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マルコによる福音書3章20-30節

8 7月

03:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 03:21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。03:22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 03:23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 03:24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 03:25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 03:26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 03:27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 03:28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 03:29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 03:30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

2018年7月8日 聖霊降臨後第7主日 神水教会にて
「主が住まう家」

先週の日曜日、神水教会夕礼拝におきまして、西田さんが洗礼を受けられました。洗礼を受けることで、クリスチャンとなります。西田さんは、先週、クリスチャンになられました。それは同時に、教会の人になることでもあります。教会の会員、神水教会の会員です。あるいは、神の家族になるというのもたいへんふさわしい表現です。そのことは、すでに洗礼を受けて、クリスチャンとして生活しておられる皆様にとっては、とてもよく分かることではないでしょうか。
わたしはですから、これから洗礼を受けようとする方々に、「洗礼を受けたら、クリスチャンとなります。そして教会員となります。わかりやすく言えば、今までは、教会に来ても自分はお客さんという意識を持っていたかもしれない。でも、洗礼を受けたら、お客さんではなくて今度は、お客さんを迎える人、この教会の人になる、この神様の家の人になるのです」と、そういうふうにお伝えいたします。

先週、洗礼をお受けになった西田さんは、教会の外の人から教会の中の人になられました。それは、すでに洗礼を受けられた皆様、みんな同じであります。
そういう一人一人にとりましては、教会は、自分の帰るところと受け止めておられるでしょう。確かに、日曜日になると、「教会に行く」のですが、別の言い方をすれば、またこうして神様のもとに帰ってくる、と表現することもできます。なぜなら、ここは神の家であり、あなたの家だからです。洗礼を受けた方は、そのように受け止めながら、生きていくことができます。

さて、本日与えられましたマルコ福音書3章の御言葉、ここはまさに「家」がひとつのテーマでありました。そして、私たちひとりひとりが、さて、どこに立っているのか、どの家の中にいるのか、どの家の外にいるのか、そんなことがテーマとなっておりました。御一緒に振り返ってまいりたいと思います。

「イエスが家に帰られると、」と言って始まっております。
イエスが家に帰られる。これは、カファルナウムのシモン・ペトロの家と思われます。ガリラヤ湖のほとりで人々に神の国のお話をなさり、宣教活動をして、今、帰って来られたというところです。
ところが、家でゆっくりできるかと思いきや、その家に群衆が押し寄せてきてしまう。でも、イエスは嫌がることなく、この群衆にもまた、天の国について、お話をしてくださったり、あるいは、いやしのみわざもなさっておられたようです。
食事をする時間もないほどだったと書かれています。

このことは、ひとつ、私たちに届けられているメッセージです。
主なる神様は、どんな時でも、いつもあなたと共におられる、決して、「今はちょっとわたしは休んでいるから」なんてことはないというメッセージです。

主はいつも、あなたと共におられ、あなたに対して、いつでも命の言葉を語られ、またいつでも、あなたの祈りを聞いておられます。
あの日、ガリラヤ湖のほとりで、宣教をなさり、家に帰って来てからも、食事をする間もなく、ずっとひとりひとりと関わっておられた。その姿は今も、わたしたちひとりひとりに向けられている御姿であります。

旧約聖書の詩編121編、目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。という有名な歌です。あの詩篇は後半、何と歌っているか。
「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。/主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。/昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。」と続きます。
神は、「まどろむことなく、眠ることもない。」と。

ここ二、三週間、あちこちで、少し寝不足の方々がおられるようです。大学で講義をしておりましても、こっくりこっくり、船をこいでいる姿が普段より多いです。ワールドカップのサッカーを夜遅くまで見ているのかな、と思いますが。
でも、神様はそんなふうに、こっくりしない。「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」・・・
「まどろむことなく、眠ることもない。」と。「ああ、今、ちょっと眠っちゃった」なんてことは神様にはありません。いつも起きておられる。
何のためか。いつもあなたと共にいるためです。
いつもあなたの祈りをお聴きになるため。いつもあなたを守り、あなたを支え、あなたに必要な糧を与え、あなたを導かれるためです。

あの日、イエスは、大勢の群衆を、見放すことなく、食事をする暇もなく、関わっておられました。今も、変わらぬ御姿が、そこにありました。

さて、そのようにしてやって来た群衆の中に、このイエスの宣教活動を好ましく思わない、二種類の人たちがやってきます。
ひとつは、都エルサレムからやってきた律法学者たちがイエスのしておられることに、いちゃもんをつけます。
そして、もうひとつの集団は、イエスの身内のものでした。家族のもの、親類の者です。

この親類の者たち、身内の者たち、つまりイエスが幼いころから育ったナザレの村の人々です。小さいころから知っている人たちです。
この人たちは、イエスが「気が変になっている」といううわさを聞いて、連れ戻しに来ました。
ここで、「気が変になっている」という言葉は、ギリシア語でエクセステーという単語が使われていますが、これは興味深い言葉で、外に出る、という意味を持っております。

たとえば私たちはみんな、自分の物差しを持っています。本当に長さをはかる物差しではなくて、経験などから生まれた物差しです。はかりと言ってもよろしいでしょう。
その範囲内のことならば、私たちは何でも簡単に理解できます。納得できます。受け入れることができます。でも、自分の持っている物差しやはかりでは測りきれないものと出会った時に、戸惑います。

ちょうど、この数日、全国各地で大雨の被害がありました。被害にあわれた方々のことをまたご一緒に祈りたいと思いますし、必要な援助があれば、ご協力したいものです。
この数日の天気予報では、これまで経験したことのない、何十年に一度の、重大な危険の迫った異常事態と表現しておりました。もうこれまで私たちが持っているものさしでは測れないような自然の猛威がやってきそうだ、というニュースでした。

エクセステーという単語は、いわば、そういうことです。自分たちの持っている世界、自分たちの持っている物差しでは測ることのできないところへ飛び出している。
イエスがそうなったと。つまり、ナザレの村の人々にしてみれば、幼い時から知っているイエスが、突然、神の子として、宣教活動を始める。病気をいやす。神の国の話をする。どこへ行っても群衆が押し迫る。いわば、彼らの知っているイエスではなくなった。自分たちの持っている物差しや、はかりでは測れないところへ行ってしまった。それで連れ戻しに来た。この男は、ちょっとおかしくなったみたいだから、と言って。

一方、エルサレムからやって来た律法学者たちは、悪霊を追い出すなんてことをするイエスを見て、すごいことだ、と素直に感心することができず、どうせあいつは悪霊の親玉なんだ、と悪口を言って、イエスのなさるみわざをけなしました。

ナザレからやって来た人々と言い分は違いましたが、どちらも共通していたことは、イエスのなさる神の子としてのみわざを素直に受け入れることができなかったということであります。それは言い換えるならば、イエスを、神の子を、あるいは、神のみわざを、自分の物差しの中に入れようとしたためでした。
その結果、彼らは、神様の大いなる救い、人知でははかり知ることのできない、神の大いなる恵み、はかり知ることのできない神の愛を、受け入れることができませんでした。

神様のみわざは、私たちが測ることなどできません。
洗礼を受けることにためらいを抱く方がよく言われます。「わたしはまだよく分かりませんから。」「聖書のこともよく知らない。神様のこともよく分からない。」・・・そのような時、わたしは、「あなたが神様を知るのではなくて、神様があなたを知っておられるということを知るのですよ」と伝えます。

自分がいつか神様をまるで自分の掌に載せるように理解しようなって思ったら、永久に無理。だって、神様のほうが大きいのだから。測れないほど大きいのだから。どのくらい大きいかって、あなたを、罪深いあなたを、そのままでお救いになるくらい、大きい御方。
まどろむことなく、眠ることもないほど、全知全能である御方、何があってもあなたを離すことなく、見捨てることなく、あなたを愛し、あなたを守られるお方。

私たちにできることは、そのはかり知ることのできない神様に、この身をゆだねること。それが信じるということ。そうして、信じる時、そうして神の愛を受け入れる時、あちら側から、こちら側に来ることになります。神様の大いなる愛という家の中に入ることになります。救われた者が住む喜びの家の住人となります。
「この家においで」と主は言われる。この神の家に。神の救いのみ腕の中に。

洗礼を受けようかどうか、迷っておられる方は、どうか、自分の小さな殻の中に閉じこもらず、はかり知ることのできない大きな神様の愛を信じてください。主はあなたを待っておられます。・・・イエスさまの愛の中に住む。おいで、と導かれています。

と同時に、今日のみ言葉を読みますと、イエスさま御自身が、「あなたの中にわたしは住む」とも言われます。
今日の個所の後半で、家に押し入り、略奪する、なんて乱暴な表現がありました。
これは何を意味しているか。
疑いや、悲しみや、恨み、孤独、あるいは、いつまでも過去の出来事にとらわれているあなた。そのあなたの中に入って行って、そこにあるものを追い出して、私がそこに住もう。あなたをわたしのものにしよう。だってあなたはわたしの大切な宝だから、私の愛する友だから。あなたを見捨てたくないから。
あなたの中に、いま闇があるなら、私が入って行ってそれを追い出し、あなたの中に、光をともそう。私はそれをするために、やって来たのだ、と。

主はあなたのうちに住まわれる。あなたと共におられる。
イエスさまは、今から2018年前、天からこの世界に降りて来られました。何のために。あなたの中に住まうために、です。あなたの人生に寄り添い、歩まれるためです。あなたを、まどろむことなく、眠ることもなく、見守るためです。
きのうも、今日も、これからも主はあなたと共におられます。

そして、このお方と共に歩む場所、このお方がいつも語りかけ、惜しむことなく恵みと祝福をくださる場所、それはここです。教会です。いつも帰って来ましょう。主はここにおられます。いつもあなたが帰ってくるのを待っておられます。

そして、私たちは知ります。いつかわたしたちがこの世の生涯を走り終えたとき、その時、私たちは帰っていきます。主の大いなるみ救いの中へ。神様のみ腕の中へ。主と共に住まう御国へ。愛する兄弟姉妹と共に安らう、まことの御国へ。
その時まで、この地上において、天にある者たちと共にここで讃美しましょう。主に従い、主を仰ぎ、主を信じて歩みましょう。
皆様の上に、上よりの平安がいつまでも豊かにありますように。

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マルコによる福音書2章1-12節

3 6月

02:01数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 02:02大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 02:03四人の男が中風の人を運んで来た。 02:04しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 02:05イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 02:06ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。02:07「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 02:08イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 02:09中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 02:10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 02:11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 02:12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 

2018年6月3日 聖霊降臨後第2主日 神水教会にて

「恵みにより」 
昨日より、水道町のびぷれす会館で熊日生涯学習プラザの聖書を読むシリーズが始まりました。
この講座は、神水教会の先代の髙倉牧師の頃から始められております。
私自身が関わるようになりまして、もう7年目になります。多くの人に支えられながら、よく続いているなと思い感謝しております。

教会だけでなく、いろいろな場所で、神のみことばの種がまかれています。種がまかれるために、いろいろな場所に出向いていくチャンスが与えられている恵みを思います。

きょうは説教題を「恵みにより」といたしましたが、この熊本の町というのは、ほんとうに神様の恵みによって導かれている町、神様の恵みを共に味わいつつ、歩むことのできる町だと思います。これからも多くの人たちと力を合わせ、祈りを合わせつつ、宣教の業に励んでまいりたいと願うものです。

みことばの種。実は、今日与えられたマルコ福音書2章も、み言葉が語られていた場面でした。
そして、み言葉を求める人たちが集まっていた場面でした。
このように書かれています。
02:01数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 02:02大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 02:03四人の男が中風の人を運んで来た。

今日の個所には、大いなる奇跡の出来事について教えています。中風の人、四人の男たちが、力を合わせて運ばないと、一人では動くこともできない一人の人が、自分の寝ていた布団を担いで、さっさと歩いて行けるようになるという出来事が紹介されています。

ビックリするような出来事が印象に残ります。
また、ある人は、この話を読むときに、「その人自身の信仰によって」ではなく、「その人たちの信仰によって」、つまり、ここでは、布団ごと担いできて、屋根に穴をあけて釣り降ろして、イエスのもとに中風の人を運んだ人たち、「その人たちの信仰を見て、」中風の人に、「あなたの罪は赦される」と宣言された。このことが注目されることもあります。

そうかと思えば、イエスに与えられた天の権威、赦しの権威というところに、関心をもって読まれることもあります。

どんな角度から見ても、たいへん魅力のある物語と言えましょう。

その中で、忘れてならないもうひとつのことが、その日、集まった人々は、何を求めていたのか、といえば、みことばを求めていた、ということであります。

いやしを求めていた、奇跡を求めていた、というのではなく、み言葉を、命の言葉を、求めて、それを聞きたいと願って、集まっていました。
そしてイエスご自身、喜んで、み言葉を語っておられました。

そのような中で、奇跡が起こりました。
中風の人が、自分では体を動かすことのできなかった人が、立ち上がる、歩き出す、という出来事が起こりました。

ところが、注意して読みますと、このお話は、驚くべき奇跡と共に、それ以外のことを伝えようとしています。
いや、それどころか、この中風の男の体がいやされたことは、まあ二次的なこと、ここでは、もっと大きなことが起こっていますよ、と告げております。

それは何か。すばり。罪の赦しということが起こっています。こちらのほうが比べようもないほど、すごいことだからであります。

体の病気、もちろんそれも、軽い問題ではありません。重い病を患っておられる方々、また、その人を大切に思われるご家族の方々、病気を背負って、歩み続ける日々は、人には言えない苦しみ、悩みを抱えておられることでありましょう。
でも、軽いものであれば、体の病気は治せます。治せる可能性があります。
もちろん昔から、現代の先端医療をもってしても、今だ不治の病と呼ばれるものもあります。
でも、体の病気は、あくまで、体の病気です。

しかし、ひとりひとりが抱えている罪の問題、これは、生きている間も、死んでも、負う問題と言えましょう。というのは、大きな罪、取り返しのつかないような、何らかの罪を犯してしまった人は、その罪を抱えて生きていきます。そして、その罪のゆえに、たとえば、自分は、天国には行けないだろう、地獄に行くのではないだろうか、なんてことも考えることがありましょう。

なぜなら、罪は、この世で人に対して、行うものですが、同時に、それは、根本的には、神に対してなされるからです。

たとえ話ですが、放蕩息子の話というのがあります。放蕩息子は、父からもらった財産をすっかり使い果たし、今度は、食べるものにも困り始めた時、悔い改めて、こう言います。「わたしは天に対しても、お父さんに対しても、罪を犯しました」と。
尊い財産をあっという間に、遊びのために、全部使い果たしてしまいました。やりたい放題やって、尊い財産を一瞬で使い果たしてしまいました。

また、家の暮らしなど、退屈だと言わんばかり、飛び出して、好き放題暮らしました。
それは、自分を今日まで育ててくれたお父さんに対して、申し訳なかったということではありますが、彼は、その時、むしろ、「天に対して、そしてお父さんに対して、わたしは罪を犯した」と述懐します。

何か罪を犯し、本当にその罪を見つめる時、それは、ただ、被害者の方に申し訳ない、というだけでなく、実は、天に対しても、つまり天の父なる神に対しても、罪を犯していることになります。

別のところでは、漁師だったシモン。彼は、イエスが舟に乗り込んできて、「ここに網を打ちなさい」と言われて、その言葉に従って、網を降ろしてみたら、おびただしい数の魚がかかってきた。その出来事を見たとき、シモンは、すぐに言いました。

「たくさん魚を取ってくれて、ありがとう」ではありません。
「あなたはすごい御方ですね、神の子と信じます」でもありません。
「これからは、あなたを信じて、歩んでまいります」でもありません。
網にいっぱいの魚を見た時、ペトロは、「どうか離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。

目の前にいるお方は、ただの人ではない。これは神の子だ、神の子が、降りて来られたのだ、とわかりました。
そうしたら、何かが思い出されたのかもしれません。
「私はあなたのみまえに罪深い者です」と。

人間は、神様の前に立つとき、そこで認識するのは罪です。滅びや裁きへと向かわせる、罪の問題。これはお医者様にも治せません。
体の病はいやされても、わたしの罪はどうなるのか、わたしは救われるのか、わたしは地獄ではないか、と考えられる。

これこそが、人間にとっての、、根源的な問いと言えましょう。

今日の個所、イエスは、確かに、中風の人をいやされ、立ち上がらせられました。
すごいわざであります。

でも、今日の場面、大きなカギを握っているのは、罪の赦しです。

そもそも屋根から釣り降ろされたその男に向かって、イエスがおっしゃったことば。

「子よ、あなたの罪は赦される。」
「あなたの体よ、よくなれ」、」「健康な毎日になりますように」ではありませんでした。
「子よ、あなたの罪は赦される。」でした。

その宣言が、どれほど大きな力になるでしょうか。

それはこの中風の人に限りません。わたしたちみんなです。
わたしたちにとって、何が大いなることか。それは、わたしたちがゆるされるのか、天国へ行けるのか、救われるのか、ということ。
そういうわたしたちに、「あなたの罪は赦される、いいや、もうゆるされた、心配いらない」と。そういう天の約束をもらう。

そもそも、あの家にやってきた人々は、その日、み言葉を求めてきました。
そのみ言葉は、具体的に何を語っていたのか。ここでは、何も書かれていません、でも、わたしは確信をもって言えます。
イエスは、救いについて、神の愛について、ゆるしについて語っておられたと。

それは今日、ここで皆様にも届けられています。
皆様もみことばを求めて来られたことでしょう。
それは何の言葉か。永遠父なる神様の御心。永遠です。永遠をわたしたちはこの御方のもとで、探し求めていくのだなと思います。

取るに足らない私に、永遠の命が与えられる。
なにゆえに。
ただ神の恵みにより。わたしたちの正しさ、わたしたちの誠実さなどによって、救われるのではありません。そうではなく、ただあなたを愛するがゆえに、神の愛が、神の恵みが、あなたを滅びから救いだしてくださるのです。

きょうの個所には、中風の人が登場していました。何もできない人です。なんと象徴的でしょうか。わたしたちの姿です。自分で、自分のことを、主のもとに連れて行くこともできない、自分で自分のことをどうすることもできない。あとはただ、神におゆだねする。神に求める。わたしたちの姿なのです、これは。

すると、主がおっしゃいます。「子よ、」と。
中風の男に、イエスは、第一声、「子よ、」と言いました。こうして、すぐさま家族とされます。大切な子として、受け入れられます。「子よ、あなたの罪は赦される。」

この尊い、天の声、きょう御一緒に聴きました。
なぜ、聴いたのか。神の言葉だから。命の言葉だから。その言葉によって、わたしたちは救われるから。わたしたちを救うためにこそ、み言葉が語られています。

あなたは罪赦されます。救われます。神の恵みによって。
神の祝福が、皆様の上に豊かにありますように。

ヨハネによる福音書3章1-12節

27 5月

03:01さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 03:02ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 03:03イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 03:04ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 03:05イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 03:06肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 03:07『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 03:08風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 03:09するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 03:10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 03:11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 03:12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

 

2018年5月27日 三位一体主日  説教「新たに生まれる」神水教会にて

 

本日与えられたヨハネによる福音書3章の御言葉、そこにニコデモという人物が登場しています。彼は、ファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員と書いてあります。
当時、ユダヤの人々は、ローマ帝国に支配されながら、自治的な動きも持っており、国民の中から、国民を代表する最高議会を組織していました。サンヘドリンなどと呼ばれます。そこには、71人の議員がおり、ひとりが議長、もうひとりが副議長、のこりの69人が議員でした。
この最高議会で宗教的、社会的な大事な事柄は話し合われ、議決されていきます。のちに、イエスを十字架刑に処していくのも、もちろんこの議会の決定によります。ユダヤの人々にとっては、逆らうことなどできない強い権力、権威をもった組織です。

その議員の一人、しかも宗教的にも広く認められているファリサイ派に属する人物、それがニコデモでした。

このニコデモについて、聖書を読んでいきますと、あと二回登場します。
どちらも同じヨハネによる福音書なのですが、7章のところで、ユダヤの指導者層の人々が、どうやってイエスをつかまえようか、といった議論がなされている時、ニコデモは口をはさんで、ちゃんと事情を確認したり、いろいろ調べないで判決を下すのは間違っているのではないか、と言ってイエス逮捕に向かう人々の流れを、食い止めようとします。

そして、ニコデモが登場する、もうひとつの場面は、とうとうイエスが十字架上で殺されてしまった後です。
十字架にかけられ殺されたイエスの遺体を、だれがどうするか、というとき、アリマタヤ出身のヨセフという人が現れる。彼も、人目を気にして公に「イエスを信じている」と今までは言えなかった一人。でも、ついに死を遂げたイエスのご遺体を、自分が引き取って、ちゃんとお墓に葬りたいと願い出た人物です。
そのアリマタヤのヨセフが遺体を十字架から引き下ろした時、ニコデモもやってきます。彼は、遺体を丁重に扱うために没薬や香りのよい油などを持って来ます。そしてアリマタヤのヨセフと一緒に、イエスのご遺体を墓に運び、そこで、御遺体に油や没薬を塗って、体を清めて、さらに亜麻布で包んで、葬りをするのでした。

そのような場面を学ぶと、このニコデモという人物は、心からイエスを慕っていた、一目置いていたということをうかがい知ることができます。

でも彼は、その気持ちを、ストレートに、みんなの前で表現することはできませんでした。立場的なことがあったからです。最高議会のひとりとして、ファリサイ派に属する一人として、突然、ガリラヤのナザレという田舎からでてきたイエスという男、自分たちが教えることはあっても、この突然田舎から現れた大工の息子から、教えを乞う、またその人物をひとかどの者として認める、ということははばかられたようです。
それは、現代でも同じようなことがあちこちで起こります。特に、日本においては、クリスチャンであることを、堂々とみんなに言えずにいる人、たくさんいらっしゃいます。

今日も、九州ルーテル学院大学の学生さんがたくさんお見えです。前にこんなことがありました。きょうは聖餐式がないのですが、その一人の女子学生さんは、聖餐式の行われている礼拝に来ておられました。教会の皆さんはもうよくおわかりですが、わたしは、洗礼を受けている人たちには、「キリストのからだ」「キリストの血」と言って、パンとぶどうジュースを配ります。そして、洗礼を受けておられない方々には、ひとりひとり手を置いて祝福の祈りをしています。
だから、学生の皆さんには手を置いて祝福をしています。

ところが、その女子学生さんは、あとになって、わたしにこんなことを書いてよこしたのです。「私はほんとうはクリスチャンです。ふだんは別の教会に行っています。でも、そのことを友達に言えなくて、まわりの友達と同じように、祝福を受けていました。心が痛みました。」と。

ひょっとしたら、お友達の中には、「わたしはキリスト教なんて嫌い」「宗教は怪しい」なんて言う人もいたかもしれない。そして、そういうお友達の言う言葉に合わせていたかもしれない。そんな場面すら、想像してしまいました。

自分が教会に通っているということ、何も気にせず周りに言っている人もおられますが、しかし、自分が洗礼を受けたこと、家族にすら内緒にしておられる方も決して少なくない。それが日本の現状ですね。

あの一人の女子学生さんが、「心が痛みました」と書いてよこしたように、いろいろな場面で、わたしはクリスチャンです、といえずにいる自分を責めておられる方々、それはまるで、鶏が鳴く前に三度も、わたしはあの人のことなど知りません、と否認したペトロのような気持ちと言えましょう。そういう気持をもって生きている人が、特に、日本では少なくないだろうとわたしはおもいます。

ニコデモも、立場上は社会的なエリートの一人。周りから、先生、先生と慕われ、尊敬を受けている一人。宗教的にはユダヤ教の中のファリサイ派と呼ばれる厳格な一派の一人。そして、最高議会の議員の一人。最高議会の者たちは、イエスの存在をうとましく思い始めている。逮捕、処刑へと向かい始めている。ファリサイ派をはじめ、ユダヤの教えに生きる人々も同じように進み始めている。
その中にあって、ニコデモは、いいや、わたしは、あのイエスという人物を、神の子だと思うよ、私たちのほうが間違っているかもしれない、などとは言えないのが現状でした。

今日の場面、夜であったとあります。
ニコデモは、ある夜、イエスを訪ねました。昼間は行けなかったのです。
人の目がありますから。夜、だれにも気づかれないようにイエスのもとへ行きました。

そうまでして訪ねた、イエスを。
どうしても行って、直接聞きたいことがあったからです。そのことを聞かなければ、彼は、安心していられなかったのです。

彼が聞きたかったことは何か。一言で言えば、どうやったら救われるか、でありました。
あるいは、どうやったら神の国に行けるか、です。

きょうのヨハネ福音書3章を読むと、そのような質問は書かれていません。ニコデモは言った。イエスさま、どうやったら私は救われますか、なんてどこにも書かれていません。でも、ニコデモの問いはそこでした。それはこの文章を読めばわかってきます。

何を読めばわかるかと言えば、ニコデモと出会って、ニコデモに発せられたイエスのことばを読むと、わかります。
イエスは、夜に訪ねてきたニコデモの心の中にあることをご存知でした。そして、その心の中にある思いに答えておられます。
その第一声は、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」であります。

何気なく読み過ごしてしまいそうですが、ここは、イエスは答えて言われた、とあります。答えて言われるのですから、通常は、その前に質問があります。質問があって、それに答えて言われるのですが、その前に、ニコデモは、何も質問などしていません。
「イエスさま、わたしはあなたが神のもとから来られた方と知っています」というような挨拶をしただけです。それをお聴きになって、イエスは、答えられたとある。

つまり、イエスは、ニコデモの中にある思いを、しっかり受け止めてお答えになっておられる。
実際、ニコデモの心の中にあった思いが、ここで次々とあらわになります。

特に、この言葉を聞いて、ニコデモが言った言葉、「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。」というところ。
この言葉から、ニコデモはそれなりに年齢を重ねた人であったことがわかります。
実際、最高議会のメンバーは長老たちでありましたから、ニコデモも、長く生きて来た、齢を重ねてきた一人です。そのニコデモの思いは、つまり、もう間もなく死というものを意識しながら、自分は救われるのか、という思いでした。

ファリサイ派の中で生きてきて、厳しい戒律を守りながら生きてきて、さて、自分は救われるのか、という疑問は解けない。とけないどころか、その思いはますます強くなる。

そのニコデモに、イエスは「新たに生まれるのだ」とおっしゃる。
それは、お母さんのおなかにもう一度入ることではない。
では、新たに生まれる、とは、何か。何歳になっても、どんな状態からでもできる、新たに生まれること、それは、神様を信じること、それだけです。

その際、神様を信じるというのは、幽霊を信じるとか、UFOを信じるというものではありません。そうではなく、神の愛を、神の恵みを、神の救いを、信じるということ。
私たち人間の愛などというのは、もろくて、よわくて、また自分勝手であったり、することがあります。それが私たちのありのままです。
でも、神は、神様だから、その愛も、私たちの思いを超えて大きい。深い。

私たちはその愛によって救われる。自分の正しさとか、自分の頑張りでではなく、ただこんなわたしをも、わが子よ、わが宝よ、目に入れてもいたくないほどいとおしいわが子よ、と言ってくださる神様の愛、これを信じる。
そのことは、年齢に関係ありません。どんな状態からでも始められます。

ニコデモよ、心から神を信じよ、と、イエスは、あの夜、ニコデモに語りかけ、また招かれたと言ってよろしいでしょう。

今日のニコデモとイエスの会話。よく読んでおりますと、おやと思えるところがもうひとつあります。
それは、11節。
「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証しているのに、あなたがたはわたしたちの証を受け入れない。」
二人の会話なのに、突然、イエスは、わたしたちと言われる。またあなたがたと言われる。
まあ、ニコデモに向かって、あなたがたと言われるのは、おそらくファリサイ派の人々であるとか、最高議会のメンバーであるとか、指導者層を中心とする、かたくなに伝統を守ろうとする人々全般を指すのかな、と考えられます。

でも、イエスが言われるわたしたちとは。
新しく生まれ変わった私たち、神を信じるわたしたち、水と霊によって生まれた私たち、すなわち、洗礼を受けて、歩んでいる私たちのことと受け取ることができます。
知っていることを語っている、見たことを証ししている、そして、天上のことを知って、信じて、語っているわたしたち。それはまさにわたしたち、主を信じて集う皆さんのことです。主に生かされ、新たな命に生かされ、歩んでいる私たちなのです。

ニコデモ、お前も、私たちと一緒に救いの喜びを味わおうと主は招かれました。その招きを受け、ニコデモは後に教会の群れに加わって行ったと言われます。私達もまた大切な方々にこの主の招きが届いて、新しい命に生かされる喜びに生かされるよう祈りましょう。

 

マルコによる福音書16章9-18節

8 4月

16:09〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 16:10マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 16:11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
16:12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 16:13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
16:14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 16:15それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 16:16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 16:17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 16:18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 

復活後第一主日(2018年4月8日 神水教会にて)
「信じなさい」
捕らえられて十字架にかけられてしまう前の夜、主イエスは、数人の弟子たちと一緒にゲツセマネという場所におられました。
その時、イエスは必死で祈り続けられました。そのかたわらで、弟子たちは眠り続けています。イエスは弟子たちに何度も、「起きなさい」「起きて祈りなさい」とおっしゃいます。しかし弟子たちは、睡魔にかなわず眠り続けていました。

それは、すでに夜遅い時間ですし、弟子たちにしてみれば、もう眠くて眠くて睡魔に勝つことができず、というのは仕方なかったのではないか、と私には思えます。

朝になって、なかなか起きて来ない人に向かって、「いい加減に起きなさい」という話ではありません。夜なのです。しかも夕食も終えた。一日の疲れもある。
眠るのは当たり前です。

でもイエスはあの時、「起きなさい」「起きなさい」とおっしゃいました。
そして、イエスは捕らえられ、裁きを受け、十字架につけられていきます。

弟子たちにしてみれば、その後逃げ出してしまいましたから、イエスから受けた最後の言葉のひとつが、この「起きなさい」であったかもしれません。
数々のみ教えをいただいてきた弟子たち、そのなかで最後に残っているイエスからのお言葉は「起きなさい」「起きて祈りなさい」、これが最後の言葉として残っている可能性があります。

その言葉だけが残っている弟子たち、彼らはまだ復活した主イエスにお会いしていません。復活したことを知りません。どんな思いで過ごしていたのでしょう。
最後に過ごした時間は、ただ主イエスが祈っておられて、自分たちは「起きなさい」「起きなさい」と言われながら眠っていた。それが最後となって、イエスは捕えられ殺されてしまった。
弟子たちはどんな気持ちでいたでしょうか。

本日与えられたマルコによる福音書16章のみ言葉、そこにご復活なさったイエスの話が記されておりました。
弟子たちとどのような出会いがあったのか、弟子たちにしてみれば、あの時、眠り続けて、きちんと向かい合うこともできなかったイエスとどのような再会となったのか。
御一緒に振り返ってまいりたいと思います。

復活したイエスは、まずひとりの女性のもとに御姿を現します。
マグダラのマリアと呼ばれる女性でした。

先週のイースターの礼拝で、イエスのご遺体が葬られている墓に香料をもって、向った女性たちがいたことを学びました。あの女性たちの中に、このマグダラのマリアの名前は確かに書かれていました。

さて、このマグダラのマリアについて、ここでは短い説明が付けられています。
それは、彼女は「以前に七つの悪霊をイエスに追い出していただいた女性である」ということであります。
七つの悪霊というのがいったい何なのか、今となっては知りようもありません。が、何か、大きな力、しかもよくない力に縛られていたことは確かでしょう。

私たちにとっては、何が自分を縛り付ける力となるでしょうか。
ある人にとっては、病気や障がいかもしれません。
ある人にとっては、家族や、人間関係かも知れません。
ある人にとっては、世間体のようなものが自分を縛り付けるかもしれないし、ある人にとっては、財産の問題、お金というものが自分自身を縛り付けるというか、いつも気にかかる問題になるかもしれません。

いずれにせよ、さまざまな事柄が心配事となって、自分の心を不安にさせる。自分の心の中に居座り続ける。そのためにずっともやもやしている。すっきりしない。
そんなこともありましょう。

もしも、そのようなものから解放されたら、ずっと心の中にもやもやし続けていたもの、自分自身がとらわれ続けていたものが、ある時なくなったら、すっきりすることでしょう。

マグダラのマリアのことを縛り続けていた七つの悪霊というものが何かは具体的にはわかりません。
でも少なくとも、それは、彼女を縛り付けていたもの、彼女を苦しめていたものに違いありません。それを追い出して解き放ってくれたのがイエスでした。

そのような経験、そのような出会いを与えられていたマグダラのマリア、イエスはご復活なさると、まずこの女性にご自身を現わされました。

マグダラのマリアは、お慕いしていた恩師、恩師という言葉では十分言い尽くせないほどの思いを抱いているお方、神の御子イエス・キリストが、死んだと思っていたこのお方が、今、自分の目の前に現れて、再び解き放たれた思いではなかったでしょうか。

主と慕っていたお方、神の御子と信じていたお方が無残な姿で葬られ、それこそ彼女の心は、せっかく七つの悪霊を追い出してもらってすっきりした彼女の心は、今度は、悲しみと、絶望とで、再び捕らえられてしまっていたことでしょう。
イエスは、その彼女にまず現れる。再び彼女の心を解き放つために。
七つの悪霊にも勝るとも劣らないほど、人間を陥れてしまう悲しみ、絶望。今度は、これを追い払われる。「私は生きているよ。」と。「わたしはここにいるよ」と。

再び解き放たれる出会いを与えられた彼女は、そのことを弟子たちに伝えに行きます。「イエスさまは生きていらっしゃいますよ」と。「わたしはこの目で見たのですよ」と伝えに行きます。
ところが、彼らはこれを信じませんでした。

今、私は、彼女は弟子たちにこれを伝えに行った、と申し上げましたが、マルコによる福音書の文言をもう一度、よく見ますと、そうは書かれていません。

マグダラのマリアは「弟子たちに伝えに行った」とは書かれていません。何と書かれていたかと言いますと、「イエスと一緒にいた人々」とあります。

イエスと一緒にいた人々。イエスと一緒にいた人々とは、弟子たちのことです。
でも、弟子たちと書かずに、イエスと一緒にいた人々と書きました。
そして、続きも見てみると、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、とあります。

ここは、いくつかの翻訳を読み比べますと、たとえばこうあります。
「かつてはイエスと一緒にいて、今は泣き悲しんでいる人々」とあります。

あの時はこう、そして今はこう、と過去と現在の状態を分けて訳しているのです。それはとても分かりやすいものと思います。

弟子たちは、どんな人々か。
かつてはイエスと一緒にいた人々。一緒にいたから、たくさんの教えもいただき、たくさんの恵みもいただき、幸いな日々を過ごしていた。
しかし今は、ただただ泣き悲しんでいる。
かつてはイエスと一緒にいたけれども、今は泣き悲しんでいる。
この個所は弟子たちのことをそのように表現しています。

悲しみ、絶望から解放されたマグダラのマリアは、かつてはイエスと一緒にいて、満たされた日々を過ごしながら、今は絶望に沈んでいる弟子たちのもとに行きました。
「イエスさまは生きておられますよ、ご復活なさったのですよ」と伝えに。

でも、彼らは信じませんでした。悲しみから、絶望から、嘆きから、解放されませんでした。マグダラのマリアのように解き放たれませんでした。

彼らには七つの悪霊など取りついていません。でも、彼らは信じることができないまま、悲しみに捕らえられている。あの御方は生きておられる、ということを受け入れられない、いわば、かたくなという状態に捕らわれています。

さて、その後、イエスは今度はある二人の者が田舎へ行く途中、別の姿で現れたとあります。
聖書をよく知っておられる方は、ああ、これはエマオの物語だな、と思い起こされることでしょう。ルカ福音書にあるエマオ物語。
夕暮れの道を二人の弟子が歩いていたら、もう一人が歩き始める。二人の目は遮られていて、それがイエスだとはわからないまま歩いていく、というあのエマオ物語。
ここに書かれている二人の者が田舎へ歩いていく途中、イエスは、別の姿で御自身を現わされたというのは、まさにその話と考えてよろしいでしょう。

この二人も、弟子たちのもとへ行って報告しましたが、弟子たちは信じませんでした。

そして、ついにイエスは弟子たちのもとにおいでになります。そして、彼らをお叱りになりました。信じなかったからです。
弟子たちを捕えていたのは、不信仰と、かたくなな心とあります。
主イエスは、弟子たちについて、不信仰と、かたくなな心をおとがめになった、とあります。

弟子たちを捕えていたのは七つの悪霊ではありません。百の悪霊でもありません。いっそそのほうが良いのかもしれません。
でも、彼らを虜にして、彼らの心を沈ませているのは、悪霊ではなく、不信仰です。かたくなな心です。

この不信仰に捕らわれていた弟子たちに向かって、イエスはおっしゃいました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

信じるならば、悪霊を追い出すことができる、と。
悪霊とは何か。心をかたくなにさせるあらゆる力でしょう。
主を信じるならば、あらゆるかたくな、あらゆる思い患いから解き放たれる。
悲しみ、思い悩み、絶望、憎しみ、恨み、無気力、いろいろなものが押し寄せてきます。最後には、死の悲しみ、絶望も襲ってまいります。
でも、復活の主は、いつもあなたと共におられる、このお方は生きておられる、と信じるなら、新しい力を得る。

また、蛇を手でつかむなんて言葉までありました。
蛇と言えば、エバとアダムの話が思い起こされます。
人間を神から引き離そうとする誘惑するもの、その蛇に捕らえられず、その蛇をむしろ、つかむ。この手におさめる。そのことを可能にするのが、主の復活を信じること、復活の主がいつも共におられることを信じること。

弟子たちは、イエスはかつて一緒におられた、と思っていました。今はもうおられない、と思っていました。そうしたら、悲しみが、絶望が彼らを捕らえました。不信仰と、かたくなな心が彼らをがんじがらめにしました。

そこから解き放たれる道は、どこにあるのか。信じることです。それだけです。

イエスが、十字架につけられる前、ゲツセマネで言われた言葉、「起きなさい、起きなさい」、それは、「あなたの信じる心よ、起きなさい」ではなかったでしょうか。
眠っていたのは、体ではなく、信じる心が眠っていたのではないでしょうか。

不信仰に捕らわれていた時、彼らの中で眠っていたのは信仰でした。
信仰が眠っている。
そこに、イエスさまの御声、必死な叫びが聞こえました。「起きなさい。起きなさい。」

信仰が呼び起こされた時、弟子たちは立ち上がりました。
もう何ものにも捕らえられず、解き放たれて、歩み始めます。蛇をもつかむ者となって。

イエスさまは生きておられます。かつて一緒におられたのではありません。
イエスさまは生きておられます。今、あなたと一緒におられます。
「恐れるな。私は、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
そうお約束なさったとおり、復活なさった主は、今、おられます。
あなたと共におられます。

イエスさまはご復活なさいました。
死より起き上がられました。墓から起き上がられました。

あなたはどうか。疑いの中に眠っていないか。悲しみの中に眠っていないか。かたくなな思いに沈み込んでいないか。
起きなさい、起きなさい。信じて歩むものになりなさい。・・・復活の主のみ声が聞こえます。
イエスさまは復活なさいました。あなたと共に歩み、あなたを救うために、イエスさまは復活なさいました。信じて歩く、喜びと、感謝の日々へと御一緒に進んでいきたい、このように思います。

ヨハネによる福音書12章36節b~50節

18 3月

イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。 12:37このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。 12:38預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」 12:39彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 12:40「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」 12:41イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 12:42とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。 12:43彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。 12:44イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 12:45わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 12:46わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 12:47わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。 12:48わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。 12:49なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。 12:50父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

2018年3月18日 四旬節第五主日  神水教会にて

「闇を照らす光」 
本日は、ヨハネによる福音書12章の36節以下のところを与えられました。
新共同訳聖書で開きますと、二つの段落に分かれております。
そして、この二つの段落の出だしを見ますと、興味深いことに気づかされます。

まず36節には、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」とあります。
大勢の群衆と語り合うのは終わっています。今日の個所より前のところを読みますと、受け入れる、受け入れないは別にして、いろいろな人々の前でイエスは語っておられます。
でも、それを終えられたようです。

今日の個所、出だしを見ると、そういった不特定多数の群衆の前から立ち去って、身を隠されたことが書かれています。
実際、このあと続きの13章以下を読みますと、舞台は最後の晩餐と呼ばれるところになり、登場人物は、イエスと弟子たちだけになります。

今日、私たちに与えられた個所は、イエスが群衆のもとから立ち去り、身を隠された、と言って始まります。

さて、二つ目の段落。何と書いてあるか。
イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。

語られた言葉はなお続きますが、ここの出だし、「イエスは叫んで、こう言われた。」とあります。
今、イエスは群衆のもとを立ち去り、身を隠されました。おそらくもう目の前にいるのは12人のお弟子たちだけでしょう。
いや、読みようによっては、その弟子たちのこともきちんと書かれていませんから、立ち去って、身を隠されたために、今、イエスはまったくおひとりになられたと読むことも、可能かもしれません。

12人の弟子だけと御一緒か、それとも、まったく誰もいないか。そんな状況の中で、なぜ叫ばれたのでしょうか。

たとえば、わたしがこの神水教会の礼拝堂で、マイクなしに、会堂のいちばん後ろにいらっしゃる方にも聞こえるように何かを言わなければならないとしたら、それはかなり大きな声で叫ばないといけないでしょう。
あるいは、外に出て慈愛園のグランドに出て、やはり拡声器もなしでグランドに集まった人々に何かを伝えようとしたら、やっぱり叫ばないといけません。
思い起こされるのは、熊本地震の発生した時、慈愛園の子供たち、職員の皆様、そして、牧師館にいるわたしたち家族、そして、あの時いらっしゃったボーマン先生家族、グランドに出てきました。家の中にいるのは危険と思いましたから。皆様の多くもそうであったことと思います。

夜中に、突然の出来事で外に出て、ここに住んでいる私たちは慈愛園のグランドに集まりました。子供から大人までみんな出てきました。もちろんそのような中、マイクなどありませんから、何か伝えようとしたら、大きな声で叫ばなければなりませんでした。
叫ぶというのはそういうことでしょう。

今、群衆のもとから立ち去って身を隠されたイエス。
お弟子たちだけはそばにいたか、あるいはお弟子たちすらもいなかったか。
とすれば、イエスはなぜ叫ばれたのでしょう。誰に向かって叫んでおられるのでしょう。

ずばり、イエスは、あなたに向かって叫んでおられます。
今日の場面は、イエスは群衆から身を隠して、ただあなたのもとにやって来ておられます。そして、あなたに向かって、叫んでおられます。

必死です。何とかして、聴いてもらわないといけないこと、伝えずにおれないこと、それを、必死になって、神の御子が、天からおいでになった神の御子が、あなたに向かって、叫んでおられます。
どうか、よくお聴きください。

イエスは叫んで、こう言われました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

いささか抽象的に聞こえて、わかりにくいとお感じになると思います。でも、イエスはとにかく叫んでおられます。聞いてほしいから。

この叫んで語られた言葉を記すにあたって、ヨハネは群衆について書きました。
何を書いたかといえば、群衆はイエスのことを信じなかったということを、であります。

多くの人々は、イエスを信じませんでした。今の日本だけではありません。
多くの人は信じませんでした。このお方が、神の御子であると、信じませんでした。

このお方によって救われるということを、信じませんでした。
自分が羊で、このお方が羊飼いであるということ、自分が葡萄の枝で、このお方が葡萄の木であること信じませんでした。

神水教会の納骨堂には「我は復活なり、命なり」と刻まれています。
でも、多くの人は、私たちがこうして生きているのは、このお方の中で生かされているということ、つまりこのお方が、私たちの内に、私たちがこのお方のうちに、生きているということを、信じませんでした。

そういう大勢の人のもとから離れてきて、今イエスはあなたのもとに来られました。そして叫んでおられます。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

父の命令は永遠の命である、とあります。
驚くべき言葉です。天の父なる神様がお命じになったことは、永遠の命なのだと。
父が、永遠の命について語ってきなさい、とか、永遠の命を見せてきなさい、とか、言われたというのではありません。
永遠の命を命ぜられた。永遠の命を与えてくるように命ぜられた。

永遠の命を与えることが、父なる神様の御命令。御心。
それは別の言い方をすれば、神様御自身を捧げることです。
永遠の命を与えるということは、神様御自身を捧げること。
誰に。あなたに、です。

だれが、それを信じられようか、とイザヤ書は歌いました。
そして、信じない群衆のもとをイエスはこの時、離れました。いや、正確に言うと、信じられない群衆が、イエスのもとを離れていったのでしょう。

そして、イエスはあなたのもとに来られる。そして、叫ばれる。わたしはあなたに永遠の命を与える。それが父なる神の御命令だから、と。

ご存知のように、神水教会では、ここのところ、会員の方々の訃報が続いております。毎週のように、週報に、どなたかの訃報が紹介されております。
別れは悲しいことです。特に、大切な方を失う、きのうまで一緒にこの地上で生きていた人が、今日はもういない、そこにいない、というのは、辛いです。言い知れない寂しさが襲います。

でも、わたしたちは、ただ真っ暗なお葬式をしているのかといいますと、そうではなく、希望を持って、涙は流しつつ、しかし、顔を挙げて、主を仰ぎ、命の主を仰ぎ、また会う日を信じて、逝きし者をお送りしております。

お墓の中は暗いです。
私たちはふだん、お墓の中、納骨堂の中で暮らしてはいません。
でも、いつか、召される時を迎えたならば、私たちは皆、お墓の中に入ります。
それは闇の中です。
もしも、もしも、そこに、命の御方がおられないならば、それはただの闇であります。

でも、神水教会の納骨堂に、書かれています。「我は復活なり、命なり」と。
わたしたちは闇が覆う墓の中に消えていくのではありません。
その闇を照らす命の光であるこのお方のもとで、生きるのです。
死にません。生きます。永遠に、です。

今日この後、聖餐式を行います。
聖餐式の時、いつもの祝福の言葉、覚えておられるでしょうか。
「わたしたちの主イエス・キリストの体とその尊い血とは、信仰によって、あなた方を強め、守り、永遠の命に至らせてくださいます。アーメン」と。

あの小さなパンと、ぶどうジュース。それが、あなたを強め、守り、永遠の命に至らせると。なぜなら、あれはただのパン、ただの葡萄ではなく、わたしたちのためにその身を献げてくださったイエスさまのお体であり、御血であるから。その命が、わたしたちの中に生きるから。

あなたは、これを信じるか。それとも、あなたも、イエスから離れて、闇の中に行くか。
闇のほうに行ってはならない。光のもとに来なさい。命のもとに来なさい。と主は叫んでおられます。あなたを愛しておられるから。
イエスさまはあなたを照らす命の光、永遠の光。このお方のもとで、わたしたちは永遠に生きます。世の闇を照らす、この永遠の光の中で、光の子らしく歩んでいきたい、このように思います。

 

テサロニケの信徒への手紙一5章16~22節

4 2月

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

2018年2月4日 神水教会総会礼拝 「神の家族として」

2月を迎え間もなく3月。教会の掲示板に、この春、新しく誕生する牧師たちの門出を祝う神学校の夕べ、あるいは教職授任按手式のポスターが貼られています。今年も3名の新しい牧師たちが誕生します。神水教会では、先週の日曜日、ちょうど中島神学生がここに来て司式、説教をしてくれました。
現在、牧師の数が減少気味であることは、皆様もよくご承知のことと思います。その中で、こうして新たな息吹が吹き込まれることは嬉しいことであります。

さて、わたしたち牧師になる時、こんな言い方をされることがあります。それは「神と会衆によって立てられる」という言い方です。
牧師になるというのは、もちろん基本的には神様の選びである、と。それに異議を唱える人は少なくとも教会の中にはいないでしょう。何よりこれは、神様御自身の召しであると言えます。

では、人間の出る余地はないのか、と言いますと、そんなことはなくて、実際にこの世において、一人の人を育て、養い、教育し、そしてその人がその働きにふさわしいのかどうかを吟味します。
具体的には、たとえば最終的には牧師の試験があります。また、その途中、途中にも、いろいろな形でその人を教育し、また道を整えていく助けがあります。

基本は神の選びであります。しかし同時に、教会に集められた一人一人によって選ばれるのもまた事実です。どちらも大事です。
だから牧師は「神と会衆によって立てられる」と表現します。

今年も、神と会衆によって、ルーテル教会に3名の牧師が立てられます。良き伝道者としてのお働きがなされるよう祈るばかりです。

さて教会では毎年、今年の主題聖句というものを決めます。
そして、神水教会では礼拝の初めのところ、オルガニストの前奏を聞き終えたところで、いつもその主題聖句をご一緒に読んでおります。
2018年の主題聖句は、テサロニケの信徒への手紙一5章16節から18節。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。」であります。

この言葉、誰が選んだのでしょう。役員会の議事録をお読みいただければわかりますが、昨年の11月の役員会で決定しております。
裏話をいたしますと、わたしは毎年だいたい三つ用意します。こういう思いでこの聖句、また、こういう角度のことにも力を入れていきたいからこの聖句、と。二つか三つ選んで、役員さんたちに話し合っていただき、最終的には多数決となります。その中で、今回はテサロニケの信徒への手紙一5章に決まりました。
そう考えれば、これは、もともと牧師である私が考え、そして役員会の皆さんが協議して、決定したものとなります。

しかし同時に、御言葉は常に神様から与えられるものであります。
わたしは、自分ではじめに選んでいる立場ですが、確信しています。御言葉はいつも神様がお与えになっておられると。
2018年を歩むうえで、神水教会がこの新しい年を歩んでいくうえで、最も必要な御言葉、最もふさわしい御言葉、どんな時も心に留めてほしい御言葉、それはこれだ、とわたしたちの父なる神はこの御言葉をわたしたちにお与えになりました。
感謝したいと思います。

さて、主題聖句として掲げ、いつも礼拝の初めに読むときは、その出だしの所だけを読んでおります。
今日、この総会の礼拝におきましてはその段落を全部読みました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
あなたの愛唱聖句はどれですか、と尋ねられて、この御言葉を真っ先に思い起こされる方も少なくないでしょう。おうちの壁などに、掛け軸などに刻まれたこの文字を毎日目にしているという方もおられるのではないでしょうか。

しかし、よく愛され、よく知られているとはいえ、じゅうぶんそれを実行できているか、といえば、こんなに難しく、厳しい教えもほかにはないといっても過言ではないでしょう。

ただその際、わたしたちが「喜ぶ」ということ、「祈る」ということ、「感謝する」ということについて、これを、自分自身の強い精神力を磨いて成し遂げる、と考えると、少しずれが生じてくるように思います。

聖書はわたしたちに、今よりもっと高い精神性を持った人になれ、といった教えを勧めているわけではありません。
もちろん、主に生かされることにより、結果的に、私は以前より落ち着いていますとか、祈るとやっぱり心が静まります、とかそれはあるでしょう。

でも、後に続く文章を読みますと、そこに大切なことがあります。
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。

私は、この聖句を主題として掲げる時、少しばかり悩みました。それは、この一文まで加えるかどうか、ということです。
本当は入れたほうが内容的にはいいと思いました。
でも、主題として掲げて、ここにsさんの書いてくださる立派な習字で書いていただいて、パッと目で見てわかるのには、コンパクトなほうが良いだろう、そう判断して最後の一文ははずしました。

でも、文章としては、もともとパウロがこれをしたためた時には、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と書きました。

簡単に言えば、「いつも喜んでいなさい。」というのはなぜか、といえば、それは神様がそうお望みだから、ということです。ほかに理由はありません。

わたしたちは、おそらくこのテサロニケの信徒への手紙一5章の御言葉を愛して、好んで、読みます。そして、生き方の指標のように掲げることもあります。
その時わたしたちは、自分の生き方として、こんないつもくよくよせず、喜ぶ人でありたい、という願いをもって、この御言葉をとらえているかもしれません。
でも、「いつも喜んでいなさい。」というのは、わたしたちの願望ではありません。神様の願望なのです。あなたが、何があっても前を向いて歩いていく、というのは、あなたの望みではなく、神様の望みなのです。

またこうも言えましょう。
「いつも喜んでいなさい。」と主がおっしゃるのは、どんな状況になったとしても、わたしはあなたに永遠の喜びを与える、という神様の約束の言葉でもあるということです。

皆様もよくご存じのマルティン・ルターの逸話があります。
宗教改革の旗を上げたのですが、その結果、彼は破門され、命を狙われ、お先真っ暗。さすがのルターも意気消沈していました。
するとある時、妻カタリーナが喪服を着てやってくる。ルターは「いったい誰が亡くなったのだ」と尋ねると、カタリーナは「神様が亡くなりました」と答える。「神様が亡くなった、なんて、なにをおかしなことを言うのだ」とルターが尋ねると、彼女は「あなたがそれほど落ち込んでいるから、てっきり神様が死んだと思いました。もし、神が生きていらっしゃるなら、絶望はないのではないですか」と答える。
これを聞いて、ルターは改めて、神ともにいます、という信仰を奮い立たせられて、雄々しく突き進んでいく勇気を与えられていきます。

状況は変わっていないのです。でも、主が共におられる、ということを忘れているわたしたちがいるのです。神は変わりません。神の愛は変わりません。でも、それをしっかりと仰ぐことを忘れるわたしたちがいるのです。

「いつも喜んでいなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

さらにこう続きます。
「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

ひとつひとつお話しすると、時間が無くなりますので、最後の一文のみ、今日は触れておきます。
「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

悪いことから遠ざかる。・・・簡単なようで、簡単ではありません。いつも喜んでいる、絶えず祈る、と同じで、いつも正しいことを考える、いつも悪いことを避ける、絶えず、善行をし続ける、というのはありえないことです。

悪いものから遠ざかりなさい。
これと似ている祈りを、わたしたちはいつも捧げています。主の祈りです。
「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」

悪より遠ざかる、ということもまた、自力で頑張る、ということも、もちろん努力はすべきですが、しかし根本はそうではありません。
罪深く、弱いわたしたちですから、いつも悪から遠ざかるどころか、いつも罪の中に落ちている、と言ったほうが正確でありましょう。

だからイエスさまは、我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。と祈るよう教えられました。
それは、自分の弱さを知る祈りです。主の助けがないと、生きていけない自分であることを知る祈りです。

教会は何の群れか。神の家族。神様の子供。それを存分に味わう群れです。

そしてそのことは、わたしたちが、わたしたち自身の弱さ、神の助けなくしては、神の恵みなくしては倒れてしまう者ということを知っている群れということでもありましょう。

先週、神水教会ではUさんのお葬式が行われ、また1月の初めに御召天されたAさんの記念会が、昨日ここで行われました。
葬儀ですから、確かに参列者は喪服を着て集まりますが、しかし教会の葬儀は、悲しみ、絶望の闇の中に沈んでいくものではありません。
今、ここにどうにもならない悲しみがあっても、寂しさがあっても、それでも我らが主は救いの神、死んでも共にいる、恐れるな、安心せよ、と言ってくださる御方。
このお方のもとで光をいただきつつ、涙を流しつつ、顔を上にあげる力をいただきます。

もし、このお方の恵みを知らなかったら、先週はただの悲しみに暮れる一週間で終わりでした。
でも光や希望が見えるのです。まるで、雲の隙間から太陽の光が少しずつ差し込んでくるかのように、ここが教会であり、ここが神の家族であり、ここが神の恵みを味わう場所であればこそ、わたしたちは見えざるものを見ることができます。

そしてそれは、自分がそれを見て満足、ああ、よかった、というものではありません。わたしたちは神様の子、神様の家族なのですから、その光を隣人に届けることができます。いや、それこそ、神がイエス・キリストにおいて望んでおられることです。
教会の皆様が、御遺族の方々にお声をかけては、慰めの言葉をかけておられるその姿勢を幾度も目にしました。これぞ神の家族です。まさに神が望んでおられる姿がありました。

神の望みはどこでかなえられるか。ここでかなえられます。
この神水教会で、神の御心は現れ、神の光が輝き、愛の業は行われていきます。

そのために、わたしたちは召し集められました。感謝しましょう。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。
ああ、ここに来ると、それがよくわかる・・・神水教会はそういう群れです。
新しい一年も、神様の恵みが豊かに降り注がれますように。

 

 

 

マルコによる福音書1章9-11節

14 1月

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

2018年1月14日 主の洗礼日 神水教会

「我、汝を喜ぶ」

本日与えられたマルコによる福音書1章のみことば、とても短い段落でした。
それは、主イエスの洗礼について書かれた個所です。

実は、わたしが聖書を読み始めてからか、あるいは、クリスチャンになってからか、どっちだったか、はっきりとした記憶ではありませんが、とにかく、教会に通うようになって間もないころ、不思議に思った個所の一つでありました。
「イエスさまが洗礼を受ける。何だろう、これは」と不思議に思いました。

このお話は、同じ出来事を記したマタイ福音書では、洗礼を授ける側であるヨハネが躊躇します。だって、神の子ですから、イエスさまは。
「なんで、普通の人間の自分が、神の子のイエスさまに、洗礼を授けるのか?反対でしょう」と。「イエスさまが、・・・天からおいでになった神の子イエスさまが、わたしに洗礼を授けてくださるというのが筋でしょう!」と。
その言いたいことに同感です。私もそう思います。

昨年のクリスマスの礼拝で、ここで、Kさんが洗礼を受けられました。夏にはTさんが洗礼を受けられました。
教会に通い始めて、そして、神様を信じて、自分もクリスチャンとして歩んでいこうと洗礼を受けられることになりました。そこで、牧師である私が洗礼を授けました。
言ってみれば、教会に通い始めたTさんや、Kさんが、牧師である私に洗礼を施すような感じかもしれません。私のほうが、ここでひざまずいて、教会に来たばかりの方に洗礼をしてもらう。そんな感じです。立派なお二人ですから、それもよさそうな気もしますが、でも、ご本人たちにしてみたら、「いや、それは逆です。牧師先生、私に洗礼を授けてください」とお願いしたくなるでしょう。

まして、主イエスです。
天から来られた神の御子、イエス・キリスト。このお方から洗礼をいただくなら、わかるのです。なぜこのお方が、ひざまずいて「よろしくお願いいたします」と首を垂れて、洗礼を受けられるのか。わかりませんでした。なぜ、この話がここに記される必要があるのか、よくわかりませんでした。

しかし今は、この出来事がとても大事なことであった、なくてならないことだったと思っています。
書き手であるマルコさんにしてみれば、これはもう初めに・・・、イエスというお方がこの世界においでになって初めに、何をやったかといって、まず、初めに、洗礼をお受けになったのですよ、ということを伝えないわけにはいかなかった。とても大事なことと考えて、これを書き残してくれたのでしょう。

そのことに、私は心より感謝したいと思います。

それは、このお方、天からおいでになったこのお方、神の子は、私たちと同じ者になられた、ということだからです。

そもそも天から、この地上に、降りてきてくださったということ。わたしたちと同じ人間となられたこと、これが驚きです。

先週で、クリスマスのシーズンは完全に終えましたが、改めて、なぜ2018年前に、神の子が、この世界においでになられたのか。しかも、わたしたちと同じお姿で・・・あなたと同じ人間という存在になられて・・・。考えさせられます。

神の子がこの世界にやってこられたのだから、それはもう、神々しい、近寄りがたい御姿だった、というのではなく、あなたがお生まれになった時と同じ、赤ん坊の御姿でした、このお方は。
天からおいでになるとき、雲を突き抜けて、まるで天から光線銃でも撃ち込まれるように、レーザービームのようにシューンとやってきました、というのではありません。
あるいは、ドラゴンのようなお姿で、それはもう怖かったです、というものではありません。

このお方は、あなたと同じ、私と同じ、人間の姿で来られました。
あなたと一緒にいるためです。あなたを大好きだからです。

そのことがわかるとき、このお方がなぜ洗礼をお受けになったのか、ということがわかります。私たちと同じものになられた。神のみ前に罪深いわたしたちの仲間になられたということ。

多くの人に愛されているイエスの言葉があります。
「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。」という言葉です。
主イエスは、「正しい者、しっかりやっている者、元気溌剌な者、世間からもとても高く評価されている者たちよ、さあ、おいで、一緒に天国へ行こうではないか」なんてことはおっしゃいませんでした。
「疲れた者、重荷を負う者はおいで、わたしのところにおいで」と言われました。

また、罪深い一人の男をご覧になった時、彼を弟子にしました。
「あんな罪深い者を」と周りで陰口をたたく人たちにおっしゃったのは、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という言葉でした。

主イエスは、神の子イエスは、小さな一人一人、悩める一人一人、欠点も多く、失敗も多く、多くのことに不安を覚える一人一人、そんな一人一人を愛し、いつくしみ、そういった一人一人をお招きになるために、お救いになるために、同じ人間の姿で来られました。
そして、自分の弱さや罪に悲しみながら、洗礼を受ける群れの中にお入りになり、一緒に洗礼をお受けになったのでした。

そのことのゆえに、イエスの洗礼は、神の御子が、この地上で、まず初めになされるのに、たいへんふさわしいことであったと言えましょう。

さて、その洗礼の際、視覚に訴えるものと、聴覚に訴えるものとがあったようです。
視覚に訴えるもの、それは、聖霊が鳩のように降りてきたこと。
聴覚に訴えるものは、その時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という声が天から聞こえた、ということ。

でも、これらは、周りにいたみんなが見届け、きちんと聞いたということではなかったようです。イエスがご覧になり、イエスがお聞きになったものです。

それで、昔からこんな疑問も言われるようになりました。
「イエスだけが見、イエスだけが聞いたものを、どうして、マルコが知っていて、こうやって書くことが出来たのか?」と。なるほど、これまた疑問になる話です。

でも、これについてはそう難しく考えなくてよいと思います。
つまり、このあとイエスは弟子たちと出会って行かれます。弟子たちと寝食を共にしつつ、歩んでいかれます。その日々において、この日のことが話題になったことがあっただろうということ。

たとえば、このヨルダン川での洗礼の出来事、ここには、大勢の人々が来ていました。大勢の人々が罪を告白し、悔い改めるために洗礼を受けてに来ていました。
その中には、のちにイエスの弟子になって行った人々もいたかもしれません。

すると、ある時、そういう弟子が「イエスさま、私はあの日ヨルダン川で洗礼を受けたのですよ」なんて話す。するとイエスが、「そうか、よかったね。実は、わたしもあの日、あそこにいたよ」と。「ええ?!そうだったんですか」と驚く弟子たちにさらに「私はね、あの時、みんなと一緒にヨルダン川に入って、洗礼を一緒に受けたのだよ」とお話しされたことでしょう。

驚きを抑えきれない彼らに、さらに、その時のことを語られる。
「そしてね、ヨルダン川から上がると、私の目にははっきりと、天が裂けて、聖霊が、神の霊が下りてくるのが見えたのだ。それは鳩のような姿だったよ。そして同じく、天からの声をわたしは聞いた。お前たちは聞こえなかったか」なんて会話をしていても不思議ではありません。
その話を受けて、弟子たちにも、印象深く残り、こうして紹介されていったのでしょう。

でもわたしは、ただ印象深いから、マルコはこれを書き残したのではなかったと思います。
この話は、さらに、私たちひとりひとりへのメッセージであるということも分かったから、書かれたのだと思います。

そのカギを握るのは、天から聞こえた声です。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声。素晴らしい声です。
実はこの声の中身について、少しほかの訳と比べますと、「わたしの心に敵う者」というところは、もっとストレートなイメージです。どんな具合か、といえば、「わたしはおまえが大好きだ」あるいは、「わたしはお前を喜ぶ」という表現です。

新改訳聖書では、その通り、「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と訳しております。
また、教会生活の長い方々には、なつかしい文語訳聖書では、「汝は我が愛しむ子なり、我、汝を悦ぶ」とありまして、やっぱり「わたしはお前を喜ぶ」とあるのです。

「我汝を喜ぶ。」この言葉をイエスさまはお聞きになった。そして、そのことを弟子たちにもお話しになった。

なぜ、弟子たちにこのことをお話しになったか。
それは、
「この言葉はね、わたしだけに言われた言葉ではないのだよ」
「これはあなたにも同じように届けられている言葉だ。汝は我が愛しむ子なり、我汝を悦ぶ。天の父はあなたのことを喜んでいる。あなたを見ているだけで父は幸せ。」
「その声を聴けるといいな。わたしは聞こえるよ。魂の耳で聞こえる。あなたも、魂の耳で聞いてごらん。天の父の声が聞こえる。汝は我が愛しむ子なり、我汝を悦ぶ、と。」
「魂の目を開くとね、見えるんだよ。神の霊が、鳩のように降りてきているのが。」
「何も恐れなくていい。あなたは神様のお気に入り。大切な、大切な子供だよ。」

そう教えられた出来事だからこそ、これは大切な話として語り伝えられたのではないでしょうか。

そして、それは今も同じです。
昨年洗礼を受けられた方々、その前に、その前に、いつでも、どこでも、洗礼を受けられた皆さん、思い起こすことができます。

その時、天からの声が響いていました。
あなたは私の愛する子、わたしの心に敵う者
汝は我が愛しむ子なり、我汝を悦ぶ

人間同士の世界でも、親は、子をもう見ているだけで、幸せになります。「生まれてきてくれてありがとう」の気持ちです。
神様も一緒です。天のお父様は、あなたを見ているだけで幸せ。
あなたは私の愛する子、わたしの心に敵う者
汝は我が愛しむ子なり、我汝を悦ぶ

その天の父の思いを携えて、おいでになられたのがイエスさまです。あなたのそばにいるために、あなたを救うために、です。

罪人のわたしたちを愛し、友になってくださった、兄弟になってくださった主の愛に感謝しつつ、新しい日々を歩んでいきたい、このように思います。

ルカによる福音書2章1~7節

14 12月

そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

九州ルーテル学院大学チャペルにて(2017年12月14日 )

「その手で」

今、読んでいただいた聖書の言葉はクリスマスの時期に、もっとも多く読まれる個所です。

世界中で、この時期、このルカによる福音書2章は、どれだけ読まれるでしょうか。

また、2000年ほどの間に、この個所は、いったい、人類にどれくらい読まれてきたのでしょうか。天文学的な数字になろうかと思います。

そこに、「イエス」ではなく、アウグストゥスという人名が出てきました。

これは、実は、ひとつの称号でありまして、本名ではありません。彼の本名はオクタビアヌス。歴史に詳しい人であれば、オクタビアヌスと聞けば、「ああ、重要な人物の一人だ」とお分かりになるでしょう。

ローマ帝国の皇帝の一人です。彼は、アウグストゥスという称号を与えられました。それは、荘厳なる者、畏れ多い御方といった意味です。

そういう称号を与えられるほどに、オクタビアヌスは、名君であったということです。ローマの平和と呼ばれる時期の基礎を築いたとも言われます。

そして、このアウグストゥスと呼ばれるローマ皇帝が、その頃、人口調査の命令を出しました。現代で言えば、国勢調査に似ているかもしれません。でも、現代のようにシステマティックに進めることもできませんし、さらに、当時のローマ帝国が、ものすごい領土を広げていましたので、一説によりますと、当時の人口調査は、四十年ほどの歳月を費やしたと言われます。

そのような大きな時代の中で、一組の男女がおりました。ヨセフとマリア。神の子イエスの両親となる二人です。

大海に浮かぶ小舟のような、二人です。

二人は、寄り添うように、その時を過ごしました。

だれも助けてくれない。宿屋がなかったから、飼い葉おけに、生れたばかりの赤ちゃんを寝かせたとあります。皇帝アウグストゥスの暮らしぶりとは、大違いの状態です。

でも、これが、今から2017年前の、世界で最初のクリスマスです。

アウグストゥスは、人口調査をしようとしました。国民をきちんと把握しようとするものです。

「掌握する」という言葉があります。手のひらに握る、と書いて、掌握。

あるいは、もっと柔らかく、「手に入れる」「手中に収める」という言葉もあります。

面白いものです。手という言葉が、こういうとき、たくさん使われる。

でも、皆さん、自分の手を見てください。それは、小さいですね。その手の中に、収めると言っても、たいして入らないでしょう。

以前、私が入ったお店で、枝豆を、つかんだだけ食べることが出来るという企画があって、私も欲張りだから、この時とばかり、グイッとつかもうとしたら、バラバラと指の間から落ちて、あまりたくさん取れませんでした。

何事も、そんなものかもしれません。

オクタビアヌスがその手に納めよう、手中に納めよう、この国のトップとして、全領土を、全国民を、掌握しようと思った。

しかし、彼の手は、・・・人間の手は、世界を、世界に住む人を、その手に納めるなんてことはできないと思います。たかが、こんな手だからです。

でも、その小さな手が、とても頼りになる時もあります。それは、その手が、だれかを助ける時です。

あなたの手が、誰かを、支えようとするとき、あなたのその小さな手は、とても暖かくて、優しくて、頼りになる手になります。

あの日、ヨセフとマリアは、孤独な中で寄り添っていました。マリアは、初めての出産です。産婆さんもいません。そのような中で、そばにいるヨセフさんがしっかり手を握っていてくれたのではないかなと思います。そして、その手は、どんなにか、マリアさんにとって頼もしい手だっただろうかと思います。

そのようなぬくもりの中で、神の子イエスはお生まれになりました。

何が、人の救いとなるのか、それは、そばにいてくれる人のぬくもり、世を治めるほどの力や、権力ではなく、そばにいる人のぬくもり、それがいちばん大切だと教えているかのようです。

そして、そのような中でお生まれになった神の子イエスが、届けてくれたのは、「私はいつもあなたと共にいる」という約束でした。その約束は今も、永遠に続きます。なぜなら、この御方は、まことの神の子だからです。

今年のクリスマス、パーティーも楽しいですが、どうか、「いつも共にいる」と約束された救い主、イエスさまのことを、おぼえていただきたいとおもいます。

祈ります。

御子イエス・キリストの父なる神さま。

皆さんと一緒に祈ることのできるひとときを感謝します。

私はいつもあなたと共にいる。この尊い約束が、皆さんの体を、心を、優しく包むクリスマスとなりますように。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン

ヨハネによる福音書15章1~17節

5 11月

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

全聖徒主日(2017年11月日 神水教会にて)

「いのちは神の御手に」

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

先ほどお読みいただきましたヨハネ福音書15章のみ言葉、11節に、こういうひとことがありました。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

イエスは、たくさんのみ教えを弟子たちに残されました。聖書を読んでおりますと、わたしたちも、その一端を垣間見ることができます。

自分を愛するように、隣人を愛しなさい。

求めなさい、そうすれば与えられるであろう。門をたたきなさい、そうすれば開けてもらえるであろう。

一粒の麦は落ちて死ななければ、一粒の麦のままである。だが、落ちて死ねば、豊かに実を結ぶ。

隠れているもので、露わにならないものはない。

あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを迫害し、あなたがたを呪う者のために、あなたがたは祝福を祈りなさい。

などなど、キリスト者でなくても、どこかで耳にしたことのあるような、珠玉の教えの数々。おそらく、わたしたちが聖書で読んでおりますのは、そのみ教えの一部であって、当時、寝食を共にしていた弟子たちは、もっと、もっと多くの言葉を、主イエスの口から聞いていたことでしょう。

そういったたくさんの言葉を語って来たのは、何のためであったか、それはわたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。と。

喜びのためであると。キリストの言葉は、何のために発せられたかと言えば、わたしたちが喜びにあふれ、喜びに満たされるために、そのために、主イエスは、これらの言葉を語って来たのだと。

わたしたちが、聖書を読む。これは、何をわたしたちにもたらすのか。喜びをもたらすのである、とこう言いきっても過言ではないでしょう。

イエス・キリストの言葉、すばらしい聖書の言葉、それは、喜びとなる。

ですから、聖書を読みながら、暗い気持ちになることがあるとしたら、それは、正しい読み方をしていないということになりましょう。聖書を読みながら、いつもしかめっ面をしているなら、それはどこかでずれが起こっているということになりましょう。

聖書を読めば、喜びがやって来るのです。

さて、しかし、ここで考えないといけないことがあります。それは、では、喜びとは何か、ということです。

皆さんは、喜びとは何か、と聞かれたら、何が浮かんでくるでしょうか。

孫がやって来た。これは喜びかもしれない。

いつになったら結婚するかと思っていた息子さん、娘さんがいい人を連れて来た。これも嬉しいかもしれない。

給料が上がった、学生さんならば、成績が上がった。あるいは、志望校に入学できた。こんなところには、間違いなく喜びがあります。

でも、こういった喜びは、ある特定の人の喜びです。

成績が上がったということは、すぐ隣の席の人が成績が下がったということかもしれない。自分には喜びでも、他人には喜びとは限りません。

あるいは、逆に、あの人にとって喜びであることが、わたしにとって喜びでないことがあります。

人の喜ぶ姿を、素直に喜ぶことができない、むしろ、妬ましい気持ちさえ起るのも、わたしたちの現実です。

では、聖書が告げる喜びは何か。

聖書は、古今東西、万人に向けて書かれた書物です。

いま、ここでわたしたちが読む。この言葉は喜びですと読む。それは、地球の裏側の人にも喜びであり、いま、ここに来ていない人にも喜びであり、さらに千年前の人にも喜びであったし、まだ見ぬ遠い将来の人、わたしたちの孫の孫のそのまた孫にとっても、聖書のもたらす喜びは、喜びなのであります。

キリストは、そういう喜びについて語っておられます。

それは何か。

それは、天の喜びです。

天上の喜び。神さまの領域にかかわる喜びです。

この地上の喜びは、限界があります。あの人にはよくても、この人にはよくない。地上の喜びは、決して、みんなに共通の喜びとはなりえない。

古今東西、みんなに等しく喜びとなるのは、天の喜びです。

あと一ヶ月ちょっとすると、クリスマスを迎えます。クリスマスの夜には、天使がやって来て、羊飼いたちにメッセージを告げた、と聖書に書かれています。あちこちでクリスマスの聖誕劇をやる時に欠かせない場面です。

羊飼いたちへの天使のセリフはこうです。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2:10、11)

クリスマスの夜にも、天使から喜びについて語られました。それは、民全体に与えられる大きな喜びと言われます。

これは、今日のイエスのことばと同じものです。民全体に与えられる大きな喜び。

イエスが、弟子たちに、語られた今日のヨハネ福音書15章の喜びもこれと同じです。

そのような喜びをもたらすために、神は天使を通してみ告げを残され、またイエスは、弟子たちに、今まで語って来た教え、それはすべて、あなたがたに喜びをもたらすためだった、と言われる。

その喜びのさまを表すのに、今日のみ言葉は、ぶどうの木と枝をたとえに語られておりました。

イエスはぶどうの木、わたしたちは、その木につながる枝々であると。

イエスが、御自身とわたしたちの関係を表すのに、ぶどうの木を題材にとられたのは、恵み深いことです。

針葉樹のようなものではありません。まっすぐに天に伸びていく木ではありません。

横へ横へ広がるのがぶどうの木であり、その枝です。つながっているのです。ぶどう園を見に行くと、もうどの枝が、どの木につながっているのか、分からないくらい、枝々が広がり重なり合っています。

ぶどうの木と枝にたとえられたというのは、ひとことで言えば、わたしたちは、神様と一体だ、ということです。

わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。とか、

わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、とか、

わたしの愛にとどまりなさい、とか、

わたしはあなたがたを友と呼ぶ、とか、こういった一言、一言を、振り返って行きますと、わたしとあなたがたは一体となるのだ、わたしの命があなたの命となり、あなたの命は、わたしの命となるのだ、と言われているが伝わってきます。

イエスの命は、永遠の命です。神さまですから。

永遠です。その永遠の命が、わたしたちの命となる。わたしたちの命が、永遠なるイエスの中にのみ込まれて行く。

それこそが、イエスの語られた喜び。皆に等しい喜び。今ここにいる者だけでなく、すでに天に召された者をも包み込む、永遠の喜び。

その喜びが、イエス・キリストを通して、この地上に届けられました。

この地上で、与えられた日々、その日々を、確かな喜びに満たされて生きていくためには、イエスにつながっていることです。

枝が幹につながっているように、しっかりイエスにつながっていること。

祈ること、み言葉に耳を傾け続けること、礼拝に来ること、そうやって、イエスにつながるのです。

そうすれば、世の悲しみ、苦しみの中にあっても、永遠の喜びが、わたしたちを満たします。それは、天の喜びです。神さまの喜びです。

天に召された兄弟姉妹たちは、すでに、その喜びの中で永遠の命を受け、永遠の慰めの内に生きています。

しかし、これは、天に召されて初めて、この喜びを味わうのではありません。

なお、この地上での日々を歩むわたしたちも、同じ喜びを味わうことができます。

主を信じれば、その喜びを知ることができます。永遠の命を約束する主のみ言葉を信じて、生きる。そこに、天からいただく、消えることのない喜びが宿るのです。

救いをもたらすために、イエス様は来られました。永遠の喜び、永遠の慰めのために、主は、わたしたちのもとに来られました。

イエス様は、いまも、わたしたちと共にいてくださいます。イエス様は、わたしたちの内に生き、わたしたちもまた、この身を主にゆだねて、生きていくよう招かれております。

わたしたちの命は主のもの、主の御手の内にあります。

信仰と希望を胸に、新しい日々を生きていきたい、このように思います。

マタイによる福音書20章1~16節

15 10月

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

聖霊降臨後第19主日(2017年10月15日 神水教会にて)

「あなたにも支払ってやりたい」

本日与えられましたマタイによる福音書20章には、イエスのなさったたとえ話が記されておりました。

たとえ話です。現実に起こった話ではありません。目に見ることのできない天の国を、何かにたとえようとなさったら、このような話になったのだということです。

一人の主人がいた。彼はぶどう園を持っていた。そのぶどう園で働く労働者を求めて、広場へ行く。夜明けに、9時に、12時に、3時に、そして5時に。足しげく主人は、広場に行って、労働者を雇った。そして、彼ら皆に給料を一デナリオンずつ支払った。そうしたら、朝早くから働いた者たちが「夕方からの者も同じなんて不公平だ」と文句を言った。けれども、主人は「私は皆に支払ってやりたいのだ」と答えたという話。

いま、私はこの話を短くまとめましたが、そんな事をしなくても、おそらく、皆さま、この話は一度読めば、その内容といいますか、あるいはこの場面の様子が浮かんでこられることと思います。そんなにややこしい話ではないと思います。とにかく人を雇って、給料を払ったというだけの話ですから。

でも、話の筋はわかったとしても、話を聞いて、納得できるかと言われれば、どうも、首をひねりたくなると思われる方も多いでしょう。

どうして、こんなひねくれた話をするのだ、と思われる方も少なくないと思うのです。

朝早くから働いた人と、夕方からちょっとだけ働いた人がいて、同じ給料をもらいました。ああ、そうですか、と簡単に素通りできない話です。

実は、ユダヤ教のある文献には、これとよく似た話が紹介されているそうです。そこでは、いちばん最後に来た人は、とっても有能な人であって、わずかな時間であったけれども、てきぱきと素晴らしい仕事をやってのけ、朝早くから働いた人と同じくらい貢献した。それで同じ金額を手にしたのだ、と説明されています。

これなら納得いきます。首をひねる必要はありません。

実際、今でも、時間給ではなく能力給で支払われるという職場は、いくらでもあります。夜明けから働いたか、何時間働いたか、というのは問題ではなく、どれだけいい仕事をしたか、主人を満足させたか、そこが問題だったのだと言われれば、おそらく誰も文句を言えないでしょう。

イエスも、そういうふうに話をしてくださったら、聖書ももう少し納得しやすいものになっていたかも知れません。

けれども、イエスが天の国についてお語りになろうとすると、そのような納得いく話にはできなかったようです。どうもひとひねり生まれてしまったようです。

それは、力点を置く場所が違っていたと言ってもよろしいかと思います。

何でもそうですが、どこに力点を置くのか、何を大事にするのか、それによって物事は右にも左にも行くものです。

たとえば、ここでは仕事の話です。雇う側と雇われる側です。何を大事にするのか。

ある人は、仕事の能力をいちばんに考えるでしょう。

でもある人は、仕事をするからには、自分がやりがいをもってできるかどうかに力点を置くでしょう。

そうかと思えば、ある人は、いちばんたくさんお給料をもらえるかどうかを真っ先に考えるでしょう。

そんなふうに、同じ事柄を扱うにしても、わたしたちは、どこに力点を置くのかで、物事の意味が変わってくる、価値が変わってくるということがあります。

今日の話の登場人物たちにしてもそうです。

分かりやすいのは、夜明けから働いていた人たち。この人たちの力点は、働いた分だけきちんと見合ったものを渡してほしい、ということです。夕方五時から働いた者と、朝早くから来て働いた自分たちとを同じ扱いをするな、きちんと働きに応じてふさわしいものを支払ってくれ、とこういう姿勢です。

さきほどのユダヤ教の文献と同じように、それはわたしたちにとってわかりやすい話です。おそらくわたしたちも皆、同様でしょう。同様だからこそ、わたしたちは、この話を聞いた時、えっ、ちょっと待ってよ、と思うのです。割に合わない話だと思うのです。なんでこんな人の神経を逆なでするような話をするのか、と思ってしまうのです。

一方、この主人はどこに力点を置いていたのでしょうか。

さきほどのユダヤ教の話と比べますと、この主人は、労働の能力などについてはあまり関心がないようです。働いた時間、その貢献度、そういったものにはまったく目を向けていません。

それから、この主人は、いくらのお金を払うかということについての計算のようなもの、そこにも関心がないようです。つまり、普通こうやって人を雇う側の立場であれば、計算をします。予算を立てます。

私も今、九州教区の宗教改革500年行事の実行委員長を仰せつかっております。こういうものを進める時には、当然ながら予算というものを立てます。収入はどこからどのくらい入ってくる、だから、支出はこのくらいと。なんでもかんでもやりたいと思っても、予算の範囲内で考えます。

こういうめでたい時だから、九州教区の皆さんの食事代、ホテル代、新幹線代、全部こっちで持ちましょう、なんて思ったって、そんなお金に余裕はありませんので、できるわけありません。

500年を記念して、ひとつ一億円くらいのモニュメントを作ろう、と思ったって、そんなことできはしません。まあ、やりませんけど。

今日の話の主人を見ていると、そのへん無頓着です。細かい計算のもとで動いているとは思えません。

だから、主人は人数も気にしていません。通常、こうやって人を雇う場合、何人くらいの労働者が必要であるということをきっと考えます。

でもこの主人は、何人に来てもらおうかということ、初めからまったく考えていないようです。だから、無計画にというか、次々に、さあ、君もおいで、君もおいで、と呼んでおります。

では、この主人は、何に関心があるのか。どこに力点を置いているのか。

この主人は、どうも、広場に残っている人に関心があるようです。

つまり、仕事にあぶれて、行き場がなく、絶望を抱えつつ、広場に取り残されている人、そういう人たちに関心を持っているようです。

この主人は、あぶれた人を見たくない愛情の深い人なのです。みんなを自分のぶどう園に連れてきたいのです。

それから、この主人は、自分の利益をあげることには関心がないようです。通常、人を雇う側、つまり経営者の側ならば、利益を上げることを考えます。でも、この主人は、利益を上げることではなく、一デナリオンずつ与えることに関心があります。

ありがたい主人です。愛の主人です。神さまのお姿です。

これは、間違いなく天の国のたとえです。

いろいろな人たちが、広場で、この主人と出会いました。

夜明けから、朝一番で、この主人と出会った人たちがいました。彼らは最終的に、支払いのことで文句を言っておりましたが、本当はとても幸せな立場です。朝が来るとともに、仕事が見つかったのです。一デナリオンもらえるという約束までいただきました。

一デナリオンだけでなく、彼らは、これで今日は大丈夫、という安心をもらいました。これが大きいですね。

9時から働いた人は、9時になって初めてその安心をいただきました。ということは、言葉を変えれば、夜明け頃の時はあぶれたのです。ああ、今日は、仕事につけなかった、どうやって食べようか。明日はどうなるのかな、なんて不安な時間を過ごしました。

12時の人、3時の人、さらに5時の人、もう今日は仕事がない、給料がない、生きる保証がない、そういう不安を抱く時間が、それぞれありました。

そうやって待っている間、彼らは何が欲しかったのでしょうか。何に力点を置いていたでしょうか。

五時ごろに行って、雇ってもらった人々のせりふが印象的でした。

主人から、「なぜ、ここに立っているのか。」と尋ねられると、彼らは「だれも雇ってくれないのです。」と言います。

だれも雇ってくれないのです。

「食べ物がないのです。」「お金がないのです。」とは言いません。

「雇ってくれる人がいない。」と。

彼らは、雇ってくれる人、別の言い方をすれば、自分の主人がいない。主人を得られないまま、五時まで来てしまいました。

能力とか、貢献度とか、そういうことではなく、そこにあなたがいるだけで、それでいい、と言って、自分を受け止めてくれるような主人と出会いたかった。そのような愛を求めている。そこに力点を置いています。

だから、彼らは、「雇ってくれる人がいないのです。」と言います。

主人は、そんな迷子になっているような人、取り残された人を見たくないのです。一人残らず、自分の畑に招きたいのです。

もうお分かりと思います。この主人が神さまです。そして、この主人の深い愛によって、わたしたち一人一人が愛されていること、それが天の国なのです。

わたしたちは、この主人によって、招かれ、「さあ、おいで、今が五時だからと言って遠慮するな、さあ、おいで」と招かれています。

あなたに何の能力があろうが、何だろうが、関係ない。わたしは、ただ、あなたを招きたい、あなたをそばに置いておきたい、あなたを守りたい、あなたを救いたい。

あなたが誰にも認められず、雇ってくれる人がいないのです、なんて姿を見たくないのだ、と主なる神は言われます。

今日の話、最後、夜明けから働いていた人たちが文句を言います。「朝早くから働いていたわたしたちと、あの五時からの者を同じ扱いにするのか」と言って。その気持ち、わかります。きっと誰もが分かります。

さて、主人は何と答えたでしょう。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。」

主人は、自分のしたいようにしては、いけないか。と言いました。

したいことをする。・・・さて、この主人は、何をしたのでしょうか。

この主人は、皆さんを救いたい。それがいちばんしたいこと。望んでいること。そのために、この主人は、何をしたか。御自身のたいせつな独り子を送られました。あなたをお救いになるためにです。あなたを救うこと、それが一番の関心事だからです。あなたという存在がこのご主人の最大の関心事なのです。

主人は、今もこの礼拝堂に、あぶれている者はいないかと探しに来ておられます。約束の一デナリオンという名の救いは、無条件に、神の恵みによって差し出されています。あなたの目の前に。

この恵みによって私たちは救われるのです。