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マルコによる福音書13章24-31節

25 11月

 13:24「それらの日には、このような苦難の後、
太陽は暗くなり、
月は光を放たず、
13:25星は空から落ち、
天体は揺り動かされる。
13:26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
13:27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
13:28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 13:29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。 13:30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。 13:31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 

聖霊降臨後最終主日(2018年11月25日 神水教会にて)

  「天地が滅びても」

今から20年ほど前、1999年を迎えたころ、世間では時折、世の終わりが意識されていたように思います。

一つの原因は、ノストラダムスの大予言というのがありまして、世界は、1999年に終わるといったことがまことしやかに言われていたからであります。

これはずいぶん昔から言われていたことを、私もおぼえております。

私がまだ小学生だったころに、実は、このノストラダムスの大予言というのが話題になって、本屋さんでたくさん売れて、さらに映画にまでなっておりました。

1970年代のころです。

わたし自身は、小学生でした。そして、小学生なりに数を数えて、そうか、世界は、1999年に終わるのか、とすると、私の場合は、1965年生まれですから、34歳になった時に、死んでしまうのか、自分の人生は、34歳までなんだ、と同級生たちなどとも話題になっていたのを覚えています。

でも、しばらくすると、その話題はだんだん忘れられていました。

ところが、実際にその1999年が近づく、そして、1999年になった時、もう一度、あのノストラダムスの大予言が話題になって、マスコミなどでも、興味本位に取り上げられていた気がします。

そんなのばかばかしいと思いながらも、おそらく、誰もの心の中に、ひょっとしたら本当かも、という思いがもたげていたのではないかと思います。

それは、1999年というのが、その名のとおり、世紀末であることもあるし、そして、現実の世界を見ると、地球温暖化、人口爆発、各地で起こるテロ、戦争、内乱、頻発する大地震などなど、ああ、ひょっとしたら、本当に地球が終わる日は近いのかも、とある意味、誰もが思うことかもしれません。

それは、1999年を過ぎた今も、変わらない面もありましょう。

すでにノストラダムスの大予言がうたった1999年は終わりましたが、21世紀を過ごす今、果たして、わたしたちの孫の代には、孫の孫の代には、今から100年ほどたったころには、この世界は、変わらず存続しているだろうか、といった、未来に対する漠然とした不安は、多くの人のこころの中に宿っていると言えるのではないでしょうか。

本日与えられましたマルコによる福音書13章のみことば、そこには、まさに、終わりの日を思わせるような表現が並んでおりました。

それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、/星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。
 

太陽が暗くなる。月が光を放たなくなる。星は空から落ちる。そして、天体は揺り動かされる、と。

今日も、天気が良いので、外に出れば、太陽の光が輝いていますが、その太陽が、光を失い、暗くなっていくと。

夜には、今ちょうど真ん丸お月さんが出ていますが、その月も光を放たなくなると。おどろおどろしい表現です。

でも、これに似た状態は、わたしたちは、実際にときどき味わいます。

昨年朝倉市など、九州の北部を豪雨が襲いました。

今も、困難な生活を強いられておられる方々がいらっしゃいます。

一日も早く、もとの生活、安心して暮らせる新しい生活を取り戻されるよう祈るばかりです。また、今後も、様々な形でできる支援は続けてまいりたいと思います。

あの時、どんな様子だったか。

朝倉市にあります甘木教会の方々にうかがいましたら、空が真っ暗になり始めたのだと。雨が降る時は、雨雲が覆いますが、こんなに真っ暗になるのは初めて見たとお聞きしました。そして、まるで天から槍が降ってくるような勢いで、雨が降ってきたのだと、そんなお話をうかがいました。

そのような経験したことのないような、自然の姿と接するときに、わたしたちは、どうにもならない不安な気持ちになります。

空が光を失う、夜でもないのに、真っ暗になって行く。

そんな状態を経験するとき、人は、言い知れぬ不安を覚え、何かが起こるのではないか、と思います。

そして、その何かというのは、おそらくあまりよくないものであろうと思います。

空が真っ暗になって、次の瞬間、とっても嬉しいことが起こる、というのではなく、何か良くないことが起こる、と考えると思います。だから不安が襲います。

世の終わりを迎える、地球が滅びる時を迎える、など、考えるとき、わたしたちはおそらく、そのことを嬉しいことではなく、悲しいこと、あってほしくないことと思っているだろうと思います。

それはその通りで、特に何事もなく、平穏に暮らしている人にしてみれば、それが奪われる時と考えるわけですから、それは、怖いもの、悲しいもの、と思います。

またそれだけでなく、そのような終わりを来たらせる大きな力、つまり神という存在を思い描きつつ、そこに裁きというものも思い浮かんでくると思います。

最後の審判という言葉があります。

それは、勝手気ままに生きて来た人類に対する神の裁き、それが意識される。

それまでは、宗教なんてばかばかしいと思っていた人であっても、人間の力ではどうにもならない天変地異が起こるときに、そこに言い知れぬ力、人間の思いを越えた力を見るのではないでしょうか。

太陽が暗くなり、月も、光を失う。天体が揺り動かされる。

おどろおどろしい表現をもって、イエスは語られました。

聞いていた人たちは、何やら得体のしれない恐ろしさを覚えたかもしれません。

また、今、ここで、こうして聖書の言葉を開いているわたしたちも、同様でありましょう。

でも、これは、いたずらにわたしたちをおどかしてやろうというためのものではありません。

これらの言葉を語りつつ、イエスはおっしゃいます。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。

崩れ去るものに、おどろおどろしい表現に、わたしたちの心は、奪われがちかもしれませんが、むしろ、何が起きても、変わらないもの、永遠なるものがここで力強く語られています。

すべてがなくなって、消えてしまって、無になっておしまい、ではありません。

残るものがあります。

それは、主イエスの言葉であると。

天地が滅びても、私の言葉は残る。

と言われる、主イエスの言葉とは何か。

それは信仰に導かれてこられた方々は、おわかりでしょう。

すでに洗礼をお受けになられた皆さん、いつもここでみ言葉を聴いておられる皆さん、皆さんの胸には、きっとひとつやふたつ、大好きな言葉があると思います。

それはイエスさまがくださった言葉です。

当時の弟子たちもイエスさまのお言葉をたくさん聞きました。

徴税人レビは、弟子入りするとき、医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。との言葉を聴きました。

その言葉、わたしたちにも届いています。

皆さんが神様に愛されているのは、よほど立派なことをしたから、ということではありません。

むしろ、欠け多く、間違いが多く、過ちも繰り返す、罪深い自分を、主が、憐れみ深い主が、愛してくださるから。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

その言葉は、たとえ、天地が滅びても、消えることはありません。

舟の上で嵐に遭い、恐れていた時、水を踏み越えて、イエスは来てくださいました。

恐れることはない。私だ、とおっしゃいました。

たとえ、天地が滅びても、その時、恐れることはない、私だとの言葉が聞こえます。それは消えることがありません。

どうしたら救われるのだろうか、と悩む弟子たちに、それは人にはできないが、神にはできる、神は何でもできるからだ、と言われました。

その救いの約束の言葉は、永遠に消えません。

あなたは救われます。全能の神がそれを成し遂げられます。

今年も来週から、アドベントに入ります。2018年前に、主がおいでになる時、どんな約束があったでしょうか。

恐れるな、わたしはいつもあなたと共にいる。との約束、インマヌエルの約束を掲げて、主はこの世においでくださいました。

その約束は、決して消えることがありません。

天地が滅びても、主のみ言葉は、変わりません。

終わりの日の言葉、それは、言い換えれば、この世にあるもの、形あるもの、それがたとえ、天であろうが、宇宙であろうが、いつかは滅びる日が来るという知らせのようです。

この世界にあるもの、すべてがいつかはなくなる。

形あるものは、いつか消える。消え去る。

でも、あなたへの愛、神様のあなたへの愛は決して消えない、だから恐れることはない。

その日には「天体が揺り動かされる」という表現もございました。天体までもが揺り動かされても、信仰に立つならば、わたしたちは決して揺り動かされることなく、しっかりと立ち続けることができます。

それが、イエスさまのメッセージでした。

あなたに届けたいと願われたメッセージでした。

今日までの日々、わたしたちは主に守られていました。

そして、今、主はあなたと共におられます。守られています。

そして、これからも、どんな時も、主はあなたと共におられます。

主は永遠ですから。

永遠なる主が、あなたと共におられます。

永遠に変わらぬ愛で、あなたを守られる主がいつもあなたの味方です。永遠にです。

新しい日々、主の平安が皆様の上に豊かにありますように。

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ヨハネによる福音書2章13-22節

28 10月

02:13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 02:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 02:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 02:17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 02:18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 02:19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 02:20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 02:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 02:22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

宗教改革主日(2018年10月28日 神水教会にて )
      「神の愛により」 ヨハネ福音2章13-22節
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。と言って、今日のヨハネ福音書のみことばは始まっております。

神殿で、イエスは人々の様子を見ておられました。神殿。今のわたしたちの教会と同じです。

今日、私たちは教会に来ている。その教会に来ているわたしたちを、イエスは見ておられる。
さて、イエスの目に、わたしたちはどんなふうに映っているでしょうか。

神殿にいる人たちを見ているイエス。
聖書には、同じような場面があります。それは、神殿の境内で、献金をしている人たちがいて、その人たちが献金をするさまをイエスが見ておられたという場面です。

その時、まず、金持ちたちが、たくさんの献金をしている姿がありました。
当時、神殿での献金というのは、大きなラッパのように、大きく口を開けた入れ物があって、そこに投げ入れるような様で献金がなされていたと言われます。
ラッパのような形をしていたせいか、入れるお金がたくさんであれば、大きな音が反響していたとも言われます。であれば、お金持ちがたくさんのお金を入れると、周りの人たちも、おお、あそこの人は、ずいぶんたくさん献金したな、と分かったことでしょう。
金持ちたちがたくさん献金する姿を、周りの人も、イエスも見ておられた。

一方、額が少なければ、目立つこともありません。実際、とても額の少ない人は、自分の献金を恥ずかしく思っていたことと思います。
今でも、そうです。人前でいくらのお金を出すか。あんまり堂々とできることではありません。そのような思いもあって、神水教会も、献金袋を用意して、いくらであれ、人には見られずに入れられるように、配慮するようにしています。

まして、当時のような、袋に入れて、入れるというのではなく、ラッパの大きな口の空いたところに投げ入れる。貧しい人たち、献金額の少ない人たちは、人目を避けて、こそっと献金を入れたことでしょう。

その日、ひとりのやもめは、最もちいさなコイン、レプトン銅貨を二つだけ入れました。
その様をも、イエスは見ておられました。
ただ、その時、イエスは、この女はここにいる人たちの中で、いちばん多く入れた。なぜなら、金持ちたちは、たくさん持っている中の一部を入れたが、この女は、自分の持っている全部を入れたのだから。と言って、彼女の献金を称賛されたのでした。

そのような御話が聖書に記されています。
神殿で、人々の姿をじっとご覧になっていたイエスを伝えています。

そして、今日の個所、イエスは、やはり、ご覧になっています。そこにいる人々を。
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。
その人々の姿、イエスの目に、どう映っていたのでしょうか。

それは、追い出さなければならないと映ったようです。
このままではいけない、いささか乱暴なことをしてでも、今、ここにある状況をひっくり返し、追い出さなければいけない、と思われました。

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。02:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 02:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

神殿境内に入る際は、たとえば棒のようなもの、武器になるようなものは持っていくことができませんでした。今のわたしたちでいえば、飛行機に乗るときに、搭乗前に、荷物や、身に着けているものをチェックするような感覚に似ているでしょうか。

イエスも、なにか暴れまわるための道具など持ち合わせておられません。それで、おそらく家畜などを縛っていた縄を鞭のようにして、振り回し、動物たちを追い出します。
その動物たちは、神殿で礼拝をする人たちが買って、犠牲を捧げるためのもの。また、礼拝者たちが、当時、献金するに際しては、ユダヤのお金を捧げることになっていたので、そのための両替商がありました。便宜上、必要なものであったと思われますが、イエスの目に、それらは、縄で鞭を作ってでも追い出したくなるものに見えたようです。

このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。
追い出しながら、おっしゃったイエスの言葉でした。

商売。商売というのは、物とお金が交換されることです。一方的にプレゼントしたりするのは、商売とは呼びません。お金を出して、それに見合ったものを受け取る。何らかの物を売って、お金を受け取る。それが商売です。

父の家では商売をしてはならない。
間もなく、バザーが行われますが、これは教会ではバザーをやってはいけませんよ、という教えではありません。イエスさまは、そんなことを言うために、命を懸けておられるのではありません。そのことは初めに申し上げておきます。バザーは、バザーで、教会らしく、楽しみましょう。

では、ここで何が言われているのか。
さきほど、牛や羊、それから両替商のようなもの、これらは、便宜上、必要なものであったとわたし、申し上げました。
遠くから何日もかけて、礼拝をするために、このエルサレム神殿にやってくる人たち、牛や羊を引き連れてくるのは大変です。
お金も、そこが、エルサレム神殿であり、献金は神様にお献げするものである以上、ローマ皇帝の顔が刻まれているお金では都合が悪いと考えていました。それでその場で両替をしていました。

私たちも便宜は図ります。どこでも。世の中を生きていくうえで、きっといろいろと上手にやっていくことを学びます。
それ自体は、何も悪いことはないでしょう。
教会の中でも、きっといろいろと便宜を図って事を進めます。

でも、それは行き過ぎると、神様を忘れることもあるかもしれません。上手にやれるのですから。

マニュアルという言葉があります。マニュという言葉は、すべて指先、手先のことを言います。爪に塗るのはマニュキアです。手工業のことを、マニュファクチャと言います。指先、手先。あまり労力を使わず、近道で行けるやり方がそこにあります。

繰り返しますが、それは、悪いことではありません。
ただ、それらは、いつの間にか、人のこころを失わせるかもしれません。便宜を図りすぎると、神様への祈りは必要ない世界が生まれてくるかもしれません。

レプトン銅貨二枚を入れたやもめ。便宜も何もありません。
赤ちゃんが泣いている。便宜などありません。
必死で祈る。そこにはマニュアルなどありません。
心からの叫びをあげる。その時、あっちこっちを見る暇などありません。ただ、父なる神様を仰ぎます。

ここは父の家である。どこを向いているのか。
ここは父の家である。父を見よ。
天の父を、まことの父なる神を仰ぎ、ひれ伏しなさい。

両替商、動物を売る人々の姿・・・イエスは、その日、これらを父の家から追い出されました。

今、わたしたちの中には何があるでしょうか。
ここは父の家。そこに集う私たちを主はご覧になっておられる。
わたしたちも、父なる神に、まっすぐに思いを向けたいものです。幼子のように。すべてを捧げたやもめのように。
もし余計なものが入っていたら、主はそのようなものは追い出せ。ここは父の家である。とおっしゃいます。

ここが父の家である以上、ここは商売をするところではありません。
すなわち、ここでは、何かと何かを引き換える必要はありません。

私たちはどんな間違いをして、この父の家で交換をしようとするのか。

今日は、宗教改革主日です。501年目を迎えた宗教改革主日。
御存じのように、その頃、教会で、贖宥状、または免罪符と呼ばれるものが売られていました。商売の家とされていました。
そのことにルターが異を唱え、いつの間にか、大きなうねりをもって広がって行ったのが宗教改革でした。

ルターは、ここは父の家ではないか、と叫びました。
父の家だから、私たちは、子供である。
子供は、特に、まだ小さな、小さな子供、赤ちゃんのような子供は、ただただ、親の愛に包まれて、守られて、生きる。

私たちは、神様の子供。ただ、ただ神の愛によって、神の恵みによって、神の慈しみによって、守られ、救われる。
それだけ。
救われるために、何を便宜を図る必要があろうか。
そのような気持ちがあるなら、主はきっと縄で鞭を作りそれを追い払われる。
ここは父の家だ、とおっしゃって。

ここは、何かと何かを交換する商売の家ではない。恵みの父、憐れみ深い父、あなたを愛する父の家である。その愛を、信じる場所です。

やもめは、持っていた全財産を捧げました。
それによって、何かを買おうということではありません。お献げしました。ただ、ただお献げしました。
神への愛を、神への祈りを、神への信頼を、神への祈りを。
ただただ献げしました。

その姿をおほめになったイエスさまは、その後、どうなさったでしょうか。
イエスさまご自身が、こんどは、御自身のすべてをお献げになりました。
いや、そもそもイエスさまは、神の身分でありながら、そのすべてをお献げになるために、おいでになられました。

あと一か月ちょっと経ちますと、今年もアドベントを迎えます。
天の父は、御子イエス・キリストを、わたしたちのもとに送ってくださいました。これをあげるから、代わりに、ちゃんとお金を払え、などとおっしゃいません。
神様は、私たちに御子を、救い主を、ただお与えになられました。あなたのために、イエスさまは、この地上に送られました。なぜ?あなたを愛しておられるから。それだけです。

その愛を今日、改めて感謝しましょう。この父の家に招かれていること、感謝しましょう。神様の永遠の愛を届ける、この父の家に、これからも多くの人が招かれてまいりますように、祈りたいと思います。
愛にいます主の平安、皆様の上に、豊かにありますように。

 

 

マルコによる福音書7章24~30節

9 9月

07:24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。 07:25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 07:26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。 07:27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 07:28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」 07:29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 07:30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

聖霊降臨後第十六主日(2018年9月9日 神水)
       「恵みを信じる」    マルコ福音7章24~30節
本日与えられましたマルコ福音書7章のみ言葉、それは、悪霊につかれた娘をいやしてほしいとイエスに願った一人の女性の話です。
 この聖書の個所を読む限り、無名の女性であります。ところが、のちの伝承などの中に、この女性の名前はユスタ、そして癒された娘はベルニカと記されたものがあります。おそらく、そんな話、初耳だと思われた方が多いでしょう。何十年も教会に通いながら、このシリア・フェニキアの女性の名前、さらに悪霊につかれていた娘さんの名前まで耳にする。初めてだ、と思われる方が多いでしょう。
 繰り返しますが、聖書に書かれているのではありません。だから、皆さん、知らなくて当たり前であります。ごくごく限られた資料に、そんな情報が出てくるだけです。

 でも、そのように名前が出てくるというのは、いかに、この話が愛されていたか、を物語っているのだと思います。人々の間で、この話があちこちで語り継がれていた、語り継がれるうちに、固有名詞をつけて、物語られていく。それほどに親しまれたのでしょう。

 あるいは、こういう見方もされます。どうして彼女たちの名前が書いてあるか。その理由は、彼女たち親子が、その後、教会の信徒になったからだと。ここでは無名の二人、でも、後にこの親子は皆さんと同じく教会の信徒になった。だから、ちゃんとユスタ、ベルニカという名前が残っている。そういうふうに推測するのも不可能ではありません。

 どのような理由であれ、この話が、教会において愛されてきたことは間違いないでしょう。この話の中に、教会に通う人々は、神と人間の関係を見届けてきたということであります。自分たちが歩んでいく日々、いろいろな場面、いろいろな状況の中で、この話を思い起こしてきたのでありましょう。

 私たちも、きょう、この話をしっかり聴き、そして、この話を通して届けられている福音を、信仰をもって受け止めたいと思います。

まず、この話の起こった舞台ですが、ティルスの地方とあります。それはよく聖書で学ぶガリラヤ地方ではありません。
 ティルスの地方。これはガリラヤ地方からすると、50キロくらい北西の方角へ行ったところ。熊本からすれば、大牟田あたりへ行くくらいでしょうか。

 ガリラヤ地方からティルスの地方へ。そこへ行かれた目的は、多くの群衆から離れて、誰にも気づかれないようにするためだったということであります。

 イエスは、多くの群衆の前で、神の国の話を聞かせてくださったり、いやしのみわざをしてくださることもありました。
 でも、一方で、人々から離れて、静かに祈る時も大事にしておられました。あるいは、おおぜいの群衆から離れていく時は、ただ弟子たちだけをお連れになって、弟子教育の場としておられたこともうかがえます。
 さらにいえば、休むことも大事にしておられました。弟子たちにも、人里離れたところで、休みなさいと言われることもありました。
 ここでは、どのケースだったのか、定かではありません。でも、この時、イエスは、ガリラヤ地方の群衆を離れて、ティルスという異国の人々の暮らす地方へ行かれました。

繰り返しますが、誰にも気づかれたくないと思っておられました。

 隠れていたかった。ところが、見つかってしまう。かくれんぼのような印象すら与えます。
神さまが隠れようとする。ところが、人間に見つかってしまう。
 逆を考えてしまうのが普通でしょう。私たちが神様から隠れる。神さまに顔向けできない。でも神様は、私たちのこと、全部お見通し。それが普通、考えることであります。

 ところが、ここでは逆です。神さまが隠れようとするけれども、人間に見つかってしまった、という話です。
 いや、もっといえば、隠れようとする神様を、何としてでも、見つけようとする。・・・そこに、すでに、この女性の熱い思い、強い祈りが現われているようです。

 この後の展開で、彼女は、願いを聴いてもらえない現実にぶち当たります。
 私たちもありますね。祈っても、何も変わらない。祈っても、神の沈黙を感じてしまう。そういうこと、いくらでも、経験します。
 まさに、神様が見えなくなる、と言えるような状態です。その中で、彼女は、神さまを引きずり出してきた、とでもいうような展開になっていきます。

彼女は、ギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれと紹介されます。要するに、この女性は、外国人ですよ、と伝えています。髪の毛の色も違ったのか、肌の色も違ったのか。そのくらいイメージしてよいかもしれません。
 その異国人の女性が、隠れようとしているイエスを見つける。そして、すぐさまやって来て、その足元にひれ伏しました。娘から悪霊を追い出してほしいと。

 悪霊に取りつかれているというのが、どんな状態なのか、今となってはわかりません。でも、とにかく、娘さんが、何かひどい状況なのでしょう。もう悪霊に取りつかれているとしか思えない、人間の力ではどうにもならない、と思える状態。
 そのような中で、イエスが来られたことを知る。彼女は、このお方なら、きっとお出来になると信じていました。

でも、それほど強い信仰をもって、熱い願いをもって祈ったにもかかわらず、イエスの答えは、ノーでした。イエスのお答えは、直すことができない、であります。
 それは不可能だ、ということではなく、思いがけない言葉でした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
これがイエスのお答えでした。

 子供というのはユダヤ人、外国人であるあなたがたは小犬。まず神のみわざは、子供のために、あるのだ。と。

ご存知のように、キリスト教は、いまや世界中に広まっているわけですが、それは、初め、現在のパレスチナ地方、あの一角で起こりました。
 今から、2018年前にお生まれになった神の子、イエス。このおかたは、その地域に、ひとりのユダヤ人としてお生まれになりました。
 その後、弟子たちのもとで宣教が繰り広げられていきます。特に使徒パウロのもと、次第に、民族を、国境を越えていきます。そして、2000年ほどたった今、世界で20億人とも言われるクリスチャンの数にまでなっております。

 でもその始まりは、あのパレスチナ地方の話。それが、神様の御計画。・・・どうしてあそこなの、どうしてそういう順番なの、と聞かれても、人間には答えられないでしょう。それは神様のお考え。神様の御計画。それしか言えません。

 イエスは、人の子としてお生まれになったイエスは、この父なる神の御計画に身をゆだねておられました。だから、外国人の女性に、「今は、子供にパンをあげる時」、つまり、順番から言うと、自分の役目から言うと、ユダヤ人たちのもとで神の業を行うとき、「申し訳ないけど、あなたたち外国人に何かするのは、まだこれから後なのだよ、今はその時ではないのだよ」とお答えになったわけです。

そう考えれば、まあ、仕方ないか、となるかもしれませんが、しかし、私は子供にパンを与える、小犬にはあげられない、と言われた言葉は、いささか心外だと思えます。皆さんなら、どうでしょうか。
 正直申し上げて、私がその場にいたら、ああ、そうですか、そういう言い方をするのなら、結構です、二度と頼みません、とへそを曲げるだろうと思います。

 さて、なぜへそを曲げるのでしょうか。
 自分は小犬なんかじゃない、と思っているからでしょう。
 「あの人たちは子供だけど、あなたは小犬だからね」と言われて、カチンとくるのは、「自分はそんなに劣っていません、ばかにしなさんな」という思いがあるからでしょう。

小犬。ここでいう小犬とは、言い換えれば、恵みに値しない存在です。
 はっきりそう言われております。子供にはあげるけれど、小犬のあなたにはあげられない、と。この恵みは、小犬のあなたにあげられないと。つまり、小犬とは、恵みを受けるに値しない存在だということ。

 それを聴いて、はい、その通りです、と本当は答えるべきでしょう。
 だって、私たちは、いつもここに来て、そう言っています。
 礼拝の初めに、「私たちは生まれながら罪深く、汚れに満ち、・・・」と。そんな私たちだから、続いて、キリエを、キリエ・エレイソンを歌います、「主よ、憐れんでください」と。

 「主よ、憐れんでください。」これは、もう何ものも頼るものなく、空っぽの自分、どうにもならない自分、ただ神様の憐れみに身をゆだねる祈りです。

 どうしてそう祈るかと言えば、私たちは本来、恵みを受けるに値しない者だからです。
 そのことを、頭では分かっています。

 でも、本当に、あなたは恵みに値しない者だよ、だから、本当にパンは上げられないよ、あなたは小犬だよ、、と言われると、カチンとくる。
 じゃ、いいですよ、もうあなたには頼みません、と言いたくなる。

 私たちが少しも、自分は救いに値しない、恵みに値しない、どうにもならない存在だということを、心の底から受け止めていないからでしょう。

彼女は、受け止めていました。
 だから、小犬にはあげられない、と言われた時、じゃあ、もういいです、あなたになんか頼みません、とへそを曲げず、はい、その通り、私は犬です。恵みに値しない存在、おっしゃる通りです。でも、まあ、子供のこぼすパン屑くらい、犬もいただくじゃありませんか、そういうパン屑で十分です、いただけませんか、と食い下がりました。

 その姿勢に、イエスは、そこまで言うなら、、よろしい。家に帰るがよい。もう娘さんは、治っていると。
 家に帰ってみると、本当に娘さんから、悪霊が出て行ってしまっていました。

この話は大切に語り継がれてきました。
 そのひとつは、彼女が自分など救いに値しないような者ということを、本当にへりくだって受け止めていたことでしょう。
 彼女は、イエスのもとに駆け寄って、その足元にひざまずきました。なかなかしないことです。いきなりひれ伏すって。ここに、彼女の姿勢が現われていました。

そのうえで、彼女は、神を信じていました。徹底的に信じていました。
 子供がテーブルでパンを食べる、それが恵みだというのなら、そのパンはきっと、こぼれ落ちると。神の恵みという名のパンは、どんなテーブルにも乗り切れない、それはこぼれ落ちてくると信じていました。それが、食卓の下の小犬も子供のパン屑はいただきます。という機知にとんだ言葉を生んだと言えましょう。

事実、神の恵みは、あふれて、あふれて、ついに天の屋根をうちやぶって、この世に降りてきました。私たちと同じ人の子となって、来てくださいました。
 そして、その恵みは、取るに足りない私のためにも注がれています。あなたにも。私にも。ただの土くれです。私たちは。

この8月、お葬式が続きました。私たちは皆、最後、火葬場で焼かれて、灰になります。小犬どころではありません。ただの土くれです。
 その私たちのために、神の御子が命をささげてくださいました。こんなわたしたちのことを、深く、深く、憐れんでくださいました。

 神の子でありながら、それこそ犬のように、粗末に扱われたのは、むしろ、このお方でした。その命を懸けた神のみわざによって、わたしたちは救われました。
 ここに神の愛、神の恵みがあります。

 この女性、ユスタと呼ばれるこの女性の姿を通して、今日そのことを覚えましょう。主の恵みを信じて行きましょう。

 神様の恵みは無限です。神の憐れみは深い、深いものです。
 あの日、彼女は、ひざまずきました。わたしたちも、きょう改めて、救いの十字架を、仰ぎましょう。

主の恵み、皆様の上に、豊かにありますように。

 

マルコによる福音書 6章45-52節

26 8月

06:45それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。 06:46群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。 06:47夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。 06:48ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。 06:49弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。 06:50皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。 06:51イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。 06:52パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。

2018年8月26日 聖霊降臨後第14主日

「荒波を踏み越えて」
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。
本日与えられたマルコ福音書6章の御言葉は、こんなくだりで始まっておりました。
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。

お話は読めばすぐにお分かりになると思いますが、湖の上を逆風のために漕ぎ悩む舟の上の弟子たち、その弟子たちのもとに、神の子イエスが、水の上を歩いておいでになったという出来事です。

その驚くべき話、信じるにしろ、信じないにしろ、この出来事に心は引っ張られそうになりますが、まず注目したいのは、この出来事に至る前、何があったかということ。それが、この段落の初めの一節です。
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。

主イエスは、この時、弟子たちを、強いて舟に乗せて、向こう岸に先に行かせておられます。
強いて舟に乗せ、ここは、弟子たちを無理やり舟に乗せ、と訳しているものもあります。

つべこべ言わせず、この時、イエスは弟子たちを、むりやり舟に乗せて、有無を言わせず、舟に乗せて、「さあ、向こう岸へ行け」とお命じなられました。

弟子たちの側からすれば、よく理由もわからないまま、よければ、一緒に行けたらよいのに、と思いつつ、自分たちだけで行けと言われる。
このあとは、どこでどうやって合流するのだろうか、きちんと約束をしたとも書かれていませんし、とにかく、「もういいから、今は舟に乗り込め」と強いられた感じであったように思います。

この弟子たちの置かれた状況は、私たちの置かれた状況です。
いつの状況かと言えば、それは、私たちがこの世に生まれてきたということです。

私たちは、有無を言わせず、この世に送り出されています。
よく準備をして、とか、話し合いの結果とか、よく説明を聞いてとか、そういうこと一切抜きにして、この世に送り出されております。

あの日、弟子たちが、強いて舟に乗せられて向こう岸へ行け、と言われたように、私たちは、やはり生まれてきます。理由もわからず、生きています。
人はなぜ生まれてくるのか、という哲学的な問いを、することもありますが、でもまずは、私たちは、有無をいうことも許されず、気が付けば、もう生きております。この世界で。

この世界のことを、この世の大海原という言い方をすることがあります。
あの日、弟子たちは、ガリラヤ湖に、言葉は悪いですが、放り出されました。無理やり、舟に乗せられて、向こう岸へ渡れ、と送り出されました。

私たちも、この世の大海原に、送り出されています。
そして、向こう岸へ進んでいます。日本語でも、彼岸と言います。向うの岸です。こっちの岸から、向こうの岸へ。彼岸へ。

それは、もっと生々しい言い方をすれば、私たちは、この世の大海原に送り出されて、とにかく向こう岸へ行くようになっている。つまり向こう岸は、死ぬことです。最後は、たどり着くのは、そこであります。

生きる意味はどこに、人は何のために生まれてくるのか、そんなことを考える前に、私たちは気がつけば、もう大海原の真ん中におります。

あの日、弟子たちを乗せた舟が、気が付けば、湖の真ん中にいたように。私たちも、いつも、生きているということは、この世の大海原の真ん中にいることであります。

その、大海原の真ん中にいる私たちは、孤独なのでありましょうか。
見捨てられた状態なのでしょうか。
そのように感じてしまうことがあります。

あの時の弟子たちも、舟の上で、たいへんな孤独、また不安、絶望に襲われました。逆風のために、漕ぎ悩んでいました。

ここで、漕ぎ悩んでいる、と訳されている言葉、ギリシア語でバサニゾーという単語が使われておりますが、このバサニゾーという単語は、拷問にかける、なんていう意味も持っております。

弟子たちは、逆風のゆえに、苦しんでいたのですが、それは、もう拷問にあっているような状態、また拷問にあっているような気持になっている、そういう苦しみでありました。

私たちは、この世の大海原を進みゆく時に、時として、拷問にあっているような思いをすることがある。そのことを、この話は、伝えているようです。

そして私たちは、そんな時、まさに、見捨てられた、と思うかもしれません。
このまま大いなる深淵に飲み込まれていってしまうと思うのかもしれません。

ところが、大海原の上にいる私たちを見ていてくださるまなざしがあります。
漕ぎ悩む弟子たち、湖上で苦しむ弟子たち、その弟子たちのことを、イエスは見ておられました。
無理やり行かせて、それであとは知らない、ではありません。
送り出したお方は、きちんと見ておられます。

そして見ておられただけでなく、降りてきて、そばに来てくださいました。
すなわち、あの時、イエスは、山を下りて、湖の上を歩いて、漕ぎ悩む弟子たちのもとへおいでになられました。

それはまるで、天から私たちのもとへ、降りて来られたイエスのお姿を象徴しているかのようです。
そして、それは、大昔の話ではなく、今も、あなたのもとへ、おいでになられるという、主の御姿なのです。

大海原を進む旅路。私たちもしております。
あなたも、私も、無理やり、この世界に送り込まれて、強いて舟に乗せられて、この世の大海原に送り出されて、私たちは、今まさに、その湖の真ん中におります。向こう岸へ進む旅。人生という旅。

いっぱい逆風が襲います。
送り出されて、しかも逆風にあって。生きるのは大変です。
何らかの困難を背負って、辛い思いをしておられる方もおられましょう。
なんで私だけがこんな目にというような、病とか、事故とか、不条理な何かとか、背負っておられる方々もおられましょう。
いろいろな逆風を受けながら、沈みそうな舟の上におられる方々もおられましょう。

でも、では、そうではなく、全く波風を受けず、逆風を受けず、平穏に進む舟はあるのでしょうか。
わたしはないと思います。
世の大海原を進む舟、そもそも強いて行かせられている、そもそもこの世で生きている、もうそれだけで、みんな大変です。

私たちは、おたがい、こうして生きているというだけで、本当によくやっているのです。
きょうおいでの皆さん、ひょっとしたら、特に誰かに褒められることもなく、生きておられる方も少なくないでしょう。
でも、今日、わたしは申し上げます。
強いて世に送り出され、進んでいるあなた、今までの日々を歩んできて、そして、今、ここにおられる皆さん、今日という日を、生きておられるあなた、本当にありがとうございます。

与えられた日々、突然この世に放り込まれて、その与えられた日々を、歩んでおられるあなたに祝福あれ、です。

と同時に、今日、私たちは、それだけではない、大いなる祝福をしっかり見つめたいと思います。

そのあなたを、大海原の真ん中にいるあなたを、しっかりと見ておられるお方がおられる。

あの日、イエスは、一人山の上に行かれました。
その山から見ておられたのですが、さて、何をしに山に行ったと書かれているでしょうか。祈るために行かれたとあります。

イエスさまは、祈っておられます。
ただぼやっとあなたを見ておられるのではなく、あなたのために祈っておられます。

そして、あなたがひとたび、本当に困難な時、逆風で苦しむとき、実は、振り向けば、そこに主はおられます。
あなたのすぐそばに主はおられます。
恐れるな、安心しなさい、私がここにいる、とおっしゃる主があなたのそばにおられます。

福音書の中で、イエスさまが死んだ者をよみがえらせてくださった話が三つあります。
ひとつは、会堂長ヤイロの娘が亡くなった時。
タリタ・クム、といって起こしてくださいました。その時、イエスさまは、周りの者たちに、恐れることはない、信じなさい、とおっしゃいました。

また、マルタとマリアの弟、ラザロが死んで葬られた時も、私を信じる者は死んでも生きる。これを信じるか、と信仰へと招かれました。

そして、ナインの町で、一人息子を失ったやもめと出会った時、深く憐れんで、もう泣かなくともよい、と言って深い慰めを与えられました。

今日の場面、舟の上で漕ぎ悩む弟子たち、それは、弟子たちにとっては拷問にあっているような苦しみであったかもしれません。
その弟子たちに、安心しなさい、私だ、恐れることはないとおっしゃいました。

たとえどんな逆風が吹いても、波が高ぶろうとも、舟が沈みそうになろうとも、恐れることはない、安心しなさい、信じなさい、私がここにいる、わたしはあなたのそばにいる、と言われるのです。

私たちに与えられた向こう岸への道、それは、実は、安心して進むことのできる道です。水の上を踏み越えて来られた主は、弟子たちの舟に乗り込まれました。あなたの舟にも、主はおられます。あなたは一人ではありません。

やがて私たちは向こう岸へ行きます。
その時も、そこに主はおられます。安心しなさい、私だ、恐れることはないと言いながら、私たちを御国へと導いてくださるこのお方が、そこにおられます。
心配いりません。

あなたを愛しておられる主は、いつもあなたのそばにおられます。そして、あなたのために祈っておられます。
安心しなさい、私だ、恐れることはない。
そう言われる主を信じて、この日々を生きていきたい。このように思います

マルコによる福音書3章20-30節

8 7月

03:20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。 03:21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。03:22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。 03:23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 03:24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 03:25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 03:26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 03:27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 03:28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。 03:29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 03:30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

2018年7月8日 聖霊降臨後第7主日 神水教会にて
「主が住まう家」

先週の日曜日、神水教会夕礼拝におきまして、西田さんが洗礼を受けられました。洗礼を受けることで、クリスチャンとなります。西田さんは、先週、クリスチャンになられました。それは同時に、教会の人になることでもあります。教会の会員、神水教会の会員です。あるいは、神の家族になるというのもたいへんふさわしい表現です。そのことは、すでに洗礼を受けて、クリスチャンとして生活しておられる皆様にとっては、とてもよく分かることではないでしょうか。
わたしはですから、これから洗礼を受けようとする方々に、「洗礼を受けたら、クリスチャンとなります。そして教会員となります。わかりやすく言えば、今までは、教会に来ても自分はお客さんという意識を持っていたかもしれない。でも、洗礼を受けたら、お客さんではなくて今度は、お客さんを迎える人、この教会の人になる、この神様の家の人になるのです」と、そういうふうにお伝えいたします。

先週、洗礼をお受けになった西田さんは、教会の外の人から教会の中の人になられました。それは、すでに洗礼を受けられた皆様、みんな同じであります。
そういう一人一人にとりましては、教会は、自分の帰るところと受け止めておられるでしょう。確かに、日曜日になると、「教会に行く」のですが、別の言い方をすれば、またこうして神様のもとに帰ってくる、と表現することもできます。なぜなら、ここは神の家であり、あなたの家だからです。洗礼を受けた方は、そのように受け止めながら、生きていくことができます。

さて、本日与えられましたマルコ福音書3章の御言葉、ここはまさに「家」がひとつのテーマでありました。そして、私たちひとりひとりが、さて、どこに立っているのか、どの家の中にいるのか、どの家の外にいるのか、そんなことがテーマとなっておりました。御一緒に振り返ってまいりたいと思います。

「イエスが家に帰られると、」と言って始まっております。
イエスが家に帰られる。これは、カファルナウムのシモン・ペトロの家と思われます。ガリラヤ湖のほとりで人々に神の国のお話をなさり、宣教活動をして、今、帰って来られたというところです。
ところが、家でゆっくりできるかと思いきや、その家に群衆が押し寄せてきてしまう。でも、イエスは嫌がることなく、この群衆にもまた、天の国について、お話をしてくださったり、あるいは、いやしのみわざもなさっておられたようです。
食事をする時間もないほどだったと書かれています。

このことは、ひとつ、私たちに届けられているメッセージです。
主なる神様は、どんな時でも、いつもあなたと共におられる、決して、「今はちょっとわたしは休んでいるから」なんてことはないというメッセージです。

主はいつも、あなたと共におられ、あなたに対して、いつでも命の言葉を語られ、またいつでも、あなたの祈りを聞いておられます。
あの日、ガリラヤ湖のほとりで、宣教をなさり、家に帰って来てからも、食事をする間もなく、ずっとひとりひとりと関わっておられた。その姿は今も、わたしたちひとりひとりに向けられている御姿であります。

旧約聖書の詩編121編、目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。という有名な歌です。あの詩篇は後半、何と歌っているか。
「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。/主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。/昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。」と続きます。
神は、「まどろむことなく、眠ることもない。」と。

ここ二、三週間、あちこちで、少し寝不足の方々がおられるようです。大学で講義をしておりましても、こっくりこっくり、船をこいでいる姿が普段より多いです。ワールドカップのサッカーを夜遅くまで見ているのかな、と思いますが。
でも、神様はそんなふうに、こっくりしない。「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」・・・
「まどろむことなく、眠ることもない。」と。「ああ、今、ちょっと眠っちゃった」なんてことは神様にはありません。いつも起きておられる。
何のためか。いつもあなたと共にいるためです。
いつもあなたの祈りをお聴きになるため。いつもあなたを守り、あなたを支え、あなたに必要な糧を与え、あなたを導かれるためです。

あの日、イエスは、大勢の群衆を、見放すことなく、食事をする暇もなく、関わっておられました。今も、変わらぬ御姿が、そこにありました。

さて、そのようにしてやって来た群衆の中に、このイエスの宣教活動を好ましく思わない、二種類の人たちがやってきます。
ひとつは、都エルサレムからやってきた律法学者たちがイエスのしておられることに、いちゃもんをつけます。
そして、もうひとつの集団は、イエスの身内のものでした。家族のもの、親類の者です。

この親類の者たち、身内の者たち、つまりイエスが幼いころから育ったナザレの村の人々です。小さいころから知っている人たちです。
この人たちは、イエスが「気が変になっている」といううわさを聞いて、連れ戻しに来ました。
ここで、「気が変になっている」という言葉は、ギリシア語でエクセステーという単語が使われていますが、これは興味深い言葉で、外に出る、という意味を持っております。

たとえば私たちはみんな、自分の物差しを持っています。本当に長さをはかる物差しではなくて、経験などから生まれた物差しです。はかりと言ってもよろしいでしょう。
その範囲内のことならば、私たちは何でも簡単に理解できます。納得できます。受け入れることができます。でも、自分の持っている物差しやはかりでは測りきれないものと出会った時に、戸惑います。

ちょうど、この数日、全国各地で大雨の被害がありました。被害にあわれた方々のことをまたご一緒に祈りたいと思いますし、必要な援助があれば、ご協力したいものです。
この数日の天気予報では、これまで経験したことのない、何十年に一度の、重大な危険の迫った異常事態と表現しておりました。もうこれまで私たちが持っているものさしでは測れないような自然の猛威がやってきそうだ、というニュースでした。

エクセステーという単語は、いわば、そういうことです。自分たちの持っている世界、自分たちの持っている物差しでは測ることのできないところへ飛び出している。
イエスがそうなったと。つまり、ナザレの村の人々にしてみれば、幼い時から知っているイエスが、突然、神の子として、宣教活動を始める。病気をいやす。神の国の話をする。どこへ行っても群衆が押し迫る。いわば、彼らの知っているイエスではなくなった。自分たちの持っている物差しや、はかりでは測れないところへ行ってしまった。それで連れ戻しに来た。この男は、ちょっとおかしくなったみたいだから、と言って。

一方、エルサレムからやって来た律法学者たちは、悪霊を追い出すなんてことをするイエスを見て、すごいことだ、と素直に感心することができず、どうせあいつは悪霊の親玉なんだ、と悪口を言って、イエスのなさるみわざをけなしました。

ナザレからやって来た人々と言い分は違いましたが、どちらも共通していたことは、イエスのなさる神の子としてのみわざを素直に受け入れることができなかったということであります。それは言い換えるならば、イエスを、神の子を、あるいは、神のみわざを、自分の物差しの中に入れようとしたためでした。
その結果、彼らは、神様の大いなる救い、人知でははかり知ることのできない、神の大いなる恵み、はかり知ることのできない神の愛を、受け入れることができませんでした。

神様のみわざは、私たちが測ることなどできません。
洗礼を受けることにためらいを抱く方がよく言われます。「わたしはまだよく分かりませんから。」「聖書のこともよく知らない。神様のこともよく分からない。」・・・そのような時、わたしは、「あなたが神様を知るのではなくて、神様があなたを知っておられるということを知るのですよ」と伝えます。

自分がいつか神様をまるで自分の掌に載せるように理解しようなって思ったら、永久に無理。だって、神様のほうが大きいのだから。測れないほど大きいのだから。どのくらい大きいかって、あなたを、罪深いあなたを、そのままでお救いになるくらい、大きい御方。
まどろむことなく、眠ることもないほど、全知全能である御方、何があってもあなたを離すことなく、見捨てることなく、あなたを愛し、あなたを守られるお方。

私たちにできることは、そのはかり知ることのできない神様に、この身をゆだねること。それが信じるということ。そうして、信じる時、そうして神の愛を受け入れる時、あちら側から、こちら側に来ることになります。神様の大いなる愛という家の中に入ることになります。救われた者が住む喜びの家の住人となります。
「この家においで」と主は言われる。この神の家に。神の救いのみ腕の中に。

洗礼を受けようかどうか、迷っておられる方は、どうか、自分の小さな殻の中に閉じこもらず、はかり知ることのできない大きな神様の愛を信じてください。主はあなたを待っておられます。・・・イエスさまの愛の中に住む。おいで、と導かれています。

と同時に、今日のみ言葉を読みますと、イエスさま御自身が、「あなたの中にわたしは住む」とも言われます。
今日の個所の後半で、家に押し入り、略奪する、なんて乱暴な表現がありました。
これは何を意味しているか。
疑いや、悲しみや、恨み、孤独、あるいは、いつまでも過去の出来事にとらわれているあなた。そのあなたの中に入って行って、そこにあるものを追い出して、私がそこに住もう。あなたをわたしのものにしよう。だってあなたはわたしの大切な宝だから、私の愛する友だから。あなたを見捨てたくないから。
あなたの中に、いま闇があるなら、私が入って行ってそれを追い出し、あなたの中に、光をともそう。私はそれをするために、やって来たのだ、と。

主はあなたのうちに住まわれる。あなたと共におられる。
イエスさまは、今から2018年前、天からこの世界に降りて来られました。何のために。あなたの中に住まうために、です。あなたの人生に寄り添い、歩まれるためです。あなたを、まどろむことなく、眠ることもなく、見守るためです。
きのうも、今日も、これからも主はあなたと共におられます。

そして、このお方と共に歩む場所、このお方がいつも語りかけ、惜しむことなく恵みと祝福をくださる場所、それはここです。教会です。いつも帰って来ましょう。主はここにおられます。いつもあなたが帰ってくるのを待っておられます。

そして、私たちは知ります。いつかわたしたちがこの世の生涯を走り終えたとき、その時、私たちは帰っていきます。主の大いなるみ救いの中へ。神様のみ腕の中へ。主と共に住まう御国へ。愛する兄弟姉妹と共に安らう、まことの御国へ。
その時まで、この地上において、天にある者たちと共にここで讃美しましょう。主に従い、主を仰ぎ、主を信じて歩みましょう。
皆様の上に、上よりの平安がいつまでも豊かにありますように。

マルコによる福音書2章1-12節

3 6月

02:01数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 02:02大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 02:03四人の男が中風の人を運んで来た。 02:04しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 02:05イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 02:06ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。02:07「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 02:08イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。 02:09中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。 02:10人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 02:11「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」 02:12その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

 

2018年6月3日 聖霊降臨後第2主日 神水教会にて

「恵みにより」 
昨日より、水道町のびぷれす会館で熊日生涯学習プラザの聖書を読むシリーズが始まりました。
この講座は、神水教会の先代の髙倉牧師の頃から始められております。
私自身が関わるようになりまして、もう7年目になります。多くの人に支えられながら、よく続いているなと思い感謝しております。

教会だけでなく、いろいろな場所で、神のみことばの種がまかれています。種がまかれるために、いろいろな場所に出向いていくチャンスが与えられている恵みを思います。

きょうは説教題を「恵みにより」といたしましたが、この熊本の町というのは、ほんとうに神様の恵みによって導かれている町、神様の恵みを共に味わいつつ、歩むことのできる町だと思います。これからも多くの人たちと力を合わせ、祈りを合わせつつ、宣教の業に励んでまいりたいと願うものです。

みことばの種。実は、今日与えられたマルコ福音書2章も、み言葉が語られていた場面でした。
そして、み言葉を求める人たちが集まっていた場面でした。
このように書かれています。
02:01数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 02:02大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、 02:03四人の男が中風の人を運んで来た。

今日の個所には、大いなる奇跡の出来事について教えています。中風の人、四人の男たちが、力を合わせて運ばないと、一人では動くこともできない一人の人が、自分の寝ていた布団を担いで、さっさと歩いて行けるようになるという出来事が紹介されています。

ビックリするような出来事が印象に残ります。
また、ある人は、この話を読むときに、「その人自身の信仰によって」ではなく、「その人たちの信仰によって」、つまり、ここでは、布団ごと担いできて、屋根に穴をあけて釣り降ろして、イエスのもとに中風の人を運んだ人たち、「その人たちの信仰を見て、」中風の人に、「あなたの罪は赦される」と宣言された。このことが注目されることもあります。

そうかと思えば、イエスに与えられた天の権威、赦しの権威というところに、関心をもって読まれることもあります。

どんな角度から見ても、たいへん魅力のある物語と言えましょう。

その中で、忘れてならないもうひとつのことが、その日、集まった人々は、何を求めていたのか、といえば、みことばを求めていた、ということであります。

いやしを求めていた、奇跡を求めていた、というのではなく、み言葉を、命の言葉を、求めて、それを聞きたいと願って、集まっていました。
そしてイエスご自身、喜んで、み言葉を語っておられました。

そのような中で、奇跡が起こりました。
中風の人が、自分では体を動かすことのできなかった人が、立ち上がる、歩き出す、という出来事が起こりました。

ところが、注意して読みますと、このお話は、驚くべき奇跡と共に、それ以外のことを伝えようとしています。
いや、それどころか、この中風の男の体がいやされたことは、まあ二次的なこと、ここでは、もっと大きなことが起こっていますよ、と告げております。

それは何か。すばり。罪の赦しということが起こっています。こちらのほうが比べようもないほど、すごいことだからであります。

体の病気、もちろんそれも、軽い問題ではありません。重い病を患っておられる方々、また、その人を大切に思われるご家族の方々、病気を背負って、歩み続ける日々は、人には言えない苦しみ、悩みを抱えておられることでありましょう。
でも、軽いものであれば、体の病気は治せます。治せる可能性があります。
もちろん昔から、現代の先端医療をもってしても、今だ不治の病と呼ばれるものもあります。
でも、体の病気は、あくまで、体の病気です。

しかし、ひとりひとりが抱えている罪の問題、これは、生きている間も、死んでも、負う問題と言えましょう。というのは、大きな罪、取り返しのつかないような、何らかの罪を犯してしまった人は、その罪を抱えて生きていきます。そして、その罪のゆえに、たとえば、自分は、天国には行けないだろう、地獄に行くのではないだろうか、なんてことも考えることがありましょう。

なぜなら、罪は、この世で人に対して、行うものですが、同時に、それは、根本的には、神に対してなされるからです。

たとえ話ですが、放蕩息子の話というのがあります。放蕩息子は、父からもらった財産をすっかり使い果たし、今度は、食べるものにも困り始めた時、悔い改めて、こう言います。「わたしは天に対しても、お父さんに対しても、罪を犯しました」と。
尊い財産をあっという間に、遊びのために、全部使い果たしてしまいました。やりたい放題やって、尊い財産を一瞬で使い果たしてしまいました。

また、家の暮らしなど、退屈だと言わんばかり、飛び出して、好き放題暮らしました。
それは、自分を今日まで育ててくれたお父さんに対して、申し訳なかったということではありますが、彼は、その時、むしろ、「天に対して、そしてお父さんに対して、わたしは罪を犯した」と述懐します。

何か罪を犯し、本当にその罪を見つめる時、それは、ただ、被害者の方に申し訳ない、というだけでなく、実は、天に対しても、つまり天の父なる神に対しても、罪を犯していることになります。

別のところでは、漁師だったシモン。彼は、イエスが舟に乗り込んできて、「ここに網を打ちなさい」と言われて、その言葉に従って、網を降ろしてみたら、おびただしい数の魚がかかってきた。その出来事を見たとき、シモンは、すぐに言いました。

「たくさん魚を取ってくれて、ありがとう」ではありません。
「あなたはすごい御方ですね、神の子と信じます」でもありません。
「これからは、あなたを信じて、歩んでまいります」でもありません。
網にいっぱいの魚を見た時、ペトロは、「どうか離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。

目の前にいるお方は、ただの人ではない。これは神の子だ、神の子が、降りて来られたのだ、とわかりました。
そうしたら、何かが思い出されたのかもしれません。
「私はあなたのみまえに罪深い者です」と。

人間は、神様の前に立つとき、そこで認識するのは罪です。滅びや裁きへと向かわせる、罪の問題。これはお医者様にも治せません。
体の病はいやされても、わたしの罪はどうなるのか、わたしは救われるのか、わたしは地獄ではないか、と考えられる。

これこそが、人間にとっての、、根源的な問いと言えましょう。

今日の個所、イエスは、確かに、中風の人をいやされ、立ち上がらせられました。
すごいわざであります。

でも、今日の場面、大きなカギを握っているのは、罪の赦しです。

そもそも屋根から釣り降ろされたその男に向かって、イエスがおっしゃったことば。

「子よ、あなたの罪は赦される。」
「あなたの体よ、よくなれ」、」「健康な毎日になりますように」ではありませんでした。
「子よ、あなたの罪は赦される。」でした。

その宣言が、どれほど大きな力になるでしょうか。

それはこの中風の人に限りません。わたしたちみんなです。
わたしたちにとって、何が大いなることか。それは、わたしたちがゆるされるのか、天国へ行けるのか、救われるのか、ということ。
そういうわたしたちに、「あなたの罪は赦される、いいや、もうゆるされた、心配いらない」と。そういう天の約束をもらう。

そもそも、あの家にやってきた人々は、その日、み言葉を求めてきました。
そのみ言葉は、具体的に何を語っていたのか。ここでは、何も書かれていません、でも、わたしは確信をもって言えます。
イエスは、救いについて、神の愛について、ゆるしについて語っておられたと。

それは今日、ここで皆様にも届けられています。
皆様もみことばを求めて来られたことでしょう。
それは何の言葉か。永遠父なる神様の御心。永遠です。永遠をわたしたちはこの御方のもとで、探し求めていくのだなと思います。

取るに足らない私に、永遠の命が与えられる。
なにゆえに。
ただ神の恵みにより。わたしたちの正しさ、わたしたちの誠実さなどによって、救われるのではありません。そうではなく、ただあなたを愛するがゆえに、神の愛が、神の恵みが、あなたを滅びから救いだしてくださるのです。

きょうの個所には、中風の人が登場していました。何もできない人です。なんと象徴的でしょうか。わたしたちの姿です。自分で、自分のことを、主のもとに連れて行くこともできない、自分で自分のことをどうすることもできない。あとはただ、神におゆだねする。神に求める。わたしたちの姿なのです、これは。

すると、主がおっしゃいます。「子よ、」と。
中風の男に、イエスは、第一声、「子よ、」と言いました。こうして、すぐさま家族とされます。大切な子として、受け入れられます。「子よ、あなたの罪は赦される。」

この尊い、天の声、きょう御一緒に聴きました。
なぜ、聴いたのか。神の言葉だから。命の言葉だから。その言葉によって、わたしたちは救われるから。わたしたちを救うためにこそ、み言葉が語られています。

あなたは罪赦されます。救われます。神の恵みによって。
神の祝福が、皆様の上に豊かにありますように。

ヨハネによる福音書3章1-12節

27 5月

03:01さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。 03:02ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」 03:03イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 03:04ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」 03:05イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 03:06肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。 03:07『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 03:08風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 03:09するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。 03:10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。 03:11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。 03:12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

 

2018年5月27日 三位一体主日  説教「新たに生まれる」神水教会にて

 

本日与えられたヨハネによる福音書3章の御言葉、そこにニコデモという人物が登場しています。彼は、ファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員と書いてあります。
当時、ユダヤの人々は、ローマ帝国に支配されながら、自治的な動きも持っており、国民の中から、国民を代表する最高議会を組織していました。サンヘドリンなどと呼ばれます。そこには、71人の議員がおり、ひとりが議長、もうひとりが副議長、のこりの69人が議員でした。
この最高議会で宗教的、社会的な大事な事柄は話し合われ、議決されていきます。のちに、イエスを十字架刑に処していくのも、もちろんこの議会の決定によります。ユダヤの人々にとっては、逆らうことなどできない強い権力、権威をもった組織です。

その議員の一人、しかも宗教的にも広く認められているファリサイ派に属する人物、それがニコデモでした。

このニコデモについて、聖書を読んでいきますと、あと二回登場します。
どちらも同じヨハネによる福音書なのですが、7章のところで、ユダヤの指導者層の人々が、どうやってイエスをつかまえようか、といった議論がなされている時、ニコデモは口をはさんで、ちゃんと事情を確認したり、いろいろ調べないで判決を下すのは間違っているのではないか、と言ってイエス逮捕に向かう人々の流れを、食い止めようとします。

そして、ニコデモが登場する、もうひとつの場面は、とうとうイエスが十字架上で殺されてしまった後です。
十字架にかけられ殺されたイエスの遺体を、だれがどうするか、というとき、アリマタヤ出身のヨセフという人が現れる。彼も、人目を気にして公に「イエスを信じている」と今までは言えなかった一人。でも、ついに死を遂げたイエスのご遺体を、自分が引き取って、ちゃんとお墓に葬りたいと願い出た人物です。
そのアリマタヤのヨセフが遺体を十字架から引き下ろした時、ニコデモもやってきます。彼は、遺体を丁重に扱うために没薬や香りのよい油などを持って来ます。そしてアリマタヤのヨセフと一緒に、イエスのご遺体を墓に運び、そこで、御遺体に油や没薬を塗って、体を清めて、さらに亜麻布で包んで、葬りをするのでした。

そのような場面を学ぶと、このニコデモという人物は、心からイエスを慕っていた、一目置いていたということをうかがい知ることができます。

でも彼は、その気持ちを、ストレートに、みんなの前で表現することはできませんでした。立場的なことがあったからです。最高議会のひとりとして、ファリサイ派に属する一人として、突然、ガリラヤのナザレという田舎からでてきたイエスという男、自分たちが教えることはあっても、この突然田舎から現れた大工の息子から、教えを乞う、またその人物をひとかどの者として認める、ということははばかられたようです。
それは、現代でも同じようなことがあちこちで起こります。特に、日本においては、クリスチャンであることを、堂々とみんなに言えずにいる人、たくさんいらっしゃいます。

今日も、九州ルーテル学院大学の学生さんがたくさんお見えです。前にこんなことがありました。きょうは聖餐式がないのですが、その一人の女子学生さんは、聖餐式の行われている礼拝に来ておられました。教会の皆さんはもうよくおわかりですが、わたしは、洗礼を受けている人たちには、「キリストのからだ」「キリストの血」と言って、パンとぶどうジュースを配ります。そして、洗礼を受けておられない方々には、ひとりひとり手を置いて祝福の祈りをしています。
だから、学生の皆さんには手を置いて祝福をしています。

ところが、その女子学生さんは、あとになって、わたしにこんなことを書いてよこしたのです。「私はほんとうはクリスチャンです。ふだんは別の教会に行っています。でも、そのことを友達に言えなくて、まわりの友達と同じように、祝福を受けていました。心が痛みました。」と。

ひょっとしたら、お友達の中には、「わたしはキリスト教なんて嫌い」「宗教は怪しい」なんて言う人もいたかもしれない。そして、そういうお友達の言う言葉に合わせていたかもしれない。そんな場面すら、想像してしまいました。

自分が教会に通っているということ、何も気にせず周りに言っている人もおられますが、しかし、自分が洗礼を受けたこと、家族にすら内緒にしておられる方も決して少なくない。それが日本の現状ですね。

あの一人の女子学生さんが、「心が痛みました」と書いてよこしたように、いろいろな場面で、わたしはクリスチャンです、といえずにいる自分を責めておられる方々、それはまるで、鶏が鳴く前に三度も、わたしはあの人のことなど知りません、と否認したペトロのような気持ちと言えましょう。そういう気持をもって生きている人が、特に、日本では少なくないだろうとわたしはおもいます。

ニコデモも、立場上は社会的なエリートの一人。周りから、先生、先生と慕われ、尊敬を受けている一人。宗教的にはユダヤ教の中のファリサイ派と呼ばれる厳格な一派の一人。そして、最高議会の議員の一人。最高議会の者たちは、イエスの存在をうとましく思い始めている。逮捕、処刑へと向かい始めている。ファリサイ派をはじめ、ユダヤの教えに生きる人々も同じように進み始めている。
その中にあって、ニコデモは、いいや、わたしは、あのイエスという人物を、神の子だと思うよ、私たちのほうが間違っているかもしれない、などとは言えないのが現状でした。

今日の場面、夜であったとあります。
ニコデモは、ある夜、イエスを訪ねました。昼間は行けなかったのです。
人の目がありますから。夜、だれにも気づかれないようにイエスのもとへ行きました。

そうまでして訪ねた、イエスを。
どうしても行って、直接聞きたいことがあったからです。そのことを聞かなければ、彼は、安心していられなかったのです。

彼が聞きたかったことは何か。一言で言えば、どうやったら救われるか、でありました。
あるいは、どうやったら神の国に行けるか、です。

きょうのヨハネ福音書3章を読むと、そのような質問は書かれていません。ニコデモは言った。イエスさま、どうやったら私は救われますか、なんてどこにも書かれていません。でも、ニコデモの問いはそこでした。それはこの文章を読めばわかってきます。

何を読めばわかるかと言えば、ニコデモと出会って、ニコデモに発せられたイエスのことばを読むと、わかります。
イエスは、夜に訪ねてきたニコデモの心の中にあることをご存知でした。そして、その心の中にある思いに答えておられます。
その第一声は、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」であります。

何気なく読み過ごしてしまいそうですが、ここは、イエスは答えて言われた、とあります。答えて言われるのですから、通常は、その前に質問があります。質問があって、それに答えて言われるのですが、その前に、ニコデモは、何も質問などしていません。
「イエスさま、わたしはあなたが神のもとから来られた方と知っています」というような挨拶をしただけです。それをお聴きになって、イエスは、答えられたとある。

つまり、イエスは、ニコデモの中にある思いを、しっかり受け止めてお答えになっておられる。
実際、ニコデモの心の中にあった思いが、ここで次々とあらわになります。

特に、この言葉を聞いて、ニコデモが言った言葉、「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。」というところ。
この言葉から、ニコデモはそれなりに年齢を重ねた人であったことがわかります。
実際、最高議会のメンバーは長老たちでありましたから、ニコデモも、長く生きて来た、齢を重ねてきた一人です。そのニコデモの思いは、つまり、もう間もなく死というものを意識しながら、自分は救われるのか、という思いでした。

ファリサイ派の中で生きてきて、厳しい戒律を守りながら生きてきて、さて、自分は救われるのか、という疑問は解けない。とけないどころか、その思いはますます強くなる。

そのニコデモに、イエスは「新たに生まれるのだ」とおっしゃる。
それは、お母さんのおなかにもう一度入ることではない。
では、新たに生まれる、とは、何か。何歳になっても、どんな状態からでもできる、新たに生まれること、それは、神様を信じること、それだけです。

その際、神様を信じるというのは、幽霊を信じるとか、UFOを信じるというものではありません。そうではなく、神の愛を、神の恵みを、神の救いを、信じるということ。
私たち人間の愛などというのは、もろくて、よわくて、また自分勝手であったり、することがあります。それが私たちのありのままです。
でも、神は、神様だから、その愛も、私たちの思いを超えて大きい。深い。

私たちはその愛によって救われる。自分の正しさとか、自分の頑張りでではなく、ただこんなわたしをも、わが子よ、わが宝よ、目に入れてもいたくないほどいとおしいわが子よ、と言ってくださる神様の愛、これを信じる。
そのことは、年齢に関係ありません。どんな状態からでも始められます。

ニコデモよ、心から神を信じよ、と、イエスは、あの夜、ニコデモに語りかけ、また招かれたと言ってよろしいでしょう。

今日のニコデモとイエスの会話。よく読んでおりますと、おやと思えるところがもうひとつあります。
それは、11節。
「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証しているのに、あなたがたはわたしたちの証を受け入れない。」
二人の会話なのに、突然、イエスは、わたしたちと言われる。またあなたがたと言われる。
まあ、ニコデモに向かって、あなたがたと言われるのは、おそらくファリサイ派の人々であるとか、最高議会のメンバーであるとか、指導者層を中心とする、かたくなに伝統を守ろうとする人々全般を指すのかな、と考えられます。

でも、イエスが言われるわたしたちとは。
新しく生まれ変わった私たち、神を信じるわたしたち、水と霊によって生まれた私たち、すなわち、洗礼を受けて、歩んでいる私たちのことと受け取ることができます。
知っていることを語っている、見たことを証ししている、そして、天上のことを知って、信じて、語っているわたしたち。それはまさにわたしたち、主を信じて集う皆さんのことです。主に生かされ、新たな命に生かされ、歩んでいる私たちなのです。

ニコデモ、お前も、私たちと一緒に救いの喜びを味わおうと主は招かれました。その招きを受け、ニコデモは後に教会の群れに加わって行ったと言われます。私達もまた大切な方々にこの主の招きが届いて、新しい命に生かされる喜びに生かされるよう祈りましょう。

 

マルコによる福音書16章9-18節

8 4月

16:09〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。 16:10マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。 16:11しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
16:12その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。 16:13この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
16:14その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 16:15それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。 16:16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。 16:17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 16:18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 

復活後第一主日(2018年4月8日 神水教会にて)
「信じなさい」
捕らえられて十字架にかけられてしまう前の夜、主イエスは、数人の弟子たちと一緒にゲツセマネという場所におられました。
その時、イエスは必死で祈り続けられました。そのかたわらで、弟子たちは眠り続けています。イエスは弟子たちに何度も、「起きなさい」「起きて祈りなさい」とおっしゃいます。しかし弟子たちは、睡魔にかなわず眠り続けていました。

それは、すでに夜遅い時間ですし、弟子たちにしてみれば、もう眠くて眠くて睡魔に勝つことができず、というのは仕方なかったのではないか、と私には思えます。

朝になって、なかなか起きて来ない人に向かって、「いい加減に起きなさい」という話ではありません。夜なのです。しかも夕食も終えた。一日の疲れもある。
眠るのは当たり前です。

でもイエスはあの時、「起きなさい」「起きなさい」とおっしゃいました。
そして、イエスは捕らえられ、裁きを受け、十字架につけられていきます。

弟子たちにしてみれば、その後逃げ出してしまいましたから、イエスから受けた最後の言葉のひとつが、この「起きなさい」であったかもしれません。
数々のみ教えをいただいてきた弟子たち、そのなかで最後に残っているイエスからのお言葉は「起きなさい」「起きて祈りなさい」、これが最後の言葉として残っている可能性があります。

その言葉だけが残っている弟子たち、彼らはまだ復活した主イエスにお会いしていません。復活したことを知りません。どんな思いで過ごしていたのでしょう。
最後に過ごした時間は、ただ主イエスが祈っておられて、自分たちは「起きなさい」「起きなさい」と言われながら眠っていた。それが最後となって、イエスは捕えられ殺されてしまった。
弟子たちはどんな気持ちでいたでしょうか。

本日与えられたマルコによる福音書16章のみ言葉、そこにご復活なさったイエスの話が記されておりました。
弟子たちとどのような出会いがあったのか、弟子たちにしてみれば、あの時、眠り続けて、きちんと向かい合うこともできなかったイエスとどのような再会となったのか。
御一緒に振り返ってまいりたいと思います。

復活したイエスは、まずひとりの女性のもとに御姿を現します。
マグダラのマリアと呼ばれる女性でした。

先週のイースターの礼拝で、イエスのご遺体が葬られている墓に香料をもって、向った女性たちがいたことを学びました。あの女性たちの中に、このマグダラのマリアの名前は確かに書かれていました。

さて、このマグダラのマリアについて、ここでは短い説明が付けられています。
それは、彼女は「以前に七つの悪霊をイエスに追い出していただいた女性である」ということであります。
七つの悪霊というのがいったい何なのか、今となっては知りようもありません。が、何か、大きな力、しかもよくない力に縛られていたことは確かでしょう。

私たちにとっては、何が自分を縛り付ける力となるでしょうか。
ある人にとっては、病気や障がいかもしれません。
ある人にとっては、家族や、人間関係かも知れません。
ある人にとっては、世間体のようなものが自分を縛り付けるかもしれないし、ある人にとっては、財産の問題、お金というものが自分自身を縛り付けるというか、いつも気にかかる問題になるかもしれません。

いずれにせよ、さまざまな事柄が心配事となって、自分の心を不安にさせる。自分の心の中に居座り続ける。そのためにずっともやもやしている。すっきりしない。
そんなこともありましょう。

もしも、そのようなものから解放されたら、ずっと心の中にもやもやし続けていたもの、自分自身がとらわれ続けていたものが、ある時なくなったら、すっきりすることでしょう。

マグダラのマリアのことを縛り続けていた七つの悪霊というものが何かは具体的にはわかりません。
でも少なくとも、それは、彼女を縛り付けていたもの、彼女を苦しめていたものに違いありません。それを追い出して解き放ってくれたのがイエスでした。

そのような経験、そのような出会いを与えられていたマグダラのマリア、イエスはご復活なさると、まずこの女性にご自身を現わされました。

マグダラのマリアは、お慕いしていた恩師、恩師という言葉では十分言い尽くせないほどの思いを抱いているお方、神の御子イエス・キリストが、死んだと思っていたこのお方が、今、自分の目の前に現れて、再び解き放たれた思いではなかったでしょうか。

主と慕っていたお方、神の御子と信じていたお方が無残な姿で葬られ、それこそ彼女の心は、せっかく七つの悪霊を追い出してもらってすっきりした彼女の心は、今度は、悲しみと、絶望とで、再び捕らえられてしまっていたことでしょう。
イエスは、その彼女にまず現れる。再び彼女の心を解き放つために。
七つの悪霊にも勝るとも劣らないほど、人間を陥れてしまう悲しみ、絶望。今度は、これを追い払われる。「私は生きているよ。」と。「わたしはここにいるよ」と。

再び解き放たれる出会いを与えられた彼女は、そのことを弟子たちに伝えに行きます。「イエスさまは生きていらっしゃいますよ」と。「わたしはこの目で見たのですよ」と伝えに行きます。
ところが、彼らはこれを信じませんでした。

今、私は、彼女は弟子たちにこれを伝えに行った、と申し上げましたが、マルコによる福音書の文言をもう一度、よく見ますと、そうは書かれていません。

マグダラのマリアは「弟子たちに伝えに行った」とは書かれていません。何と書かれていたかと言いますと、「イエスと一緒にいた人々」とあります。

イエスと一緒にいた人々。イエスと一緒にいた人々とは、弟子たちのことです。
でも、弟子たちと書かずに、イエスと一緒にいた人々と書きました。
そして、続きも見てみると、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、とあります。

ここは、いくつかの翻訳を読み比べますと、たとえばこうあります。
「かつてはイエスと一緒にいて、今は泣き悲しんでいる人々」とあります。

あの時はこう、そして今はこう、と過去と現在の状態を分けて訳しているのです。それはとても分かりやすいものと思います。

弟子たちは、どんな人々か。
かつてはイエスと一緒にいた人々。一緒にいたから、たくさんの教えもいただき、たくさんの恵みもいただき、幸いな日々を過ごしていた。
しかし今は、ただただ泣き悲しんでいる。
かつてはイエスと一緒にいたけれども、今は泣き悲しんでいる。
この個所は弟子たちのことをそのように表現しています。

悲しみ、絶望から解放されたマグダラのマリアは、かつてはイエスと一緒にいて、満たされた日々を過ごしながら、今は絶望に沈んでいる弟子たちのもとに行きました。
「イエスさまは生きておられますよ、ご復活なさったのですよ」と伝えに。

でも、彼らは信じませんでした。悲しみから、絶望から、嘆きから、解放されませんでした。マグダラのマリアのように解き放たれませんでした。

彼らには七つの悪霊など取りついていません。でも、彼らは信じることができないまま、悲しみに捕らえられている。あの御方は生きておられる、ということを受け入れられない、いわば、かたくなという状態に捕らわれています。

さて、その後、イエスは今度はある二人の者が田舎へ行く途中、別の姿で現れたとあります。
聖書をよく知っておられる方は、ああ、これはエマオの物語だな、と思い起こされることでしょう。ルカ福音書にあるエマオ物語。
夕暮れの道を二人の弟子が歩いていたら、もう一人が歩き始める。二人の目は遮られていて、それがイエスだとはわからないまま歩いていく、というあのエマオ物語。
ここに書かれている二人の者が田舎へ歩いていく途中、イエスは、別の姿で御自身を現わされたというのは、まさにその話と考えてよろしいでしょう。

この二人も、弟子たちのもとへ行って報告しましたが、弟子たちは信じませんでした。

そして、ついにイエスは弟子たちのもとにおいでになります。そして、彼らをお叱りになりました。信じなかったからです。
弟子たちを捕えていたのは、不信仰と、かたくなな心とあります。
主イエスは、弟子たちについて、不信仰と、かたくなな心をおとがめになった、とあります。

弟子たちを捕えていたのは七つの悪霊ではありません。百の悪霊でもありません。いっそそのほうが良いのかもしれません。
でも、彼らを虜にして、彼らの心を沈ませているのは、悪霊ではなく、不信仰です。かたくなな心です。

この不信仰に捕らわれていた弟子たちに向かって、イエスはおっしゃいました。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

信じるならば、悪霊を追い出すことができる、と。
悪霊とは何か。心をかたくなにさせるあらゆる力でしょう。
主を信じるならば、あらゆるかたくな、あらゆる思い患いから解き放たれる。
悲しみ、思い悩み、絶望、憎しみ、恨み、無気力、いろいろなものが押し寄せてきます。最後には、死の悲しみ、絶望も襲ってまいります。
でも、復活の主は、いつもあなたと共におられる、このお方は生きておられる、と信じるなら、新しい力を得る。

また、蛇を手でつかむなんて言葉までありました。
蛇と言えば、エバとアダムの話が思い起こされます。
人間を神から引き離そうとする誘惑するもの、その蛇に捕らえられず、その蛇をむしろ、つかむ。この手におさめる。そのことを可能にするのが、主の復活を信じること、復活の主がいつも共におられることを信じること。

弟子たちは、イエスはかつて一緒におられた、と思っていました。今はもうおられない、と思っていました。そうしたら、悲しみが、絶望が彼らを捕らえました。不信仰と、かたくなな心が彼らをがんじがらめにしました。

そこから解き放たれる道は、どこにあるのか。信じることです。それだけです。

イエスが、十字架につけられる前、ゲツセマネで言われた言葉、「起きなさい、起きなさい」、それは、「あなたの信じる心よ、起きなさい」ではなかったでしょうか。
眠っていたのは、体ではなく、信じる心が眠っていたのではないでしょうか。

不信仰に捕らわれていた時、彼らの中で眠っていたのは信仰でした。
信仰が眠っている。
そこに、イエスさまの御声、必死な叫びが聞こえました。「起きなさい。起きなさい。」

信仰が呼び起こされた時、弟子たちは立ち上がりました。
もう何ものにも捕らえられず、解き放たれて、歩み始めます。蛇をもつかむ者となって。

イエスさまは生きておられます。かつて一緒におられたのではありません。
イエスさまは生きておられます。今、あなたと一緒におられます。
「恐れるな。私は、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
そうお約束なさったとおり、復活なさった主は、今、おられます。
あなたと共におられます。

イエスさまはご復活なさいました。
死より起き上がられました。墓から起き上がられました。

あなたはどうか。疑いの中に眠っていないか。悲しみの中に眠っていないか。かたくなな思いに沈み込んでいないか。
起きなさい、起きなさい。信じて歩むものになりなさい。・・・復活の主のみ声が聞こえます。
イエスさまは復活なさいました。あなたと共に歩み、あなたを救うために、イエスさまは復活なさいました。信じて歩く、喜びと、感謝の日々へと御一緒に進んでいきたい、このように思います。

ヨハネによる福音書12章36節b~50節

18 3月

イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。 12:37このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。 12:38預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」 12:39彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。 12:40「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」 12:41イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 12:42とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。 12:43彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。 12:44イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 12:45わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。 12:46わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 12:47わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。 12:48わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。 12:49なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。 12:50父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

2018年3月18日 四旬節第五主日  神水教会にて

「闇を照らす光」 
本日は、ヨハネによる福音書12章の36節以下のところを与えられました。
新共同訳聖書で開きますと、二つの段落に分かれております。
そして、この二つの段落の出だしを見ますと、興味深いことに気づかされます。

まず36節には、「イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。」とあります。
大勢の群衆と語り合うのは終わっています。今日の個所より前のところを読みますと、受け入れる、受け入れないは別にして、いろいろな人々の前でイエスは語っておられます。
でも、それを終えられたようです。

今日の個所、出だしを見ると、そういった不特定多数の群衆の前から立ち去って、身を隠されたことが書かれています。
実際、このあと続きの13章以下を読みますと、舞台は最後の晩餐と呼ばれるところになり、登場人物は、イエスと弟子たちだけになります。

今日、私たちに与えられた個所は、イエスが群衆のもとから立ち去り、身を隠された、と言って始まります。

さて、二つ目の段落。何と書いてあるか。
イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。

語られた言葉はなお続きますが、ここの出だし、「イエスは叫んで、こう言われた。」とあります。
今、イエスは群衆のもとを立ち去り、身を隠されました。おそらくもう目の前にいるのは12人のお弟子たちだけでしょう。
いや、読みようによっては、その弟子たちのこともきちんと書かれていませんから、立ち去って、身を隠されたために、今、イエスはまったくおひとりになられたと読むことも、可能かもしれません。

12人の弟子だけと御一緒か、それとも、まったく誰もいないか。そんな状況の中で、なぜ叫ばれたのでしょうか。

たとえば、わたしがこの神水教会の礼拝堂で、マイクなしに、会堂のいちばん後ろにいらっしゃる方にも聞こえるように何かを言わなければならないとしたら、それはかなり大きな声で叫ばないといけないでしょう。
あるいは、外に出て慈愛園のグランドに出て、やはり拡声器もなしでグランドに集まった人々に何かを伝えようとしたら、やっぱり叫ばないといけません。
思い起こされるのは、熊本地震の発生した時、慈愛園の子供たち、職員の皆様、そして、牧師館にいるわたしたち家族、そして、あの時いらっしゃったボーマン先生家族、グランドに出てきました。家の中にいるのは危険と思いましたから。皆様の多くもそうであったことと思います。

夜中に、突然の出来事で外に出て、ここに住んでいる私たちは慈愛園のグランドに集まりました。子供から大人までみんな出てきました。もちろんそのような中、マイクなどありませんから、何か伝えようとしたら、大きな声で叫ばなければなりませんでした。
叫ぶというのはそういうことでしょう。

今、群衆のもとから立ち去って身を隠されたイエス。
お弟子たちだけはそばにいたか、あるいはお弟子たちすらもいなかったか。
とすれば、イエスはなぜ叫ばれたのでしょう。誰に向かって叫んでおられるのでしょう。

ずばり、イエスは、あなたに向かって叫んでおられます。
今日の場面は、イエスは群衆から身を隠して、ただあなたのもとにやって来ておられます。そして、あなたに向かって、叫んでおられます。

必死です。何とかして、聴いてもらわないといけないこと、伝えずにおれないこと、それを、必死になって、神の御子が、天からおいでになった神の御子が、あなたに向かって、叫んでおられます。
どうか、よくお聴きください。

イエスは叫んで、こう言われました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

いささか抽象的に聞こえて、わかりにくいとお感じになると思います。でも、イエスはとにかく叫んでおられます。聞いてほしいから。

この叫んで語られた言葉を記すにあたって、ヨハネは群衆について書きました。
何を書いたかといえば、群衆はイエスのことを信じなかったということを、であります。

多くの人々は、イエスを信じませんでした。今の日本だけではありません。
多くの人は信じませんでした。このお方が、神の御子であると、信じませんでした。

このお方によって救われるということを、信じませんでした。
自分が羊で、このお方が羊飼いであるということ、自分が葡萄の枝で、このお方が葡萄の木であること信じませんでした。

神水教会の納骨堂には「我は復活なり、命なり」と刻まれています。
でも、多くの人は、私たちがこうして生きているのは、このお方の中で生かされているということ、つまりこのお方が、私たちの内に、私たちがこのお方のうちに、生きているということを、信じませんでした。

そういう大勢の人のもとから離れてきて、今イエスはあなたのもとに来られました。そして叫んでおられます。
「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」

父の命令は永遠の命である、とあります。
驚くべき言葉です。天の父なる神様がお命じになったことは、永遠の命なのだと。
父が、永遠の命について語ってきなさい、とか、永遠の命を見せてきなさい、とか、言われたというのではありません。
永遠の命を命ぜられた。永遠の命を与えてくるように命ぜられた。

永遠の命を与えることが、父なる神様の御命令。御心。
それは別の言い方をすれば、神様御自身を捧げることです。
永遠の命を与えるということは、神様御自身を捧げること。
誰に。あなたに、です。

だれが、それを信じられようか、とイザヤ書は歌いました。
そして、信じない群衆のもとをイエスはこの時、離れました。いや、正確に言うと、信じられない群衆が、イエスのもとを離れていったのでしょう。

そして、イエスはあなたのもとに来られる。そして、叫ばれる。わたしはあなたに永遠の命を与える。それが父なる神の御命令だから、と。

ご存知のように、神水教会では、ここのところ、会員の方々の訃報が続いております。毎週のように、週報に、どなたかの訃報が紹介されております。
別れは悲しいことです。特に、大切な方を失う、きのうまで一緒にこの地上で生きていた人が、今日はもういない、そこにいない、というのは、辛いです。言い知れない寂しさが襲います。

でも、わたしたちは、ただ真っ暗なお葬式をしているのかといいますと、そうではなく、希望を持って、涙は流しつつ、しかし、顔を挙げて、主を仰ぎ、命の主を仰ぎ、また会う日を信じて、逝きし者をお送りしております。

お墓の中は暗いです。
私たちはふだん、お墓の中、納骨堂の中で暮らしてはいません。
でも、いつか、召される時を迎えたならば、私たちは皆、お墓の中に入ります。
それは闇の中です。
もしも、もしも、そこに、命の御方がおられないならば、それはただの闇であります。

でも、神水教会の納骨堂に、書かれています。「我は復活なり、命なり」と。
わたしたちは闇が覆う墓の中に消えていくのではありません。
その闇を照らす命の光であるこのお方のもとで、生きるのです。
死にません。生きます。永遠に、です。

今日この後、聖餐式を行います。
聖餐式の時、いつもの祝福の言葉、覚えておられるでしょうか。
「わたしたちの主イエス・キリストの体とその尊い血とは、信仰によって、あなた方を強め、守り、永遠の命に至らせてくださいます。アーメン」と。

あの小さなパンと、ぶどうジュース。それが、あなたを強め、守り、永遠の命に至らせると。なぜなら、あれはただのパン、ただの葡萄ではなく、わたしたちのためにその身を献げてくださったイエスさまのお体であり、御血であるから。その命が、わたしたちの中に生きるから。

あなたは、これを信じるか。それとも、あなたも、イエスから離れて、闇の中に行くか。
闇のほうに行ってはならない。光のもとに来なさい。命のもとに来なさい。と主は叫んでおられます。あなたを愛しておられるから。
イエスさまはあなたを照らす命の光、永遠の光。このお方のもとで、わたしたちは永遠に生きます。世の闇を照らす、この永遠の光の中で、光の子らしく歩んでいきたい、このように思います。

 

テサロニケの信徒への手紙一5章16~22節

4 2月

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。

2018年2月4日 神水教会総会礼拝 「神の家族として」

2月を迎え間もなく3月。教会の掲示板に、この春、新しく誕生する牧師たちの門出を祝う神学校の夕べ、あるいは教職授任按手式のポスターが貼られています。今年も3名の新しい牧師たちが誕生します。神水教会では、先週の日曜日、ちょうど中島神学生がここに来て司式、説教をしてくれました。
現在、牧師の数が減少気味であることは、皆様もよくご承知のことと思います。その中で、こうして新たな息吹が吹き込まれることは嬉しいことであります。

さて、わたしたち牧師になる時、こんな言い方をされることがあります。それは「神と会衆によって立てられる」という言い方です。
牧師になるというのは、もちろん基本的には神様の選びである、と。それに異議を唱える人は少なくとも教会の中にはいないでしょう。何よりこれは、神様御自身の召しであると言えます。

では、人間の出る余地はないのか、と言いますと、そんなことはなくて、実際にこの世において、一人の人を育て、養い、教育し、そしてその人がその働きにふさわしいのかどうかを吟味します。
具体的には、たとえば最終的には牧師の試験があります。また、その途中、途中にも、いろいろな形でその人を教育し、また道を整えていく助けがあります。

基本は神の選びであります。しかし同時に、教会に集められた一人一人によって選ばれるのもまた事実です。どちらも大事です。
だから牧師は「神と会衆によって立てられる」と表現します。

今年も、神と会衆によって、ルーテル教会に3名の牧師が立てられます。良き伝道者としてのお働きがなされるよう祈るばかりです。

さて教会では毎年、今年の主題聖句というものを決めます。
そして、神水教会では礼拝の初めのところ、オルガニストの前奏を聞き終えたところで、いつもその主題聖句をご一緒に読んでおります。
2018年の主題聖句は、テサロニケの信徒への手紙一5章16節から18節。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。」であります。

この言葉、誰が選んだのでしょう。役員会の議事録をお読みいただければわかりますが、昨年の11月の役員会で決定しております。
裏話をいたしますと、わたしは毎年だいたい三つ用意します。こういう思いでこの聖句、また、こういう角度のことにも力を入れていきたいからこの聖句、と。二つか三つ選んで、役員さんたちに話し合っていただき、最終的には多数決となります。その中で、今回はテサロニケの信徒への手紙一5章に決まりました。
そう考えれば、これは、もともと牧師である私が考え、そして役員会の皆さんが協議して、決定したものとなります。

しかし同時に、御言葉は常に神様から与えられるものであります。
わたしは、自分ではじめに選んでいる立場ですが、確信しています。御言葉はいつも神様がお与えになっておられると。
2018年を歩むうえで、神水教会がこの新しい年を歩んでいくうえで、最も必要な御言葉、最もふさわしい御言葉、どんな時も心に留めてほしい御言葉、それはこれだ、とわたしたちの父なる神はこの御言葉をわたしたちにお与えになりました。
感謝したいと思います。

さて、主題聖句として掲げ、いつも礼拝の初めに読むときは、その出だしの所だけを読んでおります。
今日、この総会の礼拝におきましてはその段落を全部読みました。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
あなたの愛唱聖句はどれですか、と尋ねられて、この御言葉を真っ先に思い起こされる方も少なくないでしょう。おうちの壁などに、掛け軸などに刻まれたこの文字を毎日目にしているという方もおられるのではないでしょうか。

しかし、よく愛され、よく知られているとはいえ、じゅうぶんそれを実行できているか、といえば、こんなに難しく、厳しい教えもほかにはないといっても過言ではないでしょう。

ただその際、わたしたちが「喜ぶ」ということ、「祈る」ということ、「感謝する」ということについて、これを、自分自身の強い精神力を磨いて成し遂げる、と考えると、少しずれが生じてくるように思います。

聖書はわたしたちに、今よりもっと高い精神性を持った人になれ、といった教えを勧めているわけではありません。
もちろん、主に生かされることにより、結果的に、私は以前より落ち着いていますとか、祈るとやっぱり心が静まります、とかそれはあるでしょう。

でも、後に続く文章を読みますと、そこに大切なことがあります。
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。

私は、この聖句を主題として掲げる時、少しばかり悩みました。それは、この一文まで加えるかどうか、ということです。
本当は入れたほうが内容的にはいいと思いました。
でも、主題として掲げて、ここにsさんの書いてくださる立派な習字で書いていただいて、パッと目で見てわかるのには、コンパクトなほうが良いだろう、そう判断して最後の一文ははずしました。

でも、文章としては、もともとパウロがこれをしたためた時には、「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と書きました。

簡単に言えば、「いつも喜んでいなさい。」というのはなぜか、といえば、それは神様がそうお望みだから、ということです。ほかに理由はありません。

わたしたちは、おそらくこのテサロニケの信徒への手紙一5章の御言葉を愛して、好んで、読みます。そして、生き方の指標のように掲げることもあります。
その時わたしたちは、自分の生き方として、こんないつもくよくよせず、喜ぶ人でありたい、という願いをもって、この御言葉をとらえているかもしれません。
でも、「いつも喜んでいなさい。」というのは、わたしたちの願望ではありません。神様の願望なのです。あなたが、何があっても前を向いて歩いていく、というのは、あなたの望みではなく、神様の望みなのです。

またこうも言えましょう。
「いつも喜んでいなさい。」と主がおっしゃるのは、どんな状況になったとしても、わたしはあなたに永遠の喜びを与える、という神様の約束の言葉でもあるということです。

皆様もよくご存じのマルティン・ルターの逸話があります。
宗教改革の旗を上げたのですが、その結果、彼は破門され、命を狙われ、お先真っ暗。さすがのルターも意気消沈していました。
するとある時、妻カタリーナが喪服を着てやってくる。ルターは「いったい誰が亡くなったのだ」と尋ねると、カタリーナは「神様が亡くなりました」と答える。「神様が亡くなった、なんて、なにをおかしなことを言うのだ」とルターが尋ねると、彼女は「あなたがそれほど落ち込んでいるから、てっきり神様が死んだと思いました。もし、神が生きていらっしゃるなら、絶望はないのではないですか」と答える。
これを聞いて、ルターは改めて、神ともにいます、という信仰を奮い立たせられて、雄々しく突き進んでいく勇気を与えられていきます。

状況は変わっていないのです。でも、主が共におられる、ということを忘れているわたしたちがいるのです。神は変わりません。神の愛は変わりません。でも、それをしっかりと仰ぐことを忘れるわたしたちがいるのです。

「いつも喜んでいなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

さらにこう続きます。
「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

ひとつひとつお話しすると、時間が無くなりますので、最後の一文のみ、今日は触れておきます。
「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」

悪いことから遠ざかる。・・・簡単なようで、簡単ではありません。いつも喜んでいる、絶えず祈る、と同じで、いつも正しいことを考える、いつも悪いことを避ける、絶えず、善行をし続ける、というのはありえないことです。

悪いものから遠ざかりなさい。
これと似ている祈りを、わたしたちはいつも捧げています。主の祈りです。
「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。」

悪より遠ざかる、ということもまた、自力で頑張る、ということも、もちろん努力はすべきですが、しかし根本はそうではありません。
罪深く、弱いわたしたちですから、いつも悪から遠ざかるどころか、いつも罪の中に落ちている、と言ったほうが正確でありましょう。

だからイエスさまは、我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。と祈るよう教えられました。
それは、自分の弱さを知る祈りです。主の助けがないと、生きていけない自分であることを知る祈りです。

教会は何の群れか。神の家族。神様の子供。それを存分に味わう群れです。

そしてそのことは、わたしたちが、わたしたち自身の弱さ、神の助けなくしては、神の恵みなくしては倒れてしまう者ということを知っている群れということでもありましょう。

先週、神水教会ではUさんのお葬式が行われ、また1月の初めに御召天されたAさんの記念会が、昨日ここで行われました。
葬儀ですから、確かに参列者は喪服を着て集まりますが、しかし教会の葬儀は、悲しみ、絶望の闇の中に沈んでいくものではありません。
今、ここにどうにもならない悲しみがあっても、寂しさがあっても、それでも我らが主は救いの神、死んでも共にいる、恐れるな、安心せよ、と言ってくださる御方。
このお方のもとで光をいただきつつ、涙を流しつつ、顔を上にあげる力をいただきます。

もし、このお方の恵みを知らなかったら、先週はただの悲しみに暮れる一週間で終わりでした。
でも光や希望が見えるのです。まるで、雲の隙間から太陽の光が少しずつ差し込んでくるかのように、ここが教会であり、ここが神の家族であり、ここが神の恵みを味わう場所であればこそ、わたしたちは見えざるものを見ることができます。

そしてそれは、自分がそれを見て満足、ああ、よかった、というものではありません。わたしたちは神様の子、神様の家族なのですから、その光を隣人に届けることができます。いや、それこそ、神がイエス・キリストにおいて望んでおられることです。
教会の皆様が、御遺族の方々にお声をかけては、慰めの言葉をかけておられるその姿勢を幾度も目にしました。これぞ神の家族です。まさに神が望んでおられる姿がありました。

神の望みはどこでかなえられるか。ここでかなえられます。
この神水教会で、神の御心は現れ、神の光が輝き、愛の業は行われていきます。

そのために、わたしたちは召し集められました。感謝しましょう。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことも感謝しなさい。
ああ、ここに来ると、それがよくわかる・・・神水教会はそういう群れです。
新しい一年も、神様の恵みが豊かに降り注がれますように。