同じものです。民全体に与えられる大きな喜び。

イエスが、弟子たちに、語られた今日のヨハネ福音書15章の喜びもこれと同じです。

そのような喜びをもたらすために、神は天使を通してみ告げを残され、またイエスは、弟子たちに、今まで語って来た教え、それはすべて、あなたがたに喜びをもたらすためだった、と言われる。

その喜びのさまを表すのに、今日のみ言葉は、ぶどうの木と枝をたとえに語られておりました。

イエスはぶどうの木、わたしたちは、その木につながる枝々であると。

イエスが、御自身とわたしたちの関係を表すのに、ぶどうの木を題材にとられたのは、恵み深いことです。

針葉樹のようなものではありません。まっすぐに天に伸びていく木ではありません。

横へ横へ広がるのがぶどうの木であり、その枝です。つながっているのです。ぶどう園を見に行くと、もうどの枝が、どの木につながっているのか、分からないくらい、枝々が広がり重なり合っています。

ぶどうの木と枝にたとえられたというのは、ひとことで言えば、わたしたちは、神様と一体だ、ということです。

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。とか、

わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、とか、

わたしの愛にとどまりなさい、とか、

わたしはあなたがたを友と呼ぶ、とか、こういった一言、一言を、振り返って行きますと、わたしとあなたがたは一体となるのだ、わたしの命があなたの命となり、あなたの命は、わたしの命となるのだ、と言われているが伝わってきます。

イエスの命は、永遠の命です。神さまですから。

永遠です。その永遠の命が、わたしたちの命となる。わたしたちの命が、永遠なるイエスの中にのみ込まれて行く。

それこそが、イエスの語られた喜び。皆に等しい喜び。今ここにいる者だけでなく、すでに天に召された者をも包み込む、永遠の喜び。

その喜びが、イエス・キリストを通して、この地上に届けられました。

この地上で、与えられた日々、その日々を、確かな喜びに満たされて生きていくためには、イエスにつながっていることです。

枝が幹につながっているように、しっかりイエスにつながっていること。

祈ること、み言葉に耳を傾け続けること、礼拝に来ること、そうやって、イエスにつながるのです。

そうすれば、世の悲しみ、苦しみの中にあっても、永遠の喜びが、わたしたちを満たします。それは、天の喜びです。神さまの喜びです。

天に召された兄弟姉妹たちは、すでに、その喜びの中で永遠の命を受け、永遠の慰めの内に生きています。

しかし、これは、天に召されて初めて、この喜びを味わうのではありません。

なお、この地上での日々を歩むわたしたちも、同じ喜びを味わうことができます。

主を信じれば、その喜びを知ることができます。永遠の命を約束する主のみ言葉を信じて、生きる。そこに、天からいただく、消えることのない喜びが宿るのです。

救いをもたらすために、イエス様は来られました。永遠の喜び、永遠の慰めのために、主は、わたしたちのもとに来られました。

イエス様は、いまも、わたしたちと共にいてくださいます。イエス様は、わたしたちの内に生き、わたしたちもまた、この身を主にゆだねて、生きていくよう招かれております。

わたしたちの命は主のもの、主の御手の内にあります。

信仰と希望を胸に、新しい日々を生きていきたい、このように思います。

マタイによる福音書20章1~16節

15 10月

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

聖霊降臨後第19主日(2017年10月15日 神水教会にて)

「あなたにも支払ってやりたい」

本日与えられましたマタイによる福音書20章には、イエスのなさったたとえ話が記されておりました。

たとえ話です。現実に起こった話ではありません。目に見ることのできない天の国を、何かにたとえようとなさったら、このような話になったのだということです。

一人の主人がいた。彼はぶどう園を持っていた。そのぶどう園で働く労働者を求めて、広場へ行く。夜明けに、9時に、12時に、3時に、そして5時に。足しげく主人は、広場に行って、労働者を雇った。そして、彼ら皆に給料を一デナリオンずつ支払った。そうしたら、朝早くから働いた者たちが「夕方からの者も同じなんて不公平だ」と文句を言った。けれども、主人は「私は皆に支払ってやりたいのだ」と答えたという話。

いま、私はこの話を短くまとめましたが、そんな事をしなくても、おそらく、皆さま、この話は一度読めば、その内容といいますか、あるいはこの場面の様子が浮かんでこられることと思います。そんなにややこしい話ではないと思います。とにかく人を雇って、給料を払ったというだけの話ですから。

でも、話の筋はわかったとしても、話を聞いて、納得できるかと言われれば、どうも、首をひねりたくなると思われる方も多いでしょう。

どうして、こんなひねくれた話をするのだ、と思われる方も少なくないと思うのです。

朝早くから働いた人と、夕方からちょっとだけ働いた人がいて、同じ給料をもらいました。ああ、そうですか、と簡単に素通りできない話です。

実は、ユダヤ教のある文献には、これとよく似た話が紹介されているそうです。そこでは、いちばん最後に来た人は、とっても有能な人であって、わずかな時間であったけれども、てきぱきと素晴らしい仕事をやってのけ、朝早くから働いた人と同じくらい貢献した。それで同じ金額を手にしたのだ、と説明されています。

これなら納得いきます。首をひねる必要はありません。

実際、今でも、時間給ではなく能力給で支払われるという職場は、いくらでもあります。夜明けから働いたか、何時間働いたか、というのは問題ではなく、どれだけいい仕事をしたか、主人を満足させたか、そこが問題だったのだと言われれば、おそらく誰も文句を言えないでしょう。

イエスも、そういうふうに話をしてくださったら、聖書ももう少し納得しやすいものになっていたかも知れません。

けれども、イエスが天の国についてお語りになろうとすると、そのような納得いく話にはできなかったようです。どうもひとひねり生まれてしまったようです。

それは、力点を置く場所が違っていたと言ってもよろしいかと思います。

何でもそうですが、どこに力点を置くのか、何を大事にするのか、それによって物事は右にも左にも行くものです。

たとえば、ここでは仕事の話です。雇う側と雇われる側です。何を大事にするのか。

ある人は、仕事の能力をいちばんに考えるでしょう。

でもある人は、仕事をするからには、自分がやりがいをもってできるかどうかに力点を置くでしょう。

そうかと思えば、ある人は、いちばんたくさんお給料をもらえるかどうかを真っ先に考えるでしょう。

そんなふうに、同じ事柄を扱うにしても、わたしたちは、どこに力点を置くのかで、物事の意味が変わってくる、価値が変わってくるということがあります。

今日の話の登場人物たちにしてもそうです。

分かりやすいのは、夜明けから働いていた人たち。この人たちの力点は、働いた分だけきちんと見合ったものを渡してほしい、ということです。夕方五時から働いた者と、朝早くから来て働いた自分たちとを同じ扱いをするな、きちんと働きに応じてふさわしいものを支払ってくれ、とこういう姿勢です。

さきほどのユダヤ教の文献と同じように、それはわたしたちにとってわかりやすい話です。おそらくわたしたちも皆、同様でしょう。同様だからこそ、わたしたちは、この話を聞いた時、えっ、ちょっと待ってよ、と思うのです。割に合わない話だと思うのです。なんでこんな人の神経を逆なでするような話をするのか、と思ってしまうのです。

一方、この主人はどこに力点を置いていたのでしょうか。

さきほどのユダヤ教の話と比べますと、この主人は、労働の能力などについてはあまり関心がないようです。働いた時間、その貢献度、そういったものにはまったく目を向けていません。

それから、この主人は、いくらのお金を払うかということについての計算のようなもの、そこにも関心がないようです。つまり、普通こうやって人を雇う側の立場であれば、計算をします。予算を立てます。

私も今、九州教区の宗教改革500年行事の実行委員長を仰せつかっております。こういうものを進める時には、当然ながら予算というものを立てます。収入はどこからどのくらい入ってくる、だから、支出はこのくらいと。なんでもかんでもやりたいと思っても、予算の範囲内で考えます。

こういうめでたい時だから、九州教区の皆さんの食事代、ホテル代、新幹線代、全部こっちで持ちましょう、なんて思ったって、そんなお金に余裕はありませんので、できるわけありません。

500年を記念して、ひとつ一億円くらいのモニュメントを作ろう、と思ったって、そんなことできはしません。まあ、やりませんけど。

今日の話の主人を見ていると、そのへん無頓着です。細かい計算のもとで動いているとは思えません。

だから、主人は人数も気にしていません。通常、こうやって人を雇う場合、何人くらいの労働者が必要であるということをきっと考えます。

でもこの主人は、何人に来てもらおうかということ、初めからまったく考えていないようです。だから、無計画にというか、次々に、さあ、君もおいで、君もおいで、と呼んでおります。

では、この主人は、何に関心があるのか。どこに力点を置いているのか。

この主人は、どうも、広場に残っている人に関心があるようです。

つまり、仕事にあぶれて、行き場がなく、絶望を抱えつつ、広場に取り残されている人、そういう人たちに関心を持っているようです。

この主人は、あぶれた人を見たくない愛情の深い人なのです。みんなを自分のぶどう園に連れてきたいのです。

それから、この主人は、自分の利益をあげることには関心がないようです。通常、人を雇う側、つまり経営者の側ならば、利益を上げることを考えます。でも、この主人は、利益を上げることではなく、一デナリオンずつ与えることに関心があります。

ありがたい主人です。愛の主人です。神さまのお姿です。

これは、間違いなく天の国のたとえです。

いろいろな人たちが、広場で、この主人と出会いました。

夜明けから、朝一番で、この主人と出会った人たちがいました。彼らは最終的に、支払いのことで文句を言っておりましたが、本当はとても幸せな立場です。朝が来るとともに、仕事が見つかったのです。一デナリオンもらえるという約束までいただきました。

一デナリオンだけでなく、彼らは、これで今日は大丈夫、という安心をもらいました。これが大きいですね。

9時から働いた人は、9時になって初めてその安心をいただきました。ということは、言葉を変えれば、夜明け頃の時はあぶれたのです。ああ、今日は、仕事につけなかった、どうやって食べようか。明日はどうなるのかな、なんて不安な時間を過ごしました。

12時の人、3時の人、さらに5時の人、もう今日は仕事がない、給料がない、生きる保証がない、そういう不安を抱く時間が、それぞれありました。

そうやって待っている間、彼らは何が欲しかったのでしょうか。何に力点を置いていたでしょうか。

五時ごろに行って、雇ってもらった人々のせりふが印象的でした。

主人から、「なぜ、ここに立っているのか。」と尋ねられると、彼らは「だれも雇ってくれないのです。」と言います。

だれも雇ってくれないのです。

「食べ物がないのです。」「お金がないのです。」とは言いません。

「雇ってくれる人がいない。」と。

彼らは、雇ってくれる人、別の言い方をすれば、自分の主人がいない。主人を得られないまま、五時まで来てしまいました。

能力とか、貢献度とか、そういうことではなく、そこにあなたがいるだけで、それでいい、と言って、自分を受け止めてくれるような主人と出会いたかった。そのような愛を求めている。そこに力点を置いています。

だから、彼らは、「雇ってくれる人がいないのです。」と言います。

主人は、そんな迷子になっているような人、取り残された人を見たくないのです。一人残らず、自分の畑に招きたいのです。

もうお分かりと思います。この主人が神さまです。そして、この主人の深い愛によって、わたしたち一人一人が愛されていること、それが天の国なのです。

わたしたちは、この主人によって、招かれ、「さあ、おいで、今が五時だからと言って遠慮するな、さあ、おいで」と招かれています。

あなたに何の能力があろうが、何だろうが、関係ない。わたしは、ただ、あなたを招きたい、あなたをそばに置いておきたい、あなたを守りたい、あなたを救いたい。

あなたが誰にも認められず、雇ってくれる人がいないのです、なんて姿を見たくないのだ、と主なる神は言われます。

今日の話、最後、夜明けから働いていた人たちが文句を言います。「朝早くから働いていたわたしたちと、あの五時からの者を同じ扱いにするのか」と言って。その気持ち、わかります。きっと誰もが分かります。

さて、主人は何と答えたでしょう。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。」

主人は、自分のしたいようにしては、いけないか。と言いました。

したいことをする。・・・さて、この主人は、何をしたのでしょうか。

この主人は、皆さんを救いたい。それがいちばんしたいこと。望んでいること。そのために、この主人は、何をしたか。御自身のたいせつな独り子を送られました。あなたをお救いになるためにです。あなたを救うこと、それが一番の関心事だからです。あなたという存在がこのご主人の最大の関心事なのです。

主人は、今もこの礼拝堂に、あぶれている者はいないかと探しに来ておられます。約束の一デナリオンという名の救いは、無条件に、神の恵みによって差し出されています。あなたの目の前に。

この恵みによって私たちは救われるのです。

マタイによる福音書14章22~33節

3 9月

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

聖霊降臨後第13主日(2017年9月3日 神水教会にて)

「波風の中を」

夏休みの間、慈愛園子供ホームでは、毎年、金曜日の夜に夕礼拝を行います。

子供たちは、職員のみなさまやボランティアの方々のもとで、宿題も割と早く進めておられるようです。また、児童養護施設対抗のスポーツ大会などもあって、元気に練習をしています。学校の勉強もあり、スポーツもあり。とても恵まれた時間を過ごしていると思います。

そして週に一度ですが、金曜日の夜には、学校の勉強とは少し違う、神様のお話を聞く。そんな時間も過ごしている。これまた、恵み深いことと思います。

私は毎年、何かテーマを決めて、臨んでおります。

今年の夏は、モーセについて学びました。

エジプトの王、ファラオのもと、幼な子たちの命が狙われて行くのですが、ひょんなことからエジプトの王女様に拾われ、モーセは、王宮で育って行くという数奇な運命をたどります。

その後、成人したモーセは、ある日、燃える芝の中から、神の声を聴く。エジプトの奴隷とされているイスラエルの民を救い出しなさい、と。その時、モーセの年は80歳。モーセの新しい人生が始まります。

モーセは、何度も、何度も、ファラオと交渉していきます。その間、ナイル川の水が血に染まる出来事、蛙や、あぶ、ぶよ、などが国土を覆い尽くす災いなどが、やってきますが、ファラオは、決して、イスラエルの民を解放してくれない。

しかし、ついに、エジプト中の長子が、動物も、人間も、すべて命を奪われるという出来事が起こって、ファラオはあきらめて、イスラエルを解放します。

そこからイスラエルの民を率いて、約束の地へ歩み出すモーセの旅路が始まるのですが実に、四十年間かかる旅路でした。

その間、海が割れてその間を進む話もあれば、天からマナと呼ばれる食べ物がふって来て、旅路の間、食料に困ることのなかった彼らの日々などが紹介されて、出エジプトの旅が進みます。繰り返しますが、その旅路は四十年間でした。

しかし、これは、不思議な話です。地図で見ていただければわかるのですが、あのシナイ半島を巡って、エジプトから、約束の地へ、つまり現在のパレスチナ地方へと行く旅は、いくら徒歩の旅だったと言っても、四十年間もかからない道のりです。確かに、中には、子供もお年寄りも、体の弱い人も一緒だったでしょう。

しかし、それでも四十年は長い。四十年どころか、一年もあれば、到着することができた旅路ではなかったか、などとも言われます。

でも、あの荒れ野の旅路は、四十年間かかりました。

時間が必要だったようです。神さまが、そのような時間をお与えになられたようです。

何のための時間か。それは、神を信じる信仰が生まれ、その信仰が養われるための時間です。その旅によって、体だけでなく、神を思う信仰が与えられていきます。何度も、何度も失敗しつつ、です。

さて、本日与えられましたマタイによる福音書14章のみことば、弟子たちを乗せた小舟が、ガリラヤ湖の上で、立ち往生していた時、イエスが歩いておいでになったというはなし、これも似たような疑問がわきます。

と言いますのは、彼らがこの時、渡ろうとしていたガリラヤ湖は、縦20キロ、横幅10キロくらいの湖です。

スムーズに進めば、反対岸に行くのに、20分くらいで着いてしまうと言われています。

ところが彼らは、この時、何時間も、湖上で立ち往生しています。ありえない長さです。

どのくらい、立ち往生し、こぎ続けていたか。

ちょっと振り返ってみましょう。先週の礼拝で、今日の個所のひとつ前の話を学びました。それは、男だけでも、五千人もいたという大群衆に、五つのパンと二匹の魚で、満腹にしてくださったという話でした。

あれは、夕方の話です。弟子たちが、みんなを解散させましょう、夕暮れになりましたから、という話でした。つまり夕食時の話でした。そのことがあってすぐ、といって今日の話は始まっております。

あの、奇跡のみわざを体験して、弟子たちは、イエスに強いられて、舟に乗り込み、向こう岸へ進もうとしています。

繰り返しますが、それは、すんなり行けば、20分くらいで着きます。しかも、弟子たちの中には、シモン・ペトロをはじめ、このガリラヤ湖で漁師として働いていた面々もいます。あっという間に、向こう岸へ行けるはずでした。

ところが、いったい、どのくらい時間がたったのか。

彼らは、湖上において、前にも後ろにも、進むことが出来ずにいます。

そのような状況の中、イエスが水の上を歩いて、おいでになるのですが、それは、夜が明けるころ、と書かれています。

これは、大体、夜中の三時から六時ころを指す表現であると言われます。

夕食を食べ終わって、すぐに出発し、そして、今、夜中の三時ころに至るまで、彼らは、ずっとガリラヤ湖上で、立ち往生しているのです。

何時間でしょうか。6時間、7時間くらい、いやもっと長い時間になるかもしれません。

あのモーセたちの、四十年間の旅路に何か重なっているところがあるように思えます。

両者とも、短くて済むものを、長い時間をかけて、進む旅でした。

そして、両者とも、その道行きの間、困難を経験しました。

しかも、両者とも、その困難の中で神様を見失っています。不安の中に埋没して、神様が見えなくなる時をどちらも味わっています。

そして、両者とも、そのような旅路へ、行きなさいと神さまに送り出されました。

これは、わたしたちの旅路を象徴しているように思えます。

わたしたちも、この世に送られました。この世に生を受け、この世という大海原を、進みます。小舟に乗って、大海を渡るようです。

かつてモーセたちは約束の地を目指しました。

そして、あの日、弟子たちは、向こう岸へ渡るために、漕ぎ出しました。

向こう岸へ行くのは何を意味しているでしょう。

そして、約束の地とは何なのでしょう。

神を信じること、これが約束の地です。

神を信じて、平安を頂くこと。これが約束の地です。

立派な土地を得ることではありません。財産を手に入れることではありません。それがあってはいけないわけではありませんが、

しかし、私たちにとって最高の宝は、神を得ることです。神を知ることです。神を信じることです。そこにたどり着く。

そこへと行かせるために、かつて人々は、荒れ野の旅を四十年間歩きました。

また、イエスさまは、神への信仰を強くさせるために、強いて、波風さかまく中を、舟に乗せ、弟子たちを送り出されました。

神様はどうしてわたしをこんなめにあわせるのか。わたしたちも、つぶやくことがあります。神さま、なぜ?と問いかけつつ、この世の旅路を進んでいることがあります。

あるいは、また、神様に背を向けつつ、神様を疑いつつ、文句を言いつつ、この世の旅路を進んでいます。

イスラエルという言葉があります。これは、今では、ひとつの国家として、イスラエルをわたしたちは今、思い起こすかもしれません。でも、本来は、神と戦う民、神と向き合う民、そういう意味であります。

神様、なぜですか、と問いかけながら、歩む。まさに、イスラエルです。イスラエルの歩みです。

モーセたちも、そうでした。

ガリラヤ湖の上の、弟子たちもそうでした。

そして、私たちも、そうなのです。

今日の話、後半のところで、水の上を歩いてこられたイエスを見て、ペトロが、私も歩いて行かせてください、と頼み、歩き始める場面があります。

驚きの場面です。ペトロが水の上を歩く。それはイエスが歩かれたよりも、ずっとずっと驚く場面と思います。

ところが、それも束の間、ペトロは水の中に沈んでしまう。それは風を見たからでした。

新共同訳で、強い風に気が付いて、怖くなり、とありますが、ここは、彼は、風を見て、怖くなったのです。

風を見た。面白い表現です。ここでは、おそらく、風を見たというのは、ヒューっと吹いて来る風を、体で味わい、また、耳で、その音を聞き取ったということでしょう。さらに、風によって、波立つさまを見たということでしょう。

それら、全てを含めて、風を見て、その恐ろしさに不安になり、自分の小ささを思い、怯えたということでしょう。

水の上に、ポツンと浮かぶ小舟。水の上を歩くペトロ。それは、いつでも、風が見える状態です。・・・わたしたちの姿です。

わたしたちは、いつでも、どこでも、どんな状況でも、いろいろな風を見ています。逆巻くさまを、波風の吹き荒れるさまを。そのつど、その不安、恐怖に襲われるたびに、神を忘れる。それが私たちの姿です。

そこで、神様を仰ぐことを知らされます。

風と同じように、見えもしないけれども、確かにいらっしゃる主なる神を見る。

どんな恐怖をも飲み込む、どんな波風をも踏み越えて、来てくださる。真の神さま。

あなたの信仰の目を開いて、この神を見よ、救いの主を見よ、そこに、あなたの真の幸い、真の平安がある。そう告げています。

弟子たちが波風の中を、立ち往生していた時、主は山の上で祈っておられたとあります。

そして、気が付けば、そばにおられました。水の上を、波風の中を、イエスは、弟子たちのもとへ行かれました。

わたしたちにも同様です。主は、日々、祈っておられます。わたしたちが祈るより先に、わたしたちよりも深く祈っておられます。そして、気が付けば、いつもすぐそばにおられるのです。どんな波風の中でも、主は共におられます。

あなたを平和と、救いの、向こう岸へ連れて行くまで、イエスさまは、きちんと責任を果たされる、真実の救い主です。

この御方を信じ、なお与えられた旅路を、信仰をもって、歩み続けたい、このように思います。

 

マタイによる福音書13章44~52節

20 8月

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

聖霊降臨後第11主日(2017年820日 神水教会にて)

「天の国の学者」

この8月に入りまして、マタイによる福音書の13章のみことばを続けて、学んできております。

13章の初めにあったのは、4つの種の話でした。

種を蒔く人が種を蒔く。ある種は、道端に落ちて、鳥に食べられた。

ある種は、土の浅い所に落ちて、すぐに芽が出たけれども、根がないのですぐに枯れた。

ある種は、茨に囲まれたところに落ちたので、のびようとしたけれど、茨に邪魔されて、伸びなかった。

しかし、ある種は、良い土地に落ちたので、すくすくと成長し、三十倍、六十倍、百倍もの実を結んだと。

それから、同じ種の話でも、種を蒔く人が蒔いたけれども、そこで、良い物だけが育ったのではなく、毒麦も一緒に育って行ったという話もありました。主人は、毒麦を抜くと、良い麦も一緒に引っこ抜いてしまうから、両方とも育てよう、と言ったという話です。

あるいは、からし種のように小さなもののたとえ、さらに、パン種のたとえと続いておりました。

これらはすべて何の話であったかと言えば、天の国のたとえでありました。

天の国とは、種が蒔かれていくようなもの、というたとえです。また、この世界には天の国の種、神のみことば、神のみわざがなされているのだけれども、同じように、この世界には、毒麦のような、悪の業も行われているということのたとえです。

あるいは、天の国は、からし種のように、目にもとまらないものだけれども、それは、からし種が育って、大きな葉を作り、空の鳥が巣を作るほどの木になるように、確実に、その種は成長する、天の国、神のみわざは、神の御こころは、目には見えないようだけれども、必ず、それは大きな実を結ぶのだ、というたとえでありました。

本日与えられました個所も、その続き、やはり天の国について、イエスがお語りになったところです。

それは、宝物のようなだとあります。

ひとつは、畑の中に隠されている宝というたとえ。

どこかのニュースで、何千万円もの大金がどこかから出て来た、なんていう報道がいつかもありました。そういうこともあるでしょう。あるいは、何か建物など、建築をするときに、基礎工事をしようと、土を掘っていたら古墳が見つかった、なんていう話も聴くことがあります。現代なら、そんなことが思い浮かぶかもしれません。

聖書の時代は、どうだったかと申しますと、本当に、宝物を土の中に埋めていたようであります。今のわたしたちのように銀行などが、発達していなかったからです。それで、財産などを、銀行に預ける代わりに、自分の土地、畑などの中に、財産を埋めておくということがしばしば行われていたようです。

そうやって隠すのはいいのですが、その隠した本人が、その宝のことを誰にも言わないで、死んでしまうケースもあります。そうすると、いつか、その畑を掘った人が、見つけてびっくりするということが起こる。ここでは、そういうことが想定されています。

ある人が、畑を耕す仕事をしていたと。それは、雇われて、であります。自分の畑ではなくて、「おまえは、ここの畑を耕せ」とか言われて、雇われて仕事をしていた。そうしたら、その土の中から、とんでもない宝を見つけてしまったと。これはもう、何にも代えがたいくらいの宝が出てきてしまった。何億円か、何兆円か知りません。あるいは値段など付けられないくらいのお宝が出てきてしまったというのです。

さあ、そこで、この人はどうするか。

その人は、持ち物を全部売り払って、その畑を買うだろうと。

つまり、こんな感じです。雇われている身ですが、その畑の主人に言うのです。「すみません、この畑を買いたいです。いくらで売ってくれるでしょうか」と。「なんとしても、この畑が欲しくなってしまったのです」と。もしかしたら、借金もするかもしれない。それも半端な額ではないでしょう。畑を一個買うのですから。でも、いくら借金しても、惜しくない。それほどの宝を見つけてしまったと。

これが、きょうの天の国のたとえです。

そして、同じような話がもうひとつありました。

それは高価な真珠のようであると。商人が良い真珠を捜している。そして、ある時、本当にすごい真珠を見つけてしまった。おそらく、こういうものは、専門家にしかわからない価値があるのでしょう。でも、とにかく世に二つとないような、素晴らしい真珠を見つけてしまった。

そうしたら、この人も、自分の財産を全部、売り払って、この真珠を手に入れると。いくら借金したって、惜しくない。それほどの宝物だと。

これが天の国のたとえであります。

どちらも、世に二つとないすごい宝を見つけた話。それが天の国のたとえであると。

それを見つけたら、もうほかの何物も、すべて価値を失うのだと。それさえ手に入れたら、もう何もいらない。それが、天の国なのだと。

しかも、それは、すぐに見つかるところにはないようです。からし種のように、目にもとまらないようです。気づかない人が多いようです。

でも、ひとたび、それを知った者は、これが、最高の宝。もうほかの何物も、価値を失うほどの宝だと分かるのだと。

それが天の国。神の国。別の言い方をすれば、神の愛、神の恵み、神の憐れみ、ゆるし、救い。

地上のだれも、地上の何物も、差し出すことはできません。

たとえば、お金。お金は、宝です。皆欲しがります。生きる上で、とても重要です。

でも、お金は、あなたを天国に連れて行ってはくれません。お金は、あなたを守ってはくれません。お金は、あなたを母の胎にいる時から、見守っていたわけではありません。お金は、あなたを愛しているわけではありません。お金は、「何があっても、あなたのそばから離れない」なんて約束はしてくれません。お金は、永遠ではありません。

いましつこいくらい、私が申し上げた表現、どれも、神様は当てはまります。

神さまは、あなたを天国に連れて行ってくれます。神さまは、あなたを守ってくれます。神さまは、あなたを母の胎にいる時から、見守っておられました。神さまは、あなたを愛しておられます。神さまは、何があっても、あなたのそばから離れません。神さまは、永遠です。

皆さんは、この宝を見つけた方々ではないでしょうか。この世のどんなものとも比べようのない宝、お金では買えない真の宝、それを知ってしまった人たちではないでしょうか。

きょう、このあと、谷口さんの洗礼式があります。お仕事も忙しいのに、ご家庭のこともそれなりにいろいろおありでしょうに。この日曜日、ここに来られる。宝を見つけたからです。

ご存じの方もおられるかもしれませんが、谷口さん、先週の日曜日、礼拝に来られませんでした。どうしてもお仕事、抜けられなかった。でも、ちょうど、礼拝が終わったころ、谷口さん、駆けつけられました。もう礼拝は終わっていました。でも、なんとか、ここへ、教会へと駆けつけられました。少しでも、神様の御前に行きたい、と。教会に顔を出したい、と。そしてまた、そのあと、お仕事へ行かれました。

神様という宝が分からない人には、「なんで、そんなことをしているの」と言われることでしょう。

でも、この宝を見つけた人は、神様の救い、神様の愛、いつも共におられる御方、私のことをずっと見守っておられるまことのお父さま、この御方のことを知った者は、他の何物をもかなぐり捨てて、この宝を大事にするのです。

これを見つけた人は、学者だとイエスさまはおっしゃいました。天の国の学者だと。

私たち牧師は、確かに、神学校を出まして、学位をいただいております。中には、博士号をとられた牧師さんたちもいらっしゃいます。それこそ、神学における学者です。

でも、イエスさまが言われるのは、「神様のことを知ったあなたは、神様の愛を知ったあなたは、天の国の学者だ」と言われる。ここにおられる皆さん、きょう洗礼を受ける谷口さんも含めて、みなさん、天の国の学者です。

学者は、その筋の専門家です。その筋の専門家は、なにがしか、その筋のことについて、尋ねられれば、答えます。

みなさんは、天の国の学者、神様のことについての学者です。牧師だけではありません。みなさん、学者です。天国学の権威、神様学の学者です。

その証拠に、みなさんは、周りの人にお伝えすることができます。

「教会に行くと、ほっとするんですよ。」と。

「讃美歌をうたうと、楽しいんですよ。」と。

「教会ではね、職業とか、年齢とか、人種とか、そんなこと一切関係なく、みんな兄弟姉妹というのですよ。」なんてことも伝えられる。

「ふーん」と人は聞くでしょう。中には、半分せせら笑いながら聞く人もいらっしゃるでしょう。それはまだこの宝を見つけていないからです。でも、皆さんは、見つけました。畑に埋っているこの宝を。

皆さんは、答えることができます。

「私は救われていますよ。」

「私は、死んだら、教会でお葬式をあげてもらいますよ。そこでは、また会おうね、と言ってみんなが送り出してくれるのです。」

「お祈りは、いつでも、どこでも、できるのですよ。だって神さまは、いつも私のそばにおられるから。」

・・・なんでも、答えることができます。なぜなら、あなたは、神様学の学者だから。天の国の学者だから。他の何物も知らなくても、神様の愛だけは知っている。いちばん良い物を知っているのです。

「私自身は、ふらふらして、だらしないところもいっぱいあるけれど、そんな私のことを神様は、愛してくださる。私はだから、安心なのです。」「主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。の歌詞の通りです。」

みんな、答えることができます。自分の言葉で。自分の思いで。天の国の学者だから。

学者だから、胸張って生きてください。しかも世の中の、どんな学問よりも、はるかに尊いことに関する学問です。神さまに関して、学ばれたのです。みんなが気づかないこの宝を、皆さんは、知ってしまったのです。畑の中の宝を見つけてしまったのです。

天の国の学者として、顔をあげて、いつも喜んで、絶えず祈って、どんなことにも感謝して生きて行きましょう。

そして、学者は、本当に良い学者は、喜びを胸に秘めつつ、謙遜であるものです。「俺は、何でも知っている学者だ」と言って、相手を見下ろすことは一流の学者にふさわしくないでしょう。天の国の学者は、恐れおののきつつ、神に仕え、隣人に仕える。心から、へりくだることをも知っている。そういう学者でありたいものです。

この宝が、ここで輝き続けるように、祈り、励んで行きましょう。そして、この素晴らしい宝のことを、ひとりでも多くの方に伝えて行きましょう。主の平安がありますように。

マタイによる福音書10章16-33節

16 7月

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

聖霊降臨後第6主日(2017年716日 神水教会にて)

「信じて歩む」

マタイによる福音書10章のみことばを与えられております。

先週の礼拝にお出になられた方は、おぼえておられるかと思います。先週は、マタイによる福音書10章の前半のところ、またその少し前、9章の終わりも学びました。

その際、とても印象的だった言葉があります。

それは、イエスが群衆をご覧になった時、それは、まるで飼い主のいない羊のような姿であったというところです。

イエスが人々をご覧になる。その姿は、まるで飼い主のいない羊のような姿であったと。

そのさまをご覧になって、イエスは深く憐れまれました。

お腹が痛くなったのだということです。上から目線で見降ろして、同情しているのではなく、憐れな群集の姿をご覧になると、ひとごととは思えず、まるが子を思う母親の愛情のような、胸がしめつけられるような思いになられました。

そして、そのような群集のもとへ、イエスは弟子たちを派遣なさいました。あれもこれも持って行かず、裸一貫で、行けと。信仰という名の杖をもって、行けと。

お前たちを待っている、あの迷える羊たちのもとへ行け、とそのようにお命じになられるのでした。

さて、その場面があって、今日の個所は、続きになっております。

きょうのマタイによる福音書10章の後半においても、やはり動物の名前が出ておりました。

まず、狼、そして、蛇、さらに鳩という動物の名前が続けざまにでています。

イエスは、あの飼い主のいない羊のような姿の群衆のもとへ行くのだ、と伝道活動へ、押し出してくださいます。

ところが、その場面に続いて、与えられている今日の個所では、さあ、お前たちは、あの飼い主のいない羊のような者たちのところへ行け、ではありません。そうではなく、お前たちがあの者たちのもとへ行くというのは、それは狼の群れの中に行くようなものだ、と言われます。この矛盾。

しかし、おそらくわたしたちはそれが矛盾ではないということが分かると思います。

なぜかと言いますと、この世の様、そしてこの世に生きる人々の様は、まさに、迷える羊のようであり、また、同時に、お腹を空かせた狼のようでもあるからです。

それは、どこかの誰かの話ではありません。わたしたち自身、わたしたちひとりひとりのことです。

自分という存在は、ある意味、飼い主のいない羊のような、弱く、心もとなく、不安に包まれています。

飼い主のいない羊、別の言い方ならば、糸の切れた凧、あるいは砂漠の中を歩いているような状態、わたしたちはいつでもそのような不安定さの中に置かれます。

しかし、そのような私たちは同時に、狼のような凶暴さも持ち合わせています。

貪欲な心を持っております。あらゆる欲望もまた、わたしたちの中にあります。おとなしい羊であるばかりでなく、獰猛な狼のようでもあるのです。

だから、イエスは、さあ、あの飼い主のいない羊のような彼らのもとへ行け、と言われるのと同時に、お前たちを遣わすのは、まるで羊を狼の群れの中に送り込むようなものだとおっしゃられたのです。

その際、羊は羊のまま、もう狼が来たら、食い殺されておしまい、ということで終わってよいとはおっしゃいませんでした。

イエスは具体的に、二つの動物を引き合いに出しながら、世を生きるすべをお伝えになりました。

それは、へびのように賢く、鳩のように素直に、というフレーズです

へびと言えば、聖書では、あの創世記の初めにエバとアダムを誘惑した存在として、思い起こされます。

その場面でも、へびは、もっとも賢いという形容詞が付けられています。賢さの象徴として、へびはあげられるようです。

その賢さ、また、この世の中で生きて行く、その忍耐強さや、生き抜く力などを表しているのかもしれません。

しかし、同時に、鳩のように素直に、と。

人間には、いつでも、どこでも、二面性のようなものはあるのでしょう。大人になって、生きて行く、社会人として、ある程度の常識人として、生きて行く自分であるけれども、その中に、子供のような心も持ち合わせている。よくあることです。

しっかりしたところと、ちょっと抜けたところと。だれでも、思い出せば、いろいろな二面性を持っていることでしょう。

飼い主のいない羊のような存在であり、同時に、狼のような面もある。きっと誰もがそうでありましょう。

生きて行くうえでも、へびのような賢さと、鳩のような素直さを持ちなさい、とイエスはおっしゃいました。

鳩のように、素直にと。

世を生きるたくましさや、適応力も身に着ける必要もあろうし、社会性も必要でしょう。でも、同時に、おさなごのような心、素直な心、まっすぐな心も持ち合わせる。

それはけっして矛盾することではないでしょう。

わたしたちも皆、教会を一歩出れば、みなさん、それなりに、社会の荒波の中で生きておられます。

人には言えないような辛さもあることでしょう。きれいごとばかりでは、乗り切れない面もおありでしょう。

曽野綾子さんの小説に、『神の汚れた手』という作品があります。だいぶ以前に読んだもので、明確な記憶ではありませんが、産婦人科のお医者さん、しかも、良い仕事ばかりではない、堕胎のお手伝いをする産婦人科医の人生、そして、その医者と色々な形で関わることになるカトリック教会の神父様の話であったと記憶しています。

その小説の中で、時折、壁に飾ってあるキリストの絵が取り上げられる。

それは、大工であったキリストのお姿。労働にいそしむお姿。しばしば見かける天的な輝きを持つキリストの絵ではなく、労働者のお姿のキリスト。その手は、仕事のために、泥がついて汚れている。

神の汚れた手。

神の子イエスもまた、この世においでになった時には、決して、きれいなお姿で、神々しいお姿でいらっしゃったのではありません。むしろ、その身を群衆のもとにおきました。

お生まれになった時にも、貧しい馬小屋で、飼い葉おけに寝かされていました。

群集の前に現れたときも、まず初めにしたことは、罪人の列に加わって、皆と一緒に、ヨルダン川の中に入って、洗礼を受けるということでした。罪人の仲間となられたイエスの象徴的なお姿です。

また、清い人々といるよりも、むしろ、罪人や、徴税人たちとともに、食事をしておられました。

神の汚れた手。

その言葉のとおり、神の御子イエスは、まさに、この世にいらっしゃるとき、その手を汚しておられました。汗をかいて、皆の分まで、汚れておられたくらいです。

そして、最後は、その手に釘を打たれて、汗を流し、血を流して、その身をお献げになりました。

わたしたちを清めるために、御自身が、あらゆる汚れの中に、身を置かれたかのようです。

みなさんも、この世で、生きて行かれる時、きっといろいろな形で、手を汚し、足を汚し、体を汚しながら、汗まみれで、それは、肉体的という意味だけではなく、いろいろな意味で、世の波の中にその身をどっぷりとつからせながら、歩んでおられるはずです。

クリスチャンなのだから、なんて言って、清らかな、お花畑のような生活をしているなんて人は、ひとりもいないはずです。

へびのように、賢く、忍耐強く、地をはいつくばってでも、間と間をすりぬけるように、生き抜く。

そういう強さ、賢さ、したたかさも、それなりに身に着けながら、生きています。

でも、ただそれだけではなく、わたしたちは、おさなごの信仰を与えられております。

どんな中でも、顔を天にあげて、信仰と希望と愛を求めることを知っております。

いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することを心のどこかに、秘めております。

その信仰をもって生きて行く、たとえ、狼の群れの中で生きているような不安が押し寄せる時も、それでも、信じて歩む。

しかも、それは、「あなた」ではありません。

きょう与えられたマタイ福音書の文章を改めて、よく読む。すべて「あなたがた」とあります。

わたしはあなたがたを遣わす。と。

このような信仰の道を歩むのは、ひとりっきりの作業ではありません。孤独な道ではありません。教会に集う家族と共なる歩みです。

一つのパンを裂いて食べる群れ、ひとつの祈りにアーメンと声も心もひとつにする群れ、互いを兄弟姉妹として受け入れ合う群れ、キリストをかしらとするひとつのからだとされた群れ、聖なるキリスト教会、聖徒の交わりを信ず。その言葉のとおり、この群れの中に、主の御霊が宿っています。

わたしたちはその祝福の輪の中に、入れられたのです。

そして、わたしたちの中には、わたしたちと同じ赤子のお姿で生まれた御方、わたしたち罪人と共に、洗礼を受けてくださったお方、わたしたちのためにその身を捧げてくださったお方、私はいつも共にいる、と言われる御方がおられます。

だから恐れるな、何も恐れるな。信じて歩みなさい。

その御声が今日も聞こえます。

主を信じ、その平安の中で、これからもご一緒に歩いて行きましょう。

マタイによる福音書6章24~34節

18 6月

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

聖霊降臨後第2主日(2017年618日 神水教会にて)

「思い悩むな」

本日与えられましたマタイ福音書6章のみことば、言わずと知れた最も愛されている聖書個所のひとつであります。

「思い悩むな。」「空の鳥を見なさい。」「野の花を見なさい。」「明日のことを思い悩むな。」

どの言葉をとっても、慰められます。いやされます。

みなさまの中にも、「聖書の中で、どの言葉が好きですか」と聞かれたら、このマタイ福音書6章をあげる方もいらっしゃるかもしれません。

ご存じのように、これは山上の説教と呼ばれるところのひとつでして、ひとつ前の5章から始まっております。

マタイ福音書の5章、6章、7章は山に登られた主イエスが、お弟子たちに、また多くの群衆にお語りになった言葉が綴られております。

ですから、きっと、山の上の気持ちのいい空気を吸いながら、晴れ渡った青空を眺めながら、下界に広がる大地を眺めながら、み言葉に耳を傾けていたと思います。

そして、空を自由に飛ぶ鳥を見、また鳥の鳴き声を聞きながら、主は「空の鳥を見なさい」と言われたのでしょう。

さらに、彼らがいた所は、自然の草や花が咲いていたことでしょう。足もとに咲いている小さな花を指しながら、「ほら、野の花を御覧なさい」とお語りになったことでしょう。

考えてみれば、空の鳥にしても、野の花にしても、視界には入っているかもしれないけれど、じっくり足を止めて、見つめるということが少ないかもしれません。

実際、どうでしょう。「この聖書の言葉は素晴らしい」「この聖書の言葉に癒されたことがある」という方でも、本当に、このイエスさまのお言葉に従って、外に出て、じっくり空の鳥を眺めてみたご経験のある方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。

「野の花を見てごらん」と言われて、本当に、外に出て、時のたつのも忘れて、野の花をじっくり眺めた経験のある方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。

もう何年か前になりますが、九州教区の夏の中高生キャンプに、私もスタッフのひとりとして参加いたしました。その時のテーマが、神のお造りになられた自然ということで、ルーテル学院の崔先生が子供たちに聖書のお話をしてくださいました。

崔先生は、神さまのお造りになられた自然にまつわる聖書の言葉を、いくつもいくつも紹介してくださって、そして、「では、今から一人にひとつずつ、聖書の言葉の書かれた紙を渡します。その言葉のとおりにしてきてください」と言われました。

スタッフの私も一枚カードをいただきました。私に回って来たカードには、旧約聖書の箴言6章6節が書かれていました。

どういう個所か。

「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。」とありました。

面白い所を頂いて、私も言われたとおり、外に出ました。阿蘇のキャンプ場ですから、ありんこは、すぐに見つかります。どこにでも、蟻は歩いています。

でも、地べたに座って、その蟻をじーっと眺めて時間を過ごす、なんて経験はあまりしたことがありませんでした。

10分、20分、30分と、座ったまま、片時も止まることなく、動き続ける蟻の姿をじーっと見ている。蟻を見よ、という聖書に示されたとおり、蟻を見る。

そして、見ているうちに、心の中にある、こまごまとしたこと、心配事、うまくいかない人間関係のことなど、だんだん忘れて行く自分と出会いました。

「空の鳥を見なさい、野の花を見なさいと」言われたのも同じことだったかもしれません。

旧約聖書で、もうひとつ、ご紹介したい個所があります。それは、ヨブ記です。

ヨブ記、皆さん、お読みになったことはあるでしょうか。これもなかなか面白い書です。

突然の不幸に見舞われたヨブのもとに、友人たちがやってくる。

このような不幸が訪れたのは、神の呪いなのか、いや、そんなことはない、神はそのような御方ではない。では、なぜこんなことが起こったのか、きっとお前が、神に背いたからであろう。理由もなく、神がこのような不幸を来らすわけがない。いや、わたしは神に背くようなことは何もしていない、などなど、重苦しい会話が続きますが、ヨブ記を読んでいきますと、大変興味深い結末が待っています。

苦しみ悩み、ああでもない、こうでもない、と議論を重ねぬいたヨブたちのもとへ神様が、最後の最後にご登場なさいます。

そして、大岡裁きでもなさるのかと思いきや、神様は、「ヨブよ、これを見ろ、あれを見ろ」といって、大自然の一つ一つをお見せになるのです。

大地を、天空を、海を。

だれが、朝を設け、昼を設け、夜を設けるのか。

海の底には、何があるか知っているのは誰か。光はどこに住み、闇はどこに住んでいるのか。風はどこから送られてくるのか。

スバル、オリオン、大熊、小熊、だれが配置したものか。

岩場の山羊が子を産むときを見届けているのは誰か。無数の動物を知っているか。

ダチョウのこっけいな走り、馬の脚力、鷹や鷲が南へ飛んでいったり、高いところに巣を作ったりするように教えたのは誰か。

そして、こんなくだりもあります。

お前は天の上にある、雪の倉に入ったことがあるか。と。あられの倉を見たことがあるかと。

天の上には、雪をいっぱいためた雪の倉がある。同じく、あられの倉がある。

何のためにあるか。

それは、いつの日か、人間たちが、愚かな争いや、戦いを始めてしまった時に、この倉を開けて、地上に降らせるためだと。

そうして、雪やあられがどうしようもないほど降って、降って、人間たちが、争いたくても争えないように、戦いたくても、戦えないようにするのだ。その時のために、私は天に雪の倉、あられの倉を置いているのだ。お前はそんなこと知らないだろうと。

私はこのくだりがとても好きです。

そのように、ご自身がお造りになった数々の動物や、自然界の不思議な様相を紹介しながら、そのすべてを知っているのは誰か、そのすべてを造ったのは誰か。

おまえなのか。お前がすべてを知っているのか、と迫る。

まるで動物図鑑、天体図鑑、魚図鑑、昆虫図鑑でも広げて見ているような言葉が続く。

時に、ユーモアを織り交ぜながら、神様は、ヨブに語りかけます。

すると、いつの間にか、ヨブの心は、和んでいきます。

ついさきほどまで、ああでもない、こうでもない、と議論を続けていたヨブの心が、おだやかにされて行きます。

イエスさまは、あの日、空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、とおっしゃいました。

そうしてお語りになるイエスさま御自身、いつも空の鳥をご覧になっておられたと思います。誰にも知られることなく、ひっそりと咲いている野の花を優しくご覧になっておられたのだと思います。

その瞳はきっと、おさなごのような瞳であったことと思います。

まるで、初めて、鳥を見る子供のように、神さまのお造りになられたこの世界を、感動をもって見ておられたのだと思います。

そのようにしてこの世界を、見つめるならば、あなたにも、神様が分かる。

あなたが幼な子のように、この世界を見るならば、あなたの魂は、深い安らぎを得る。

あなたは今、何を見ているのだ。何を思い悩んでいるのだ。

あなたは神の子ではないか。あなたは神の世界に住んでいるのではないか。

神のみこころがあふれる、この世界に暮らしているのではないか。

空の鳥が思い悩んでいるか。

鳥たちは、あれも欲しい、これも欲しい、ああ、あの人の方がスタイルがいいな、うらやましいな、と欲望に満ちて生活しているか。

野の花は、さてどんなふうに着飾ろうかしら、人から見られたら、恥ずかしい、なんて思っているか。与えられたままに、咲いているではないか。だって神さまが装いをしてくださったのだから。

まして、神様の寵愛しておられるあなた、あなたに何の不足があるのか。

その体、その顔、その声、そして、そして与えられた数々の恵み。しっかり見てみよ。

マルティン・ルターは、奇跡のみわざについて、こんなことを語りました。

わたしたちは、大地の実りが毎年、土地から生えることに慣らされている。それで、わたしたちはこのように見聞するものをもはや奇跡と思わないのである。しかしこのことは大いなることである。神が砂や石から野菜や、果物を造りだすことは、神がパンと魚をもって多くの人々に食べさせることよりも、はるかに大きな奇跡である。

わたしたちはあの五つのパンと二匹の魚の奇跡の話を知っています。

でも、考えてごらんと。毎日、毎日、この世界には、土の中から、野菜や、果物がなって、世界中の人々を食べさせている。これこそ神がなしている奇跡ではないか。と。

わたしたちは、それを当たり前と思ってしまっている。いつものこと、と思って、感動すらしなくなっている。でも、それは神のみわざ、神の奇跡、これをしっかり見届けよと。

わたしたちはなぜ思い悩むのか。神様を忘れているからなのでしょう。なぜ忘れるのか。大きすぎるからかもしれません。

でも、本当は、わたしたちは、神様の世界の中に住んでいます。神様の大きなみこころの中に住んでいます。神様の愛の中に、生かされています。

そのことをどこで知ることができるか。

顔をあげてごらん。空の鳥を、野の花を御覧なさい。

そして、神に愛されている自分自身を見てみなさい。

あなたには何も不足はない。見よ、極めて良し。それはあなたのことだ。

神の愛を、わたしたちは忘れていることがあります。大きすぎるからでしょう。でも、間違いなく、わたしたちは包まれています。神の愛に。神の慈しみに。

見てごらん、鳥を、花を。わかるはずだ。あなたは神に愛されているということが。

あの日のイエスさまがそうであったように、わたしたちもまた、おさなごのように、もう一度、神様のお造りになったこの世界をながめ、そして、大きな神の愛の中にいることを、確認したいものです。

皆様の上に、神の祝福と平安、ゆたかにありますように。