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マタイによる福音書20章1~16節

15 10月

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

聖霊降臨後第19主日(2017年10月15日 神水教会にて)

「あなたにも支払ってやりたい」

本日与えられましたマタイによる福音書20章には、イエスのなさったたとえ話が記されておりました。

たとえ話です。現実に起こった話ではありません。目に見ることのできない天の国を、何かにたとえようとなさったら、このような話になったのだということです。

一人の主人がいた。彼はぶどう園を持っていた。そのぶどう園で働く労働者を求めて、広場へ行く。夜明けに、9時に、12時に、3時に、そして5時に。足しげく主人は、広場に行って、労働者を雇った。そして、彼ら皆に給料を一デナリオンずつ支払った。そうしたら、朝早くから働いた者たちが「夕方からの者も同じなんて不公平だ」と文句を言った。けれども、主人は「私は皆に支払ってやりたいのだ」と答えたという話。

いま、私はこの話を短くまとめましたが、そんな事をしなくても、おそらく、皆さま、この話は一度読めば、その内容といいますか、あるいはこの場面の様子が浮かんでこられることと思います。そんなにややこしい話ではないと思います。とにかく人を雇って、給料を払ったというだけの話ですから。

でも、話の筋はわかったとしても、話を聞いて、納得できるかと言われれば、どうも、首をひねりたくなると思われる方も多いでしょう。

どうして、こんなひねくれた話をするのだ、と思われる方も少なくないと思うのです。

朝早くから働いた人と、夕方からちょっとだけ働いた人がいて、同じ給料をもらいました。ああ、そうですか、と簡単に素通りできない話です。

実は、ユダヤ教のある文献には、これとよく似た話が紹介されているそうです。そこでは、いちばん最後に来た人は、とっても有能な人であって、わずかな時間であったけれども、てきぱきと素晴らしい仕事をやってのけ、朝早くから働いた人と同じくらい貢献した。それで同じ金額を手にしたのだ、と説明されています。

これなら納得いきます。首をひねる必要はありません。

実際、今でも、時間給ではなく能力給で支払われるという職場は、いくらでもあります。夜明けから働いたか、何時間働いたか、というのは問題ではなく、どれだけいい仕事をしたか、主人を満足させたか、そこが問題だったのだと言われれば、おそらく誰も文句を言えないでしょう。

イエスも、そういうふうに話をしてくださったら、聖書ももう少し納得しやすいものになっていたかも知れません。

けれども、イエスが天の国についてお語りになろうとすると、そのような納得いく話にはできなかったようです。どうもひとひねり生まれてしまったようです。

それは、力点を置く場所が違っていたと言ってもよろしいかと思います。

何でもそうですが、どこに力点を置くのか、何を大事にするのか、それによって物事は右にも左にも行くものです。

たとえば、ここでは仕事の話です。雇う側と雇われる側です。何を大事にするのか。

ある人は、仕事の能力をいちばんに考えるでしょう。

でもある人は、仕事をするからには、自分がやりがいをもってできるかどうかに力点を置くでしょう。

そうかと思えば、ある人は、いちばんたくさんお給料をもらえるかどうかを真っ先に考えるでしょう。

そんなふうに、同じ事柄を扱うにしても、わたしたちは、どこに力点を置くのかで、物事の意味が変わってくる、価値が変わってくるということがあります。

今日の話の登場人物たちにしてもそうです。

分かりやすいのは、夜明けから働いていた人たち。この人たちの力点は、働いた分だけきちんと見合ったものを渡してほしい、ということです。夕方五時から働いた者と、朝早くから来て働いた自分たちとを同じ扱いをするな、きちんと働きに応じてふさわしいものを支払ってくれ、とこういう姿勢です。

さきほどのユダヤ教の文献と同じように、それはわたしたちにとってわかりやすい話です。おそらくわたしたちも皆、同様でしょう。同様だからこそ、わたしたちは、この話を聞いた時、えっ、ちょっと待ってよ、と思うのです。割に合わない話だと思うのです。なんでこんな人の神経を逆なでするような話をするのか、と思ってしまうのです。

一方、この主人はどこに力点を置いていたのでしょうか。

さきほどのユダヤ教の話と比べますと、この主人は、労働の能力などについてはあまり関心がないようです。働いた時間、その貢献度、そういったものにはまったく目を向けていません。

それから、この主人は、いくらのお金を払うかということについての計算のようなもの、そこにも関心がないようです。つまり、普通こうやって人を雇う側の立場であれば、計算をします。予算を立てます。

私も今、九州教区の宗教改革500年行事の実行委員長を仰せつかっております。こういうものを進める時には、当然ながら予算というものを立てます。収入はどこからどのくらい入ってくる、だから、支出はこのくらいと。なんでもかんでもやりたいと思っても、予算の範囲内で考えます。

こういうめでたい時だから、九州教区の皆さんの食事代、ホテル代、新幹線代、全部こっちで持ちましょう、なんて思ったって、そんなお金に余裕はありませんので、できるわけありません。

500年を記念して、ひとつ一億円くらいのモニュメントを作ろう、と思ったって、そんなことできはしません。まあ、やりませんけど。

今日の話の主人を見ていると、そのへん無頓着です。細かい計算のもとで動いているとは思えません。

だから、主人は人数も気にしていません。通常、こうやって人を雇う場合、何人くらいの労働者が必要であるということをきっと考えます。

でもこの主人は、何人に来てもらおうかということ、初めからまったく考えていないようです。だから、無計画にというか、次々に、さあ、君もおいで、君もおいで、と呼んでおります。

では、この主人は、何に関心があるのか。どこに力点を置いているのか。

この主人は、どうも、広場に残っている人に関心があるようです。

つまり、仕事にあぶれて、行き場がなく、絶望を抱えつつ、広場に取り残されている人、そういう人たちに関心を持っているようです。

この主人は、あぶれた人を見たくない愛情の深い人なのです。みんなを自分のぶどう園に連れてきたいのです。

それから、この主人は、自分の利益をあげることには関心がないようです。通常、人を雇う側、つまり経営者の側ならば、利益を上げることを考えます。でも、この主人は、利益を上げることではなく、一デナリオンずつ与えることに関心があります。

ありがたい主人です。愛の主人です。神さまのお姿です。

これは、間違いなく天の国のたとえです。

いろいろな人たちが、広場で、この主人と出会いました。

夜明けから、朝一番で、この主人と出会った人たちがいました。彼らは最終的に、支払いのことで文句を言っておりましたが、本当はとても幸せな立場です。朝が来るとともに、仕事が見つかったのです。一デナリオンもらえるという約束までいただきました。

一デナリオンだけでなく、彼らは、これで今日は大丈夫、という安心をもらいました。これが大きいですね。

9時から働いた人は、9時になって初めてその安心をいただきました。ということは、言葉を変えれば、夜明け頃の時はあぶれたのです。ああ、今日は、仕事につけなかった、どうやって食べようか。明日はどうなるのかな、なんて不安な時間を過ごしました。

12時の人、3時の人、さらに5時の人、もう今日は仕事がない、給料がない、生きる保証がない、そういう不安を抱く時間が、それぞれありました。

そうやって待っている間、彼らは何が欲しかったのでしょうか。何に力点を置いていたでしょうか。

五時ごろに行って、雇ってもらった人々のせりふが印象的でした。

主人から、「なぜ、ここに立っているのか。」と尋ねられると、彼らは「だれも雇ってくれないのです。」と言います。

だれも雇ってくれないのです。

「食べ物がないのです。」「お金がないのです。」とは言いません。

「雇ってくれる人がいない。」と。

彼らは、雇ってくれる人、別の言い方をすれば、自分の主人がいない。主人を得られないまま、五時まで来てしまいました。

能力とか、貢献度とか、そういうことではなく、そこにあなたがいるだけで、それでいい、と言って、自分を受け止めてくれるような主人と出会いたかった。そのような愛を求めている。そこに力点を置いています。

だから、彼らは、「雇ってくれる人がいないのです。」と言います。

主人は、そんな迷子になっているような人、取り残された人を見たくないのです。一人残らず、自分の畑に招きたいのです。

もうお分かりと思います。この主人が神さまです。そして、この主人の深い愛によって、わたしたち一人一人が愛されていること、それが天の国なのです。

わたしたちは、この主人によって、招かれ、「さあ、おいで、今が五時だからと言って遠慮するな、さあ、おいで」と招かれています。

あなたに何の能力があろうが、何だろうが、関係ない。わたしは、ただ、あなたを招きたい、あなたをそばに置いておきたい、あなたを守りたい、あなたを救いたい。

あなたが誰にも認められず、雇ってくれる人がいないのです、なんて姿を見たくないのだ、と主なる神は言われます。

今日の話、最後、夜明けから働いていた人たちが文句を言います。「朝早くから働いていたわたしたちと、あの五時からの者を同じ扱いにするのか」と言って。その気持ち、わかります。きっと誰もが分かります。

さて、主人は何と答えたでしょう。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。」

主人は、自分のしたいようにしては、いけないか。と言いました。

したいことをする。・・・さて、この主人は、何をしたのでしょうか。

この主人は、皆さんを救いたい。それがいちばんしたいこと。望んでいること。そのために、この主人は、何をしたか。御自身のたいせつな独り子を送られました。あなたをお救いになるためにです。あなたを救うこと、それが一番の関心事だからです。あなたという存在がこのご主人の最大の関心事なのです。

主人は、今もこの礼拝堂に、あぶれている者はいないかと探しに来ておられます。約束の一デナリオンという名の救いは、無条件に、神の恵みによって差し出されています。あなたの目の前に。

この恵みによって私たちは救われるのです。

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マタイによる福音書14章22~33節

3 9月

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

聖霊降臨後第13主日(2017年9月3日 神水教会にて)

「波風の中を」

夏休みの間、慈愛園子供ホームでは、毎年、金曜日の夜に夕礼拝を行います。

子供たちは、職員のみなさまやボランティアの方々のもとで、宿題も割と早く進めておられるようです。また、児童養護施設対抗のスポーツ大会などもあって、元気に練習をしています。学校の勉強もあり、スポーツもあり。とても恵まれた時間を過ごしていると思います。

そして週に一度ですが、金曜日の夜には、学校の勉強とは少し違う、神様のお話を聞く。そんな時間も過ごしている。これまた、恵み深いことと思います。

私は毎年、何かテーマを決めて、臨んでおります。

今年の夏は、モーセについて学びました。

エジプトの王、ファラオのもと、幼な子たちの命が狙われて行くのですが、ひょんなことからエジプトの王女様に拾われ、モーセは、王宮で育って行くという数奇な運命をたどります。

その後、成人したモーセは、ある日、燃える芝の中から、神の声を聴く。エジプトの奴隷とされているイスラエルの民を救い出しなさい、と。その時、モーセの年は80歳。モーセの新しい人生が始まります。

モーセは、何度も、何度も、ファラオと交渉していきます。その間、ナイル川の水が血に染まる出来事、蛙や、あぶ、ぶよ、などが国土を覆い尽くす災いなどが、やってきますが、ファラオは、決して、イスラエルの民を解放してくれない。

しかし、ついに、エジプト中の長子が、動物も、人間も、すべて命を奪われるという出来事が起こって、ファラオはあきらめて、イスラエルを解放します。

そこからイスラエルの民を率いて、約束の地へ歩み出すモーセの旅路が始まるのですが実に、四十年間かかる旅路でした。

その間、海が割れてその間を進む話もあれば、天からマナと呼ばれる食べ物がふって来て、旅路の間、食料に困ることのなかった彼らの日々などが紹介されて、出エジプトの旅が進みます。繰り返しますが、その旅路は四十年間でした。

しかし、これは、不思議な話です。地図で見ていただければわかるのですが、あのシナイ半島を巡って、エジプトから、約束の地へ、つまり現在のパレスチナ地方へと行く旅は、いくら徒歩の旅だったと言っても、四十年間もかからない道のりです。確かに、中には、子供もお年寄りも、体の弱い人も一緒だったでしょう。

しかし、それでも四十年は長い。四十年どころか、一年もあれば、到着することができた旅路ではなかったか、などとも言われます。

でも、あの荒れ野の旅路は、四十年間かかりました。

時間が必要だったようです。神さまが、そのような時間をお与えになられたようです。

何のための時間か。それは、神を信じる信仰が生まれ、その信仰が養われるための時間です。その旅によって、体だけでなく、神を思う信仰が与えられていきます。何度も、何度も失敗しつつ、です。

さて、本日与えられましたマタイによる福音書14章のみことば、弟子たちを乗せた小舟が、ガリラヤ湖の上で、立ち往生していた時、イエスが歩いておいでになったというはなし、これも似たような疑問がわきます。

と言いますのは、彼らがこの時、渡ろうとしていたガリラヤ湖は、縦20キロ、横幅10キロくらいの湖です。

スムーズに進めば、反対岸に行くのに、20分くらいで着いてしまうと言われています。

ところが彼らは、この時、何時間も、湖上で立ち往生しています。ありえない長さです。

どのくらい、立ち往生し、こぎ続けていたか。

ちょっと振り返ってみましょう。先週の礼拝で、今日の個所のひとつ前の話を学びました。それは、男だけでも、五千人もいたという大群衆に、五つのパンと二匹の魚で、満腹にしてくださったという話でした。

あれは、夕方の話です。弟子たちが、みんなを解散させましょう、夕暮れになりましたから、という話でした。つまり夕食時の話でした。そのことがあってすぐ、といって今日の話は始まっております。

あの、奇跡のみわざを体験して、弟子たちは、イエスに強いられて、舟に乗り込み、向こう岸へ進もうとしています。

繰り返しますが、それは、すんなり行けば、20分くらいで着きます。しかも、弟子たちの中には、シモン・ペトロをはじめ、このガリラヤ湖で漁師として働いていた面々もいます。あっという間に、向こう岸へ行けるはずでした。

ところが、いったい、どのくらい時間がたったのか。

彼らは、湖上において、前にも後ろにも、進むことが出来ずにいます。

そのような状況の中、イエスが水の上を歩いて、おいでになるのですが、それは、夜が明けるころ、と書かれています。

これは、大体、夜中の三時から六時ころを指す表現であると言われます。

夕食を食べ終わって、すぐに出発し、そして、今、夜中の三時ころに至るまで、彼らは、ずっとガリラヤ湖上で、立ち往生しているのです。

何時間でしょうか。6時間、7時間くらい、いやもっと長い時間になるかもしれません。

あのモーセたちの、四十年間の旅路に何か重なっているところがあるように思えます。

両者とも、短くて済むものを、長い時間をかけて、進む旅でした。

そして、両者とも、その道行きの間、困難を経験しました。

しかも、両者とも、その困難の中で神様を見失っています。不安の中に埋没して、神様が見えなくなる時をどちらも味わっています。

そして、両者とも、そのような旅路へ、行きなさいと神さまに送り出されました。

これは、わたしたちの旅路を象徴しているように思えます。

わたしたちも、この世に送られました。この世に生を受け、この世という大海原を、進みます。小舟に乗って、大海を渡るようです。

かつてモーセたちは約束の地を目指しました。

そして、あの日、弟子たちは、向こう岸へ渡るために、漕ぎ出しました。

向こう岸へ行くのは何を意味しているでしょう。

そして、約束の地とは何なのでしょう。

神を信じること、これが約束の地です。

神を信じて、平安を頂くこと。これが約束の地です。

立派な土地を得ることではありません。財産を手に入れることではありません。それがあってはいけないわけではありませんが、

しかし、私たちにとって最高の宝は、神を得ることです。神を知ることです。神を信じることです。そこにたどり着く。

そこへと行かせるために、かつて人々は、荒れ野の旅を四十年間歩きました。

また、イエスさまは、神への信仰を強くさせるために、強いて、波風さかまく中を、舟に乗せ、弟子たちを送り出されました。

神様はどうしてわたしをこんなめにあわせるのか。わたしたちも、つぶやくことがあります。神さま、なぜ?と問いかけつつ、この世の旅路を進んでいることがあります。

あるいは、また、神様に背を向けつつ、神様を疑いつつ、文句を言いつつ、この世の旅路を進んでいます。

イスラエルという言葉があります。これは、今では、ひとつの国家として、イスラエルをわたしたちは今、思い起こすかもしれません。でも、本来は、神と戦う民、神と向き合う民、そういう意味であります。

神様、なぜですか、と問いかけながら、歩む。まさに、イスラエルです。イスラエルの歩みです。

モーセたちも、そうでした。

ガリラヤ湖の上の、弟子たちもそうでした。

そして、私たちも、そうなのです。

今日の話、後半のところで、水の上を歩いてこられたイエスを見て、ペトロが、私も歩いて行かせてください、と頼み、歩き始める場面があります。

驚きの場面です。ペトロが水の上を歩く。それはイエスが歩かれたよりも、ずっとずっと驚く場面と思います。

ところが、それも束の間、ペトロは水の中に沈んでしまう。それは風を見たからでした。

新共同訳で、強い風に気が付いて、怖くなり、とありますが、ここは、彼は、風を見て、怖くなったのです。

風を見た。面白い表現です。ここでは、おそらく、風を見たというのは、ヒューっと吹いて来る風を、体で味わい、また、耳で、その音を聞き取ったということでしょう。さらに、風によって、波立つさまを見たということでしょう。

それら、全てを含めて、風を見て、その恐ろしさに不安になり、自分の小ささを思い、怯えたということでしょう。

水の上に、ポツンと浮かぶ小舟。水の上を歩くペトロ。それは、いつでも、風が見える状態です。・・・わたしたちの姿です。

わたしたちは、いつでも、どこでも、どんな状況でも、いろいろな風を見ています。逆巻くさまを、波風の吹き荒れるさまを。そのつど、その不安、恐怖に襲われるたびに、神を忘れる。それが私たちの姿です。

そこで、神様を仰ぐことを知らされます。

風と同じように、見えもしないけれども、確かにいらっしゃる主なる神を見る。

どんな恐怖をも飲み込む、どんな波風をも踏み越えて、来てくださる。真の神さま。

あなたの信仰の目を開いて、この神を見よ、救いの主を見よ、そこに、あなたの真の幸い、真の平安がある。そう告げています。

弟子たちが波風の中を、立ち往生していた時、主は山の上で祈っておられたとあります。

そして、気が付けば、そばにおられました。水の上を、波風の中を、イエスは、弟子たちのもとへ行かれました。

わたしたちにも同様です。主は、日々、祈っておられます。わたしたちが祈るより先に、わたしたちよりも深く祈っておられます。そして、気が付けば、いつもすぐそばにおられるのです。どんな波風の中でも、主は共におられます。

あなたを平和と、救いの、向こう岸へ連れて行くまで、イエスさまは、きちんと責任を果たされる、真実の救い主です。

この御方を信じ、なお与えられた旅路を、信仰をもって、歩み続けたい、このように思います。

 

マタイによる福音書13章44~52節

20 8月

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

聖霊降臨後第11主日(2017年820日 神水教会にて)

「天の国の学者」

この8月に入りまして、マタイによる福音書の13章のみことばを続けて、学んできております。

13章の初めにあったのは、4つの種の話でした。

種を蒔く人が種を蒔く。ある種は、道端に落ちて、鳥に食べられた。

ある種は、土の浅い所に落ちて、すぐに芽が出たけれども、根がないのですぐに枯れた。

ある種は、茨に囲まれたところに落ちたので、のびようとしたけれど、茨に邪魔されて、伸びなかった。

しかし、ある種は、良い土地に落ちたので、すくすくと成長し、三十倍、六十倍、百倍もの実を結んだと。

それから、同じ種の話でも、種を蒔く人が蒔いたけれども、そこで、良い物だけが育ったのではなく、毒麦も一緒に育って行ったという話もありました。主人は、毒麦を抜くと、良い麦も一緒に引っこ抜いてしまうから、両方とも育てよう、と言ったという話です。

あるいは、からし種のように小さなもののたとえ、さらに、パン種のたとえと続いておりました。

これらはすべて何の話であったかと言えば、天の国のたとえでありました。

天の国とは、種が蒔かれていくようなもの、というたとえです。また、この世界には天の国の種、神のみことば、神のみわざがなされているのだけれども、同じように、この世界には、毒麦のような、悪の業も行われているということのたとえです。

あるいは、天の国は、からし種のように、目にもとまらないものだけれども、それは、からし種が育って、大きな葉を作り、空の鳥が巣を作るほどの木になるように、確実に、その種は成長する、天の国、神のみわざは、神の御こころは、目には見えないようだけれども、必ず、それは大きな実を結ぶのだ、というたとえでありました。

本日与えられました個所も、その続き、やはり天の国について、イエスがお語りになったところです。

それは、宝物のようなだとあります。

ひとつは、畑の中に隠されている宝というたとえ。

どこかのニュースで、何千万円もの大金がどこかから出て来た、なんていう報道がいつかもありました。そういうこともあるでしょう。あるいは、何か建物など、建築をするときに、基礎工事をしようと、土を掘っていたら古墳が見つかった、なんていう話も聴くことがあります。現代なら、そんなことが思い浮かぶかもしれません。

聖書の時代は、どうだったかと申しますと、本当に、宝物を土の中に埋めていたようであります。今のわたしたちのように銀行などが、発達していなかったからです。それで、財産などを、銀行に預ける代わりに、自分の土地、畑などの中に、財産を埋めておくということがしばしば行われていたようです。

そうやって隠すのはいいのですが、その隠した本人が、その宝のことを誰にも言わないで、死んでしまうケースもあります。そうすると、いつか、その畑を掘った人が、見つけてびっくりするということが起こる。ここでは、そういうことが想定されています。

ある人が、畑を耕す仕事をしていたと。それは、雇われて、であります。自分の畑ではなくて、「おまえは、ここの畑を耕せ」とか言われて、雇われて仕事をしていた。そうしたら、その土の中から、とんでもない宝を見つけてしまったと。これはもう、何にも代えがたいくらいの宝が出てきてしまった。何億円か、何兆円か知りません。あるいは値段など付けられないくらいのお宝が出てきてしまったというのです。

さあ、そこで、この人はどうするか。

その人は、持ち物を全部売り払って、その畑を買うだろうと。

つまり、こんな感じです。雇われている身ですが、その畑の主人に言うのです。「すみません、この畑を買いたいです。いくらで売ってくれるでしょうか」と。「なんとしても、この畑が欲しくなってしまったのです」と。もしかしたら、借金もするかもしれない。それも半端な額ではないでしょう。畑を一個買うのですから。でも、いくら借金しても、惜しくない。それほどの宝を見つけてしまったと。

これが、きょうの天の国のたとえです。

そして、同じような話がもうひとつありました。

それは高価な真珠のようであると。商人が良い真珠を捜している。そして、ある時、本当にすごい真珠を見つけてしまった。おそらく、こういうものは、専門家にしかわからない価値があるのでしょう。でも、とにかく世に二つとないような、素晴らしい真珠を見つけてしまった。

そうしたら、この人も、自分の財産を全部、売り払って、この真珠を手に入れると。いくら借金したって、惜しくない。それほどの宝物だと。

これが天の国のたとえであります。

どちらも、世に二つとないすごい宝を見つけた話。それが天の国のたとえであると。

それを見つけたら、もうほかの何物も、すべて価値を失うのだと。それさえ手に入れたら、もう何もいらない。それが、天の国なのだと。

しかも、それは、すぐに見つかるところにはないようです。からし種のように、目にもとまらないようです。気づかない人が多いようです。

でも、ひとたび、それを知った者は、これが、最高の宝。もうほかの何物も、価値を失うほどの宝だと分かるのだと。

それが天の国。神の国。別の言い方をすれば、神の愛、神の恵み、神の憐れみ、ゆるし、救い。

地上のだれも、地上の何物も、差し出すことはできません。

たとえば、お金。お金は、宝です。皆欲しがります。生きる上で、とても重要です。

でも、お金は、あなたを天国に連れて行ってはくれません。お金は、あなたを守ってはくれません。お金は、あなたを母の胎にいる時から、見守っていたわけではありません。お金は、あなたを愛しているわけではありません。お金は、「何があっても、あなたのそばから離れない」なんて約束はしてくれません。お金は、永遠ではありません。

いましつこいくらい、私が申し上げた表現、どれも、神様は当てはまります。

神さまは、あなたを天国に連れて行ってくれます。神さまは、あなたを守ってくれます。神さまは、あなたを母の胎にいる時から、見守っておられました。神さまは、あなたを愛しておられます。神さまは、何があっても、あなたのそばから離れません。神さまは、永遠です。

皆さんは、この宝を見つけた方々ではないでしょうか。この世のどんなものとも比べようのない宝、お金では買えない真の宝、それを知ってしまった人たちではないでしょうか。

きょう、このあと、谷口さんの洗礼式があります。お仕事も忙しいのに、ご家庭のこともそれなりにいろいろおありでしょうに。この日曜日、ここに来られる。宝を見つけたからです。

ご存じの方もおられるかもしれませんが、谷口さん、先週の日曜日、礼拝に来られませんでした。どうしてもお仕事、抜けられなかった。でも、ちょうど、礼拝が終わったころ、谷口さん、駆けつけられました。もう礼拝は終わっていました。でも、なんとか、ここへ、教会へと駆けつけられました。少しでも、神様の御前に行きたい、と。教会に顔を出したい、と。そしてまた、そのあと、お仕事へ行かれました。

神様という宝が分からない人には、「なんで、そんなことをしているの」と言われることでしょう。

でも、この宝を見つけた人は、神様の救い、神様の愛、いつも共におられる御方、私のことをずっと見守っておられるまことのお父さま、この御方のことを知った者は、他の何物をもかなぐり捨てて、この宝を大事にするのです。

これを見つけた人は、学者だとイエスさまはおっしゃいました。天の国の学者だと。

私たち牧師は、確かに、神学校を出まして、学位をいただいております。中には、博士号をとられた牧師さんたちもいらっしゃいます。それこそ、神学における学者です。

でも、イエスさまが言われるのは、「神様のことを知ったあなたは、神様の愛を知ったあなたは、天の国の学者だ」と言われる。ここにおられる皆さん、きょう洗礼を受ける谷口さんも含めて、みなさん、天の国の学者です。

学者は、その筋の専門家です。その筋の専門家は、なにがしか、その筋のことについて、尋ねられれば、答えます。

みなさんは、天の国の学者、神様のことについての学者です。牧師だけではありません。みなさん、学者です。天国学の権威、神様学の学者です。

その証拠に、みなさんは、周りの人にお伝えすることができます。

「教会に行くと、ほっとするんですよ。」と。

「讃美歌をうたうと、楽しいんですよ。」と。

「教会ではね、職業とか、年齢とか、人種とか、そんなこと一切関係なく、みんな兄弟姉妹というのですよ。」なんてことも伝えられる。

「ふーん」と人は聞くでしょう。中には、半分せせら笑いながら聞く人もいらっしゃるでしょう。それはまだこの宝を見つけていないからです。でも、皆さんは、見つけました。畑に埋っているこの宝を。

皆さんは、答えることができます。

「私は救われていますよ。」

「私は、死んだら、教会でお葬式をあげてもらいますよ。そこでは、また会おうね、と言ってみんなが送り出してくれるのです。」

「お祈りは、いつでも、どこでも、できるのですよ。だって神さまは、いつも私のそばにおられるから。」

・・・なんでも、答えることができます。なぜなら、あなたは、神様学の学者だから。天の国の学者だから。他の何物も知らなくても、神様の愛だけは知っている。いちばん良い物を知っているのです。

「私自身は、ふらふらして、だらしないところもいっぱいあるけれど、そんな私のことを神様は、愛してくださる。私はだから、安心なのです。」「主は強ければ、われ弱くとも恐れはあらじ。の歌詞の通りです。」

みんな、答えることができます。自分の言葉で。自分の思いで。天の国の学者だから。

学者だから、胸張って生きてください。しかも世の中の、どんな学問よりも、はるかに尊いことに関する学問です。神さまに関して、学ばれたのです。みんなが気づかないこの宝を、皆さんは、知ってしまったのです。畑の中の宝を見つけてしまったのです。

天の国の学者として、顔をあげて、いつも喜んで、絶えず祈って、どんなことにも感謝して生きて行きましょう。

そして、学者は、本当に良い学者は、喜びを胸に秘めつつ、謙遜であるものです。「俺は、何でも知っている学者だ」と言って、相手を見下ろすことは一流の学者にふさわしくないでしょう。天の国の学者は、恐れおののきつつ、神に仕え、隣人に仕える。心から、へりくだることをも知っている。そういう学者でありたいものです。

この宝が、ここで輝き続けるように、祈り、励んで行きましょう。そして、この素晴らしい宝のことを、ひとりでも多くの方に伝えて行きましょう。主の平安がありますように。

マタイによる福音書10章16-33節

16 7月

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

聖霊降臨後第6主日(2017年716日 神水教会にて)

「信じて歩む」

マタイによる福音書10章のみことばを与えられております。

先週の礼拝にお出になられた方は、おぼえておられるかと思います。先週は、マタイによる福音書10章の前半のところ、またその少し前、9章の終わりも学びました。

その際、とても印象的だった言葉があります。

それは、イエスが群衆をご覧になった時、それは、まるで飼い主のいない羊のような姿であったというところです。

イエスが人々をご覧になる。その姿は、まるで飼い主のいない羊のような姿であったと。

そのさまをご覧になって、イエスは深く憐れまれました。

お腹が痛くなったのだということです。上から目線で見降ろして、同情しているのではなく、憐れな群集の姿をご覧になると、ひとごととは思えず、まるが子を思う母親の愛情のような、胸がしめつけられるような思いになられました。

そして、そのような群集のもとへ、イエスは弟子たちを派遣なさいました。あれもこれも持って行かず、裸一貫で、行けと。信仰という名の杖をもって、行けと。

お前たちを待っている、あの迷える羊たちのもとへ行け、とそのようにお命じになられるのでした。

さて、その場面があって、今日の個所は、続きになっております。

きょうのマタイによる福音書10章の後半においても、やはり動物の名前が出ておりました。

まず、狼、そして、蛇、さらに鳩という動物の名前が続けざまにでています。

イエスは、あの飼い主のいない羊のような姿の群衆のもとへ行くのだ、と伝道活動へ、押し出してくださいます。

ところが、その場面に続いて、与えられている今日の個所では、さあ、お前たちは、あの飼い主のいない羊のような者たちのところへ行け、ではありません。そうではなく、お前たちがあの者たちのもとへ行くというのは、それは狼の群れの中に行くようなものだ、と言われます。この矛盾。

しかし、おそらくわたしたちはそれが矛盾ではないということが分かると思います。

なぜかと言いますと、この世の様、そしてこの世に生きる人々の様は、まさに、迷える羊のようであり、また、同時に、お腹を空かせた狼のようでもあるからです。

それは、どこかの誰かの話ではありません。わたしたち自身、わたしたちひとりひとりのことです。

自分という存在は、ある意味、飼い主のいない羊のような、弱く、心もとなく、不安に包まれています。

飼い主のいない羊、別の言い方ならば、糸の切れた凧、あるいは砂漠の中を歩いているような状態、わたしたちはいつでもそのような不安定さの中に置かれます。

しかし、そのような私たちは同時に、狼のような凶暴さも持ち合わせています。

貪欲な心を持っております。あらゆる欲望もまた、わたしたちの中にあります。おとなしい羊であるばかりでなく、獰猛な狼のようでもあるのです。

だから、イエスは、さあ、あの飼い主のいない羊のような彼らのもとへ行け、と言われるのと同時に、お前たちを遣わすのは、まるで羊を狼の群れの中に送り込むようなものだとおっしゃられたのです。

その際、羊は羊のまま、もう狼が来たら、食い殺されておしまい、ということで終わってよいとはおっしゃいませんでした。

イエスは具体的に、二つの動物を引き合いに出しながら、世を生きるすべをお伝えになりました。

それは、へびのように賢く、鳩のように素直に、というフレーズです

へびと言えば、聖書では、あの創世記の初めにエバとアダムを誘惑した存在として、思い起こされます。

その場面でも、へびは、もっとも賢いという形容詞が付けられています。賢さの象徴として、へびはあげられるようです。

その賢さ、また、この世の中で生きて行く、その忍耐強さや、生き抜く力などを表しているのかもしれません。

しかし、同時に、鳩のように素直に、と。

人間には、いつでも、どこでも、二面性のようなものはあるのでしょう。大人になって、生きて行く、社会人として、ある程度の常識人として、生きて行く自分であるけれども、その中に、子供のような心も持ち合わせている。よくあることです。

しっかりしたところと、ちょっと抜けたところと。だれでも、思い出せば、いろいろな二面性を持っていることでしょう。

飼い主のいない羊のような存在であり、同時に、狼のような面もある。きっと誰もがそうでありましょう。

生きて行くうえでも、へびのような賢さと、鳩のような素直さを持ちなさい、とイエスはおっしゃいました。

鳩のように、素直にと。

世を生きるたくましさや、適応力も身に着ける必要もあろうし、社会性も必要でしょう。でも、同時に、おさなごのような心、素直な心、まっすぐな心も持ち合わせる。

それはけっして矛盾することではないでしょう。

わたしたちも皆、教会を一歩出れば、みなさん、それなりに、社会の荒波の中で生きておられます。

人には言えないような辛さもあることでしょう。きれいごとばかりでは、乗り切れない面もおありでしょう。

曽野綾子さんの小説に、『神の汚れた手』という作品があります。だいぶ以前に読んだもので、明確な記憶ではありませんが、産婦人科のお医者さん、しかも、良い仕事ばかりではない、堕胎のお手伝いをする産婦人科医の人生、そして、その医者と色々な形で関わることになるカトリック教会の神父様の話であったと記憶しています。

その小説の中で、時折、壁に飾ってあるキリストの絵が取り上げられる。

それは、大工であったキリストのお姿。労働にいそしむお姿。しばしば見かける天的な輝きを持つキリストの絵ではなく、労働者のお姿のキリスト。その手は、仕事のために、泥がついて汚れている。

神の汚れた手。

神の子イエスもまた、この世においでになった時には、決して、きれいなお姿で、神々しいお姿でいらっしゃったのではありません。むしろ、その身を群衆のもとにおきました。

お生まれになった時にも、貧しい馬小屋で、飼い葉おけに寝かされていました。

群集の前に現れたときも、まず初めにしたことは、罪人の列に加わって、皆と一緒に、ヨルダン川の中に入って、洗礼を受けるということでした。罪人の仲間となられたイエスの象徴的なお姿です。

また、清い人々といるよりも、むしろ、罪人や、徴税人たちとともに、食事をしておられました。

神の汚れた手。

その言葉のとおり、神の御子イエスは、まさに、この世にいらっしゃるとき、その手を汚しておられました。汗をかいて、皆の分まで、汚れておられたくらいです。

そして、最後は、その手に釘を打たれて、汗を流し、血を流して、その身をお献げになりました。

わたしたちを清めるために、御自身が、あらゆる汚れの中に、身を置かれたかのようです。

みなさんも、この世で、生きて行かれる時、きっといろいろな形で、手を汚し、足を汚し、体を汚しながら、汗まみれで、それは、肉体的という意味だけではなく、いろいろな意味で、世の波の中にその身をどっぷりとつからせながら、歩んでおられるはずです。

クリスチャンなのだから、なんて言って、清らかな、お花畑のような生活をしているなんて人は、ひとりもいないはずです。

へびのように、賢く、忍耐強く、地をはいつくばってでも、間と間をすりぬけるように、生き抜く。

そういう強さ、賢さ、したたかさも、それなりに身に着けながら、生きています。

でも、ただそれだけではなく、わたしたちは、おさなごの信仰を与えられております。

どんな中でも、顔を天にあげて、信仰と希望と愛を求めることを知っております。

いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することを心のどこかに、秘めております。

その信仰をもって生きて行く、たとえ、狼の群れの中で生きているような不安が押し寄せる時も、それでも、信じて歩む。

しかも、それは、「あなた」ではありません。

きょう与えられたマタイ福音書の文章を改めて、よく読む。すべて「あなたがた」とあります。

わたしはあなたがたを遣わす。と。

このような信仰の道を歩むのは、ひとりっきりの作業ではありません。孤独な道ではありません。教会に集う家族と共なる歩みです。

一つのパンを裂いて食べる群れ、ひとつの祈りにアーメンと声も心もひとつにする群れ、互いを兄弟姉妹として受け入れ合う群れ、キリストをかしらとするひとつのからだとされた群れ、聖なるキリスト教会、聖徒の交わりを信ず。その言葉のとおり、この群れの中に、主の御霊が宿っています。

わたしたちはその祝福の輪の中に、入れられたのです。

そして、わたしたちの中には、わたしたちと同じ赤子のお姿で生まれた御方、わたしたち罪人と共に、洗礼を受けてくださったお方、わたしたちのためにその身を捧げてくださったお方、私はいつも共にいる、と言われる御方がおられます。

だから恐れるな、何も恐れるな。信じて歩みなさい。

その御声が今日も聞こえます。

主を信じ、その平安の中で、これからもご一緒に歩いて行きましょう。

マタイによる福音書6章24~34節

18 6月

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

聖霊降臨後第2主日(2017年618日 神水教会にて)

「思い悩むな」

本日与えられましたマタイ福音書6章のみことば、言わずと知れた最も愛されている聖書個所のひとつであります。

「思い悩むな。」「空の鳥を見なさい。」「野の花を見なさい。」「明日のことを思い悩むな。」

どの言葉をとっても、慰められます。いやされます。

みなさまの中にも、「聖書の中で、どの言葉が好きですか」と聞かれたら、このマタイ福音書6章をあげる方もいらっしゃるかもしれません。

ご存じのように、これは山上の説教と呼ばれるところのひとつでして、ひとつ前の5章から始まっております。

マタイ福音書の5章、6章、7章は山に登られた主イエスが、お弟子たちに、また多くの群衆にお語りになった言葉が綴られております。

ですから、きっと、山の上の気持ちのいい空気を吸いながら、晴れ渡った青空を眺めながら、下界に広がる大地を眺めながら、み言葉に耳を傾けていたと思います。

そして、空を自由に飛ぶ鳥を見、また鳥の鳴き声を聞きながら、主は「空の鳥を見なさい」と言われたのでしょう。

さらに、彼らがいた所は、自然の草や花が咲いていたことでしょう。足もとに咲いている小さな花を指しながら、「ほら、野の花を御覧なさい」とお語りになったことでしょう。

考えてみれば、空の鳥にしても、野の花にしても、視界には入っているかもしれないけれど、じっくり足を止めて、見つめるということが少ないかもしれません。

実際、どうでしょう。「この聖書の言葉は素晴らしい」「この聖書の言葉に癒されたことがある」という方でも、本当に、このイエスさまのお言葉に従って、外に出て、じっくり空の鳥を眺めてみたご経験のある方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。

「野の花を見てごらん」と言われて、本当に、外に出て、時のたつのも忘れて、野の花をじっくり眺めた経験のある方は、どのくらいいらっしゃるでしょうか。

もう何年か前になりますが、九州教区の夏の中高生キャンプに、私もスタッフのひとりとして参加いたしました。その時のテーマが、神のお造りになられた自然ということで、ルーテル学院の崔先生が子供たちに聖書のお話をしてくださいました。

崔先生は、神さまのお造りになられた自然にまつわる聖書の言葉を、いくつもいくつも紹介してくださって、そして、「では、今から一人にひとつずつ、聖書の言葉の書かれた紙を渡します。その言葉のとおりにしてきてください」と言われました。

スタッフの私も一枚カードをいただきました。私に回って来たカードには、旧約聖書の箴言6章6節が書かれていました。

どういう個所か。

「怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。」とありました。

面白い所を頂いて、私も言われたとおり、外に出ました。阿蘇のキャンプ場ですから、ありんこは、すぐに見つかります。どこにでも、蟻は歩いています。

でも、地べたに座って、その蟻をじーっと眺めて時間を過ごす、なんて経験はあまりしたことがありませんでした。

10分、20分、30分と、座ったまま、片時も止まることなく、動き続ける蟻の姿をじーっと見ている。蟻を見よ、という聖書に示されたとおり、蟻を見る。

そして、見ているうちに、心の中にある、こまごまとしたこと、心配事、うまくいかない人間関係のことなど、だんだん忘れて行く自分と出会いました。

「空の鳥を見なさい、野の花を見なさいと」言われたのも同じことだったかもしれません。

旧約聖書で、もうひとつ、ご紹介したい個所があります。それは、ヨブ記です。

ヨブ記、皆さん、お読みになったことはあるでしょうか。これもなかなか面白い書です。

突然の不幸に見舞われたヨブのもとに、友人たちがやってくる。

このような不幸が訪れたのは、神の呪いなのか、いや、そんなことはない、神はそのような御方ではない。では、なぜこんなことが起こったのか、きっとお前が、神に背いたからであろう。理由もなく、神がこのような不幸を来らすわけがない。いや、わたしは神に背くようなことは何もしていない、などなど、重苦しい会話が続きますが、ヨブ記を読んでいきますと、大変興味深い結末が待っています。

苦しみ悩み、ああでもない、こうでもない、と議論を重ねぬいたヨブたちのもとへ神様が、最後の最後にご登場なさいます。

そして、大岡裁きでもなさるのかと思いきや、神様は、「ヨブよ、これを見ろ、あれを見ろ」といって、大自然の一つ一つをお見せになるのです。

大地を、天空を、海を。

だれが、朝を設け、昼を設け、夜を設けるのか。

海の底には、何があるか知っているのは誰か。光はどこに住み、闇はどこに住んでいるのか。風はどこから送られてくるのか。

スバル、オリオン、大熊、小熊、だれが配置したものか。

岩場の山羊が子を産むときを見届けているのは誰か。無数の動物を知っているか。

ダチョウのこっけいな走り、馬の脚力、鷹や鷲が南へ飛んでいったり、高いところに巣を作ったりするように教えたのは誰か。

そして、こんなくだりもあります。

お前は天の上にある、雪の倉に入ったことがあるか。と。あられの倉を見たことがあるかと。

天の上には、雪をいっぱいためた雪の倉がある。同じく、あられの倉がある。

何のためにあるか。

それは、いつの日か、人間たちが、愚かな争いや、戦いを始めてしまった時に、この倉を開けて、地上に降らせるためだと。

そうして、雪やあられがどうしようもないほど降って、降って、人間たちが、争いたくても争えないように、戦いたくても、戦えないようにするのだ。その時のために、私は天に雪の倉、あられの倉を置いているのだ。お前はそんなこと知らないだろうと。

私はこのくだりがとても好きです。

そのように、ご自身がお造りになった数々の動物や、自然界の不思議な様相を紹介しながら、そのすべてを知っているのは誰か、そのすべてを造ったのは誰か。

おまえなのか。お前がすべてを知っているのか、と迫る。

まるで動物図鑑、天体図鑑、魚図鑑、昆虫図鑑でも広げて見ているような言葉が続く。

時に、ユーモアを織り交ぜながら、神様は、ヨブに語りかけます。

すると、いつの間にか、ヨブの心は、和んでいきます。

ついさきほどまで、ああでもない、こうでもない、と議論を続けていたヨブの心が、おだやかにされて行きます。

イエスさまは、あの日、空の鳥を見なさい、野の花を見なさい、とおっしゃいました。

そうしてお語りになるイエスさま御自身、いつも空の鳥をご覧になっておられたと思います。誰にも知られることなく、ひっそりと咲いている野の花を優しくご覧になっておられたのだと思います。

その瞳はきっと、おさなごのような瞳であったことと思います。

まるで、初めて、鳥を見る子供のように、神さまのお造りになられたこの世界を、感動をもって見ておられたのだと思います。

そのようにしてこの世界を、見つめるならば、あなたにも、神様が分かる。

あなたが幼な子のように、この世界を見るならば、あなたの魂は、深い安らぎを得る。

あなたは今、何を見ているのだ。何を思い悩んでいるのだ。

あなたは神の子ではないか。あなたは神の世界に住んでいるのではないか。

神のみこころがあふれる、この世界に暮らしているのではないか。

空の鳥が思い悩んでいるか。

鳥たちは、あれも欲しい、これも欲しい、ああ、あの人の方がスタイルがいいな、うらやましいな、と欲望に満ちて生活しているか。

野の花は、さてどんなふうに着飾ろうかしら、人から見られたら、恥ずかしい、なんて思っているか。与えられたままに、咲いているではないか。だって神さまが装いをしてくださったのだから。

まして、神様の寵愛しておられるあなた、あなたに何の不足があるのか。

その体、その顔、その声、そして、そして与えられた数々の恵み。しっかり見てみよ。

マルティン・ルターは、奇跡のみわざについて、こんなことを語りました。

わたしたちは、大地の実りが毎年、土地から生えることに慣らされている。それで、わたしたちはこのように見聞するものをもはや奇跡と思わないのである。しかしこのことは大いなることである。神が砂や石から野菜や、果物を造りだすことは、神がパンと魚をもって多くの人々に食べさせることよりも、はるかに大きな奇跡である。

わたしたちはあの五つのパンと二匹の魚の奇跡の話を知っています。

でも、考えてごらんと。毎日、毎日、この世界には、土の中から、野菜や、果物がなって、世界中の人々を食べさせている。これこそ神がなしている奇跡ではないか。と。

わたしたちは、それを当たり前と思ってしまっている。いつものこと、と思って、感動すらしなくなっている。でも、それは神のみわざ、神の奇跡、これをしっかり見届けよと。

わたしたちはなぜ思い悩むのか。神様を忘れているからなのでしょう。なぜ忘れるのか。大きすぎるからかもしれません。

でも、本当は、わたしたちは、神様の世界の中に住んでいます。神様の大きなみこころの中に住んでいます。神様の愛の中に、生かされています。

そのことをどこで知ることができるか。

顔をあげてごらん。空の鳥を、野の花を御覧なさい。

そして、神に愛されている自分自身を見てみなさい。

あなたには何も不足はない。見よ、極めて良し。それはあなたのことだ。

神の愛を、わたしたちは忘れていることがあります。大きすぎるからでしょう。でも、間違いなく、わたしたちは包まれています。神の愛に。神の慈しみに。

見てごらん、鳥を、花を。わかるはずだ。あなたは神に愛されているということが。

あの日のイエスさまがそうであったように、わたしたちもまた、おさなごのように、もう一度、神様のお造りになったこの世界をながめ、そして、大きな神の愛の中にいることを、確認したいものです。

皆様の上に、神の祝福と平安、ゆたかにありますように。

 

ヨハネによる福音書14章15~21節

21 5月

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

復活後第5主日(2017年5月21日 松橋教会にて)

「みなしごにはしない」

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」という一節がありました。

本日のヨハネによる福音書14章の中ほどです。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」

みなしご。諸事情により、親のいない子供のことをそう呼びます。

当たり前のことですが、2000年も昔の時代にも、この言葉があったのだな、と気づかされます。

いつ、どこの世でも、親という存在がいなくなってしまう。そういう状況が生まれる。親のいない子供がそこに生まれる。その子供を、その状態を、みなしごと呼んで来ました。

そして、そのことは、自分を愛してくれる人、自分を守ってくれる人、自分を安らがせてくれる人、自分が帰って行きたければ、帰ることのできる所、困ったときには頼ることのできる人、また、その家、それがないという状態が、みなしごという状態でありましょう。

ご存じのように、私が普段おります神水教会には、同じ敷地に慈愛園があります。二年後には創立百周年を迎えます。98年も前から、続けられている働きです。そこには、98年前から、今に至るまで、親のいない子供たちがいます。昨今は、親がいても、虐待などの事情により、親と一緒に住むことができない子供も増えておりますが、親がいない子供たちもおおぜいいます。

その子供たちに、寄り添う働きを続けて98年、大きな働きであると思います。

どこの児童養護施設でもそうですが、児童養護施設に属しているということ、あるいは児童養護施設を巣立って行った、ということを人に知られたくないという子供や、大人の人たちは、少なからずいらっしゃいます。

施設で育ったことを、隠したいと願う。それは仕方のないことでありましょう。それは、その人の生き方、その人自身の選択であります。

一方で、慈愛園におりますと、慈愛園を卒園した、ということに誇りを持っておられる方々もお見受けいたします。

聖書の話に入る前に、ひとりの方の話をいたします。

その方は、もうすでに御召天なさいました。Aさんとおっしゃいました。

Aさんは、生後間もなく慈愛園に預けられました。そして、慈愛園で、パウラス宣教師を始め、多くの人たちに愛されながら、お育ちになります。パウラス先生は、Aさんに音楽の才能を見出して、高校を出たら、音楽の学校に行きなさいと勧められました。学費のことは心配いらないから、と言って、送り出されました。

そして、Aさんは、音楽の学校に進まれました。結果的には、熊本に帰って来て、県庁にお勤めになられました。

そして、退職した後は、恩返しだと言って、子供ホームの子供たちに、ピアノを教えておられました。そして、晩年は、慈愛園の中のパウラスホームでお過ごしになり、御召天なさいました。最後の最後まで、讃美歌を愛し、祈りを愛し、神を愛し、慈愛園を愛しておられる方でした。

このAさんに関して、たいへん心を打たれるエピソードがありました。

Aさんは、学校を卒業して、熊本県庁でお勤めだったのですが、仕事が終わると、よく、熊本城のあたりに行っておられました。当時は、そこに屋台が並んでいたそうで、仕事が終わると、行きつけの屋台に夕食を取りに行っていたそうなのです。

ある時、食事をしながら、Aさんは、自分の生い立ちをその行きつけの屋台のおかみさんにしました。自分は、赤ちゃんの時に、慈愛園に預けられて、こうやって今まで生きてきたのだ、と。

その話を聞いたら、屋台のおかみさんの表情が変わってしまった。何かと思ったら、そのおかみさんが言いました。「あなた、まさか、たかちゃん」と。

なんという運命のいたずらでしょう。Aさんの行きつけの屋台のおかみさんは、かつて慈愛園に預けに行った、Aさんの実のお母さんだったのです。

そうなれば、場合によっては、今からでも、もう一度、家族となることもできたかもしれませんが、Aさんは、「いや、私の母はパウラス先生であり、私のふるさとは、慈愛園。何も変わらない」と言って、実の母親とも、それ以上の関係を望まず、これまで通り、行きつけの店のおかみさんということになさったそうです。

これは、慈愛園で起こったひとつのエピソードですが、このAさんのような方は、児童養護施設で育ったことを、誇りに思っていらっしゃる良い例でありましょう。

はっきりと、「私のふるさとは、慈愛園です」「私の母は、パウラス先生です」とその時、確認できた。そうまで思えるほど、深く、自分の育った施設を愛していらっしゃったのです。たいへん幸せなことであると思います。

何の話をしていたか、といいますと、みなしごの話です。

私、さきほど申し上げました。みなしごは、自分を愛してくれる人、自分を守ってくれる人、自分を安らがせてくれる人、自分が帰って行きたければ、帰ることのできる所、困ったときには頼ることのできる人、また、その家、それがないという状態だと。

でも、このAさんのことを思います時に、みなしごというのは、ただ単に親がいない、親に捨てられたり、どこかに預けられたということだけではないような気がします。

親がいなくても、このように、自分のふるさとはここだ、自分の母親はこの人だ、と言えるほどに、愛し、愛される関係がそこに生まれているならば、きっと大きな支えがそこにあるということになりましょう。

逆に言えば、親がいる、家族がいる、家も立派にある、生活は何一つ不自由ない、と言っても、本当に安心できる帰る場所がなく、本当に自分を包む愛情を感じることができないならば、それは、親がいても、家族がいても、まるでみなしごのような状態と言えるのかもしれません。

長くなりました。

イエスさまはあの日、あなたがたをみなしごにしない、とおっしゃいました。

それは、いつもそばにいて、愛されている、その安心感、困った時は頼ればよい、自分には故郷がある、帰るところがある、安心して生きて行くことができる、生れてよかった、生きているって素晴らしい、って言えることではないかと思います。

イエスさまはそれをお約束なさいました。

思えば弟子たちの多くは、自分の家や、家族や、仕事を捨てて、イエスさまに従っていく決断をしてきた面々です。

それは、無意識だったのか、意識的だったのか、ああ、ここに本当に自分の命が帰って行くところがある、とつまり、まことの神がここにおられる、と分かったからかもしれません。

であればこそ、今、そのイエスさまが十字架にかけられ、この世から離れて行ってしまわれる時に、弟子たちは、言い知れぬ不安をおぼえました。

それこそ、もう誰にも頼ることのできない、帰るところを失った状態になると。

その彼らに、イエスさまは、はっきりとお約束なさいました。あなたがたをみなしごにしない、と。

そして、イエスさまは、御自身が天に帰られた後、いつもそばにいてくれる真理の霊、永遠の弁護者を遣わす、とお約束なさいました。いわゆる、聖霊と呼ばれます。

ここで弁護者と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書では、助け主と訳されていました。また慰め主と訳されることもあります。

原文のギリシヤ語では、パラクレートスという言葉です。

それは、法廷用語です。弁護者と訳されているとおり、それは、弁護士のことです。裁判の時に、被告を助けてくれる、その役目。だから、新共同訳では弁護者と訳されていました。

そして、その言葉のもともとの意味は、そばに呼ぶ、傍らに呼び寄せるといった意味であります。

まさに、弁護士、弁護者は、そのようであります。法廷に出向く時、弁護者をそばに呼びます。自分ひとりでは、どうにもならない時、そばにいる。そして、助けてくれる。また慰めを与える。最後までそばにいる。それが弁護者、パラクレートスです。

イエスさまは、弟子たちに、心配しなくてよい、私はあなたがたをみなしごにしない、弁護者を送るから、とおっしゃいました。

そう、わたしたちはみなしごではないことを知っています。

なぜなら、神が共におられるということを知っているからです。

しかも、このお方は、わたしたちの父なるお方。

そして、このお方は、わたしたちの救い主。慰め主。

永遠の御方。永遠に守り、支え、そばにいてくださる御方。

私たちは知っております。このお方を。

だから、わたしたちは、決してみなしごではないということを知っています。

私たちはみなしごではない。神様の子供です。永遠なる神様の子供です。

ここにいらっしゃる方々の多くは、かつては、神さまを知らなかったと思います。私もそのひとりでした。その頃、わたしたちは、わたしたちの魂は、みなしごでした。自分という存在は、どこからやって来て、どこへ行くのか知らなかったのですから。

でも、今は知っています。自分のふるさとを。自分の帰るところを。自分を愛してくれる御方を。自分の安らぎを。何があっても大丈夫と言ってくださる約束を。

そこに、わたしたちの救いがあります。慰めがあります。励ましがあります。

それは、永遠です。ほんのひとときのいやしなんて、ものではありません。

神は永遠だからです。

真理の霊。永遠の弁護者。聖霊。しばしばキリスト教の神学を学ぶ際、この聖霊は、復活したイエス・キリスト、そのお方のことである、とあります。神は、何人もいるのではなく、お一人なのですから、そのように言うことは正しいと言えましょう。

いつも共にいて、わたしたちを守ってくださる、永遠の弁護者。

父、御子、みたまの神こそ、わたしたちを愛する保護者、永遠の保護者、永遠の弁護者、永遠のふるさとです。

あなたがたをみなしごにしない、イエスさまの約束が、今、響き渡ります。今も、世の中には、この帰るべき、ふるさとを知らない人が多くいらっしゃいます。その結果、帰るところを知らず、平安を得たくても、得られず、苦しんでいる人たちもいらっしゃいます。

どうか、この喜びの福音がひとりでも多くの人に伝わりますように。

今、集められた皆様の上に、神の祝福ゆたかにありますように。

ヨハネによる福音書13章1~17節

13 4月

 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

聖木曜日礼拝(2017年4月13日 神水教会にて)

「ひざまずくのは誰?」

  今日の個所、2節の始めに「夕食の時であった」と書かれています。

いわゆる最後の晩餐です。今日の個所は夕食の時の話であります。

皆さんの中にも、すでに今日の夕食を済まされた方もいらっしゃるでしょうし、礼拝が終わってからゆっくりという方もいらっしゃるでしょう。

今日、私どもに与えられた御言葉は、今から2000年ほど前のある夜、主イエスが弟子たちとご一緒についておられた夕食の席の話であります。

車の音もなく、街灯もろくについていないころ。今よりずっと静かな夜だったのではないかと思われます。

その食事の席で、イエスは「すでにこの世から父の元へ帰るときが来たことを悟られ、弟子たちをこよなく愛し抜かれた」とあります。

時を同じくして、イスカリオテのユダの心には、悪魔がイエスを裏切る考えを抱かせていました。

そのことも含めて、すべてを悟られると、イエスは食事の席からおもむろに立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取ると、それを腰にまとわれます。

食事がすっかり済んでいたのか、それとも、食事の途中だったのか。

おそらく、食事の途中ではなかったかと私は思います。

イエスは、「この世を離れるときが近づいたことを悟られると、弟子たちを愛して愛して、やまなかった。」・・・恋しくて恋しくて、仕方がない感情で一杯になられたのです。

それで、食事の最中だというのに、立ち上がられた。

このあとご一緒に121番の讃美歌、「まぶねの中に」をうたいます。

あの讃美歌の二番の歌詞は「食するひまもうち忘れて、虐げられし人を訪ね、友なきものの友となりて、心くだきし、この人を見よ」とあります。

私は、今日の福音書個所を繰り返し読んでいるうちに、あの「まぶねの中に」の讃美歌のこの歌詞が思い出されてまいりました。

イエスは、ご自分がもうこの地上を離れて、弟子たちと別れなければならない。そう思って彼らのことを見つめていたら、もういても立ってもいられなくなって、立ち上がる。

最後にこの弟子たちに何を残してあげることができるだろう。

イエスはすでにイスカリオテのユダの心に悪魔が入っていることも、勿論知っておられる。ほかの弟子たちも、皆散り散りになって逃げ出し、裏切ってしまうことも知っている。

しかし、そんな彼らのことが、もう恋しくて恋しくて仕方がない。

何かをプレゼントせずにはおれない。何かを伝えずにはおれない。

最後の、本当に最後の贈り物を彼らに残してあげたい。

そう思ったときに、イエスは、一枚の手ぬぐいを腰にきゅっと結びつけて、たらいに水をくみ、弟子たちの足を、その一人一人の足を丁寧に丁寧に、水で洗っては、その手ぬぐいで拭いて行かれました。

当時、この足を洗うというのは、奴隷の仕事でした。それはいかにも分かることです。

わたしたち自分の人生の中で、人の足を洗うということがあるでしょうか。

あるいは、自分が元気なうちに、自分の足下にひざまずいて、誰かが足を洗ってくれるということがあるでしょうか。

子供の足を洗う、あるいは、病気で動けない人や、おとりよりの介護で洗う。それは分かります。

しかし、元気で動き回っている人の足を、自分がひざまずいて洗う。それは、大変はっきりとした格差のある主人と僕を表しているのは、想像できることであります。

そのことは、当時の社会に生きていた弟子たちもイエス様も百も承知でした。

それだけに、ペトロは弟子たちを代表して言いました。

「あなたが私の足を洗うのですか。」これは、弟子たち全員の思いだったことでしょう。

「イエス様、あなたが私の足を洗うのですか。」

このせりふは、かつて洗礼者ヨハネが「あなたが私から洗礼を受けるのですか。私があなたから洗礼を受けるべきではありませんか」と言ったあの場面と重なって見えてまいります。

わたしたちも神様の御前に行けば、わたしたちの方がもう顔を上げることができないほど、恐縮してひざまずいてしまうだろう、ということを想像します。

だから、あの高価な香油を頭から注ぎ、涙で足を拭った罪深い女の姿の方が、わたしたちにはまだ理解しやすいものです。

ところがその夜は、主ご自身が弟子たちの前にひざまずかれた。

最後の夜に起きた洗足の驚きはここにあります。

洗礼者ヨハネに向かって、「今は、そのようにさせてくれ」と頼まれたように、イエスはここでも、ペテロの拒絶を振り切って足を洗われます。

「これをしなければ、あなたと何の関係もなくなってしまう」という痛烈な言葉を発せられてでも、これを成し遂げられるのです。

千葉県に劇団シャロームと言って、聖書の話に基づいた演劇を行っている劇団があります。その劇団がつくられた戯曲のひとつに「ガリラヤ湖のほとり」という話があります。

この話の中では、弟子のペトロには別れた女性がいることになっています。その女性は、他に男を作って、ペトロの前を出て行ったということになっています。名前はリベカとなってします。

もちろん聖書にはそのような話はないのですが、戯曲の中ではさまざまなストーリーが創作されています。

過越祭も近づいたころ、その女性がペトロを訪ねて来ます。リベカはあの時のことを詫びようと思って、ゆるされないだろうとわかりつつ、ペトロに謝りたいと思ってやってきます。でも、ペトロは、突然現れた彼女を見ると、怒りが収まらなくなって、彼女の顔を見ることもなく突き返してしまいます。

その後、ペトロの前にイエスが現れる。イエスはペトロに「さっき、女の人が泣きながら去って行ったよ。」と。「どうしてやさしくしてあげられなかったのかい」と言われる。ペトロは苦しい顔をしながら、「イエスさまの教えに背くようですが、わたしにはゆるせなかったのです」と答える。

「お前のひと言で、あの人の涙も癒されただろうに」とイエスはお答えになる。

ペトロは、そのとき顔をあげて「先生、質問があります」と言う。「兄弟がわたしに対して、罪を犯したならば、何回赦さねばなりませんか」と。

そう尋ねるペトロの顔をイエスはじっと見ている。ペトロは「七回までですか」と尋ねる。じっと見つめつつイエスは「いや、ペトロ、七回ではない。七回を七十倍するまでだ。」

これを聴くとペトロは「無理です、先生、私にはできません」と答える。

そのペトロに「今できなくていい、いつかできるようになる。その日を信じればいい。」

そう言いつつ、イエスは「ペトロ、足が汚れているよ、洗ってあげよう」とおっしゃる。ペトロは「めっそうもない、わたしこそ先生の足を」と拒みますが、「いや、今夜はそうさせておくれ」と言いつつ、イエスはひざまずき足を洗いつつ、こんな話をするのです。

「子どもの頃、外で遊び帰ると、母がこうして足を洗ってくれたものだった。冷たい水がここちよく、夕日が水に映って、母の顔をキラキラ輝かせていた。きれいだった。

その光を私は今でも覚えている。その時、私は、人と人が、親子のような心で足を洗いあい、互いの汚れを流し合うことができたら、どんなにいいかと思ったものだった。あの時のことを思い出すたび、私は、自分の中に希望が蘇る思いがするのだよ」とおっしゃる。

洗い終えたイエスは「ペトロ、今夜のことをよく覚えておくのだよ。これからお前はたくさんの苦しみに出会うだろう。その時、思い出しておくれ。私がこうして足を洗った時のことを。」

その後イエスは十字架につけられ、ペトロはその時「あの人のことなど知らない」と三度も言ってしまいます。ペトロはそのことで苦しみ、立ち上がることもできないほど落ち込んでしまう。

そのペトロのもとに、リベカがもう一度やってきます。でも、ペトロにはその姿も見えない。

そんなペトロのもとに、ひとりの物乞いの姿をした男が現れる。その男にペトロは胸の内を語る。「私はあのお方を裏切ってしまった。」と。

すると、この物乞いの男は「あのお方は、十字架の上で、みんなをゆるしていなかったかね」と言う。「そうだ、確かにその言葉は聞いた。・・・でも、私はゆるされていない。ゆるされた気がしない。」と答える。

物乞いの男は「それがなぜだか分かるかね」という。いぶかりつつペトロは物乞いの男のほうをみると、「それは、あんたが他の人をゆるしていないからだよ」と。

ペトロはそれを聞いて、はっとします。

「あんたのそばにもゆるしを求めている人がいるだろう」と。

そこでペトロはリベカの姿が分かる。ペトロはリベカに「すまなかった。つらかっただろう」と。

「ゆるしていただけますか」というリベカに「赦すよ。いや、今こそ分かる。ゆるされるべきは私だったよ」と。

その時、物乞いの男は立ち上がって「今、おまえはゆるされた」と宣言する。

物乞いの男の姿をしていたのは、復活したイエスでした。

ペトロはすがりつくように「私のことをおゆるしください」と願うと、「お前の罪はもうゆるされた。ペトロよ、あの時、お前の足をあらったことを思い出してごらん。おまえがまだよごれているというのなら、私はまた洗ってあげよう」とおっしゃる。

時は変わって、ローマの町で、燃え盛る炎の中で十字架につけられるペトロの姿が浮かび上がる、というお話です。

この話には、もちろん戯曲として、いささか感傷的なところがあるとは思いますが、しかし、イエスさまの深い愛について、またゆるしということについて、深い洞察をもっていると私は思います。胸揺さぶられて私は読みました。

言うまでもなく、足の汚れは、わたしたちの汚れ、罪です。

足は洗っても、洗っても、次の瞬間には汚れます。

なんと象徴的なことでしょうか。

私たちは、ひとたび何かを清算しても、何か問題が起きてそれを解決しても、「ああ、これできれいさっぱり」と思っても、次の瞬間にはまた罪を犯しています。足が常によごれるように。

そのわたしたちの足をイエス様は一人ずつ、丁寧に洗ってくださいます。

「この足を清めることができるのは、私だけだよ」とおっしゃりながら、わたしたちを清めてくださるのです。

今年は、事前に予告も、準備もしていなかったので、足を洗うという実践は、いたしません。また別の年の木曜日には、互いの足を洗いあう、実践もしましょう。

でも、きょうはこのあと、おのおの胸の内に祈りましょう。自分の胸の中で、赦せないと思っている人のこと、思い起こしつつゆるせる自分に、と。

あるいは今、イエスさまの御前に自分自身の罪を思うことがある方は、それを主の御前にざんげしましょう。

そして、今も、ひざまずいて、わたしたちの足を洗っておられるイエスさまを深く思い起こしましょう。

 

マタイによる福音書20章17-28節

12 3月

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

変容主日(2017年312日 神水教会にて)

「仕えるために」

本日与えられましたマタイ福音書20章のみことばの中に「引き渡す」という言葉が、二度出ております。・・・「引き渡す」・・・。

聖書にある程度親しんでおられる方ならば、わりとよく耳にする言葉であるとお気づきになると思います。

引き渡す・・・誰かの手から、誰かの手に渡されることであります。

引き渡す・・・それは、イエス・キリストの受難物語において、しばしば出て来る単語です。

このマタイ福音書をこのあと、ずっと終わりまで読んでまいりますと、引き渡すという言葉、そして引き渡される場面が多々出てまいります。

たとえば26章に入ると、最後の晩餐の場面があります。レオナルドダヴィンチの絵でも有名になった場面。イエスが弟子たちと共に囲んだ夕食です。

その食事を終えた後、イエスがゲツセマネで祈っておられるところへ、祭司長や、おおぜいの群衆がやって来て、イエスを捕らえる場面へと続きます。

人々は、イエスを捕らえると、裁判を受けさせるために、大祭司にイエスを引き渡します。

そして律法学者や長老たちは、イエスを尋問し、殴ったり、唾を顔に吐きかけたりしながら、縛ってポンテオ・ピラトのもとに引き渡します。

ポンテオ・ピラトもイエスを尋問しますが、この男には何の罪も見いだすことができないと結論します。ところが、群衆の前に連れて行くと、群衆は、十字架につけろ、の一点張り。仕方なく、ピラトは、鞭打ってから、イエスを兵士たちに引き渡します。

そしてこの兵士たちのもとで、イエスは鞭打たれ、茨の冠をかぶされ、侮辱され続けて、ついに十字架につけられ、殺されました。

今、簡単に振り返っただけですが、まさに、たらいまわしという言葉がぴったり当てはまるように、イエスは次から次へ、あの人の手から、この人の手へ、と引き渡されていきます。そして、最後、十字架に引き渡され、死に渡されました。

聖書にある程度親しんでおられる方ならば、この引き渡すという単語を、しばしば聞いておられるでしょう、と申し上げたのは、つまり、この受難物語に、「引き渡す」という言葉が繰り返し、繰り返し、出て来るからであります。

また、きょうのマタイ20章のように、イエスご自身の受難予告においても、引き渡す、引き渡される、という言葉は、繰り返されています。

イエスの御受難を綴ったところを振り返り、取りまとめてみると、こう表現することができます。「イエスは引き渡された御方なのだ」と。

あるいは、こう表現することができます。

「イエスは、引き渡されるために、この世においでになられたのである」と。

その言い方が、唐突過ぎて、もうひとつピンと来ない方のために、別の言い方で問いかけてみましょう。

あなたは、イエスを引き渡したことはありませんか?

イエスは、あなたの心に住んでいるでしょうか?

あなたの人生は、ずっとイエスと共なるものでしょうか?

そのように問われたとき、自分は、イエスさまをいつでも、この胸に、お迎えしていないということに気づかされることと思います。

私の心には何が住んでいるか。誰が住んでいるか。

エゴが住んでいる。罪が住んでいる。悲しみが住んでいる。疑いが住んでいる。闇が住んでいる。傲慢が住んでいる。諦めが住んでいる。

いろいろありますが、今のあなたには、何が当てはまるでしょうか。

言い方を変えれば、いろいろなものが心の中にあるおかげで、心の中から、わたしの中から、イエスを追い出している。イエスをこの心から、追い出し、どこかに「引き渡している」・・・イエスさまは、今も、どこかでたらい回しにされているのではないでしょうか。

イエスは引き渡される御方。イエスを引き渡しているのは誰なのでしょうか。

せっかく、自分のところに来てくださった。「あなたと共にいる」と言ってくださった。この救い主を、引き渡しているのは、誰でしょうか。

人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。

この時のイエスの言葉は、遠い昔のことではないようであります。なぜなら、わたしたちもまた、イエスさまを引き渡しているからです。

人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。

いわゆる受難予告と言われるところですが、さて、このことをイエスがはっきりと御告げになった時、弟子たちは、何を考えていたのでしょうか。

すぐそばにいた二人の弟子が、自分たちの栄誉、自分たちの救いの確保、自分たちの保身を求めました。

「イエスさま、あなたが王座におつきになるときには、わたしたちのひとりを右に、ひとりを左においてください」と。ここでは、彼らの母親がそう願ったとありますが、本人たちの願いと見てよろしいでしょう。

また、二人だけですが、このあと、イエスは皆にお話をなさいますから、これは皆の心に、同じような思いがあったのだとみてよいでしょう。

「わたしたちのひとりを右に、ひとりを左においてください」

それをお聞きになった時、イエスが言われた言葉は、「あなたがたは自分が何を願っているのか、わかっていない」というものでした。

わたしたちは、自分の心から、イエスさまを追い出して、何を願っているのでしょうか。どこへたどり着きたいと思っているのでしょうか。イエスさまを引き渡して、代わりに何を得たいと願っているのでしょう。

「自分が何を願っているのかわかっていない。」その言葉が、聞こえてきます。

今、神水教会では、水曜日の夜の祈祷会で創世記を学んでおりますが、天地万物の創造の初めに、何と書いてあるか。「混沌であった」とあります。神の御業がなされる前は、ただ混沌であったと。

・・・わたしたちが、神を見失っている状態を表しているようです。神様から離れているわたしたちの姿を表しているようです。

神を見失う時、わたしたちの状態は、混沌であります。

そこに、神の「光あれ」の言葉が響き渡りました。神が良しとされる世界が生まれました。

混沌の世界には、神の光が必要なのです。

この光は、いま、どのようにしてもたらされるのか。

あなたの中に、混沌を追い出す光がやってくるとしたら、それはどのようにやってくるのか。

弟子たちは、光とは、その言葉のとおり、輝かしいこと、栄誉に満ちていること、その光の中に自分が立っていること、人からあがめられること、と思っていたようです。

わたしたちの考え方そのものです。

それで彼らは、「わたしたちのひとりを右に、ひとりを左に」と求めました。

そこに光があると思ったからです。

でも、そんな二人に、イエスは、「あなたがたは自分が何を願っているのかわかっていない」とおっしゃいました。

わたしたちを照らす光はどこから来るのか。

イエスさまはおっしゃいました。

「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た」と。

尊い神の子、救い主、イエス・キリストを追い出して、引き渡そうとするわたしたちに、「お仕えする」と言われます。「あなたに仕えます」と。「あなたのしもべになります」と。

わたしたちは、イエスさまのことを、主と呼びます。とてもいい表現です。

ところが、イエスさまご自身が、「あなたを主とします。」「だから、私はしもべです、と。あなたに仕えます」「あなたに仕えるために、私は来たのです」とおっしゃる。

仕えるため、そしてさらに、「身代金となるために、来たのだ」とイエスさまはおっしゃいました。「あなたを救い出すために、わたしは、身代金となった」と。

身代金という言葉は、日常でよく使うような、使わないような言葉であります。たとえば、誘拐された人を取り戻すために用いられる言葉です。

誘拐犯人がいる。誘拐された人質がいる。人質と、身代金が互いに「引き渡され」ます。

あなたが、神様から離れているあなたが、神様から離れ、罪や、闇、混沌の中に捕らえられているあなたが、神さまのもとに再び戻されるために、身代金として、イエスさまが、引き渡されました・・・十字架の上に。

あなたを混沌のままに捨て置かないために、あなたを滅びへと渡さないために、神様が、このお方を、あなたに仕える者として、送ってくださいました。

天地創造の時、混沌の中に「光あれ」との神の言葉が響き渡りました。

今、その御声は、どこに響いているのか。

あなたの中に、私の中に響いています。

「この光を見よ。あなたを救う神の小羊、この神の小羊の中に、光が輝いている。あなたを愛する愛という光が。これが、あなたを照らす。」

「決してあなたを見捨てないという光が輝いている。これがあなたを照らす。永遠に。」

主の御声が今、ここに響いております。

二人の弟子は、イエスさまの右と左につくことを望みました。でも、彼らは、のちにわかりました。

そうではない。そうではない。イエスさまの隣りに座るのではない。イエスさまが私のすぐ隣に、いつもいて下さる。「私はあなたに仕える」との約束の通りに。

「光あれ。」神の言葉が鳴り響けば、それは必ずなります。あなたの隣りにおられる主、このお方こそ、命の主。光の主。愛の主。

このお方をどこへも引き渡すことなく、この胸に宿るように、ご一緒に祈りたい、このように思います。

マタイによる福音書17章1-9節

26 2月

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

ペトロの手紙二 1章16-19節

わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

変容主日(2017年2月26日 神水教会にて)

「わたしの愛する子」

さきほど二番目に、ペトロの手紙を読んでいただきました。それは、その名の通り、ペトロが書いたものであります。ペトロとは、あの十二弟子のリーダー的存在であったシモン・ペトロであります。

新約聖書の手紙群は、使徒パウロによるものが多いのですが、その中に、十二弟子の中でも、もっともよく知られているペトロが書いた手紙があるのです。そんなに長いものではないので、お時間ある時に、じっくりお読みになられることをお勧めいたします。

さて、きょうは、その中で、ペトロがある日の出来事を書いているところを読みました。

わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。

ペトロは、この手紙の中で、ひとつの出来事について、「これは作り話ではありません、適当な話をしているのではありません、わたしたちは見たのです、そして、天からの声を聞いたのです」と訴えております。

何を見たか。「キリストの威光を目撃した」とあります。キリストの威光。光ですね。

讃美歌をうたっておりますと、しばしば「主のみいつ」という言葉が出てきます。少し古い言葉で、その意味が分からないまま歌っておられる方も少なくないかもしれませんが、主のみいつと言いますのは、主の威光です。神様の光、神様の持つ光、神様から放たれる光、といったものです。太陽の光や、電球の光といったものではありません。神様の光のことであります。

ペトロはその手紙の中で、「わたしたちは、主イエスの威光を見た」「その光を見たのです」と書いております。「これは作り話ではなく、本当に、わたしたちは目撃したのです」と。

そして、目撃しただけではなく、声も聴いたと。「天から響く声まで聴いたのですよ」と。

その声は、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というものであったと。

お分かりのように、このペトロが書いた手紙に記された出来事、それが、本日のマタイ福音書17章に記された出来事であります。

それは、「六日の後」の出来事であったとあります。わざわざ「六日の後」という書き方をしておりますから、その六日前に何があったのか、ということは確認しておいた方がよいでしょう。

今日の話の六日前、その時にも、実はペトロが登場します。六日前、イエスは弟子たちに向かって「あなたがたは、わたしのことを何者だと思うのか」とお尋ねになりました。

ずっとお慕いして付き従っているイエスさま・・・、弟子となって、寝食を共にして、歩んでいるイエスさま。さて、弟子たちは、イエスを何者だと思っているのか。偉い人だと思っているのか。尊敬する先生と思っているのか、ちょっと周りの人たちとは違うタイプの人と思っているのか、カリスマ的な存在だと思っているのか。

そこで、弟子たち皆を代表してペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です。」と。

偉い人とか、すばらしい先生とか、周りの人とはちょっと違うタイプとか、カリスマだとか、そんなことではない。「わたしたちは、あなたのことを、まことの神の子と信じて従っております」と。「天から降りて来られた神の子なのです」と。

世の中にどんなすごい人がいても、どんな尊敬できる人がいても、どんなにカリスマ的な人がいても、それは、あくまで同じ人間の中で、優れているというだけ。でも、イエスは違う。本当に、「天から、神のもとからおいでになった神の御子なのです」と。「そう信じて従っているのです」とペトロは答えたのでした。

するとイエスは、御自身がやがて人々から捨てられ、迫害を受け、十字架につけられて殺されることになっている、とお話を始められました。

弟子たちは驚きつつ聴いていたと思いますが、そこでも、ペトロが真っ先に口を開いて、「イエスさま、そういうことを言ってはいけません」といった感じでイエスのお言葉を否定しました。

すると、イエスはペトロに向かって、たいへん強くお叱りになって、「神の子であるわたしは、この身を捧げるために来たのだ。私に従いたいなら、あなたがたも十字架を背負ってくるがよい」とお語りになるのでした。

そのような出来事があってから、六日目でした。イエスが、ペトロと、ヤコブとヨハネとをお連れになって、山に登られたのは。

そして、ほんの短いひとときでしたがペトロ達の見ている前で、この世のものとは思えない、威光をお見せになりました。神の光、主のみいつをお見せになられました。それこそ、「このお方はただの偉い人ではない、本当に、天からおいでになった神の子なのだ」と証明されるような出来事であったと言えましょう。

ペトロとしては、信じていたこと、つまり神の御子だということは、頭ではわかっていたとしても、本当にこうして、この世のものではない光に包まれるお姿を見て、我を失うほどの驚きに襲われていたと思います。

光に包まれるこの光景の中には、旧約聖書を代表する二人の人物、モーセとエリヤも天から降りて来て、そこにいて、イエスと語り合っておりました。

山の上とはいえ、地上におりながら、天の世界をひととき垣間見てしまったような出来事であったと言えましょう。

そこへ輪をかけて、天から声が聞こえてくる。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」

ペトロたちは、怖くなってひれ伏しておりました。一体、何が起こっているのか、これから何が起こるのか、世の終わりの時が来たのだろうか、そんな思いすらいだいていたかもしれません。

じっと立っているどころか、顔をあげることもできず、地に伏していました。

イエスのお姿が光り輝いた。モーセとエリヤも降りてきた。天から声も聞こえてきた。さて、次は一体何が起こるのか。もう顔もあげられず、伏しているペトロたち。

すると、次の瞬間、彼らに手が置かれます。イエスの手でした。優しく温かい、力強いイエスの手でした。

恐る恐る顔をあげてみると、そこには、山の上に来る前と同じように、光っていない、むしろ旅で少しよごれた格好の、イエスがおられました。モーセとエリヤの姿もなく、ただイエスだけがそこにおられました。

この出来事から、ふたつのことを確認したいと思います。

ひとつは、山上で、天の威光を身にまとわれたイエスが、そのあと、元のお姿で山を下りて行かれたことです。イエスはあの山の出来事の後、地上に降りて行かれました。皆の住むところへ。

いや、もっと分かりやすく言いましょう。あなたのところへ、降りて行かれました。

天の神の子、イエスは、天の威光を身にまとうのではなく、あなたの友となるために、人の姿で降りて来られました。あの時、恐れるペトロたちに近づいて、手を置かれました。「恐れることはない。」と。

今も、主はあなたのところに近づいて、あなたの手を置かれます。「恐れることはない」と。

わたしたちが天に上って行くことはできません。人間ですから。人間には、地上で暮らすことだけがゆるされております。でも、神の子、天の父なる神の御子、イエスが、あなたのもとに降りて来られます。あなた共にいるために。あなたを救うために。あなたを神の子とするために。

「これは、わたしの愛する子」と響いた声は、あなたのための声でもあるのです。

もうひとつ、確認したいことがあります。ペトロの手紙です。

わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。

明けの明星という言葉があります。明けの明星は金星のことを指すそうです。この金星には、ふたつの状態があります。ひとつは、日没後、西の空に現れる時。それは、宵の明星と呼ばれます。そして、明け方に、東の空に現れるものを明けの明星と呼んでいます。

聖書の時代の人たちは、この金星の二つの現れ方を、あるシンボルとして見ていたようです。すなわち、宵の明星は死を、明けの明星はよみがえり、復活のシンボルとして、であります。

ペトロは、この時の出来事を紹介しながら、「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」と綴りました。

この世界で生きて行く時に、わたしたちの心を曇らせるものがたくさんあります。世の中で起こっている出来事もあれば、自分の身の回りのこともあります。仕事のこともあれば、家庭のこともあり、人間関係のこともあるでしょう。

そして、わたしたちの心を曇らせるもうひとつの大きなこと、それは、信仰が消えていきそうになることです。まるで、太陽が沈んで、夜の闇が襲ってくるように、わたしたちの心、わたしたちの内なる所で、信仰の火が消えそうになることがあります。

その時に、この世界にともされた神の光、「これは世を照らすものであること、あなたを照らすものであること、あなたをわたしの愛する子と呼ばれる神の御声は本当にあるのだ、決してそのことは失わないでほしい」とペトロは呼びかけていました。

ご存じのように、ペトロ自身、イエスの十字架に御かかりになるときには、「私はあの人のことなど知りません」と言って裏切り、逃げていく経験もしました。また、聖書には書かれていませんが、最後は、ペトロは殉教の死を遂げたと言われます。

それこそ、光がすっかり雲に覆われて、消えてしまいそうな時を過ごしていました。

でも、その中で、「神の愛の光は明けの明星のように上りくるのだ」ということを、思い起こしていたのではないでしょうか。

天のみいつを携えて、イエスは来られます。あなたのもとへ。

その光はあなたを照らすためのものです。闇の中に、罪の中に、そして、死のかなたにあなたがおちていくことを望み給わない主は、いのちの光、愛の光をもってあなたを照らしてくださいます。

なぜなら、あなたは神様の愛する子だからです。「あなたはわたしの愛する子。」それは、ほかならぬあなたへの天からの御声なのです。

どんな闇からでも、どんな罪からでも、神様は、あなたを救い出されます。

主に信頼し、この身をゆだねて、歩んでまいりたい、このように思うものです。

マタイによる福音書4章12-17節

22 1月

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。

「ゼブルンの地とナフタリの地、
湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、
異邦人のガリラヤ、

暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」

そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

顕現節第三主日(2017年1月22日 甘木教会にて)

「光が射し込んだ」

本日与えられたマタイ福音書4章のみことば、そこには、人名やら、地名やらがずいぶん出てまいりまして、さらっと読んだだけでは、あんまり面白みのないところと思えるかもしれません。

何回か声に出して、読んでみても、カタカナがたくさん出て来る。しかも、みんなになじみのある、名前ばかりならまだよいですが、よほど、聖書に精通していないと、聞いていてもあまりピンとこない地名もちりばめられていたのではないでしょうか。

ただ、この個所は、ひとつの転換点を示しているようです。時代が変わる。

ちょうど、きょう、甘木教会は、一年の振り返りを行い、新しい出発をする総会を迎えておりますが、ひとつの時代が終わって、新しい時が始まる。そのことを告げております。

そのひとつが、出だしにありました。

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。と。

イエスがご登場する前に、人々の前に現れて、宣教活動をしていたヨハネ。洗礼者ヨハネとも呼ばれます。先週の礼拝で、ちょうど、この洗礼者ヨハネのもとで、イエスが洗礼をお受けになられた場面を学びました。

ヨハネは、カリスマ的な存在でした。多くの民衆が、ヨハネの話を聞いて、悔い改めて、洗礼を受けました。中には、あのヨハネこそ、待ちわびた神の人、救い主ではないか、と思う人々もいたようです。

でも、そのように、まっすぐに神に従う人であるゆえに、正しいことを正しい、間違っていることを間違っているとまっすぐに言う人であるがゆえに、彼は、権力にこびることもせず、時の王ヘロデが違法な結婚をしたことを指摘し、それがもとで、牢屋に入れられ、そして、首まではねられてしまいました。そのストーリーは、絵画や、小説、歌劇などにもよく取り上げられる有名な話です。

今日の個所を見ますと、そのヨハネが捕らえられたとあります。

今、お話ししましたように、ヨハネは、ヘロデの結婚問題についてもの申しまして、捕えられ、牢屋に入れられます。

そのことが、ここに記されておりました。

そして、ヨハネが捕らえられた、ひとつの幕引きがあった、時代の転換点が起こった。

そのことは、イエスの言葉からもうかがえます。カファルナウムに移り住んで、イエスは何とおっしゃったか。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。

これは、イエスの宣教第一声であります。一昨日、アメリカでも大統領の就任演説がありましたが、その内容には触れませんが、第一声、何と言うか、何を語るか、そこに大きなメッセージがあるものです。

事実、イエスの宣教は、もう、このひとことにすべて込められていたと言っても過言ではないでしょう。

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

近づく、というのは、のんびり構えていられない状態です。通り過ぎた、とか、はたから見ていて、ああ、近づいた、ということではありません。近づくというのは、自分に向かってくる、ということです。

近づいて来る、その目的は、あなたなのです。

いよいよ、ヨハネの時代が終わり、イエスが動き出す。それは、時代がいよいよ動いたということ。もう、天の国は、救いは、あなたに向かって動き出した。動き出したどころではない、それはもう、あなたのところに来ている。と。

だから、悔い改めよ、と。

この「悔い改める」という言葉は、わたしたちが日本語で考える時には、過去の過ちを反省して、心を入れ替えて、やり直す、といった意味を持ちます。それは、悪いところを直す、という部分的な修正です。

でも、イエスが語る「悔い改めよ」は、そういうこととは違いました。まったく、違うようになる、ということ。向きを変えるということ。

教会に長く通っておられる皆さんは、その説明は、何度も、お聞きになったことと思います。悔い改めるとは、方向転換することですと。百八十度、向きを変えることですと。

南の方に向かっていた人は、くるりと向きを変えて、北のほうに歩きはじめる。西の方に向かっていた人は、東の方に向かって歩きはじめる。それが、方向転換です。

簡単に言えば、それは、神様の方を向きなさい、ということ。なぜなら、神さまがもう、あなたに向かって来ておられるから、と。

このことは、言い換えれば、実は、神様ご自身が、向きを変えられたのだ、ということです。あなたが心を入れ替えなさいよ、まじめにやりなさいよ、ではなく、そのことよりも、まず、神様が、あなたのほうに完全に向きを定められた。神様があなたの方に向きを変えた。そして、今、神様は、あなたのところに向かって、近づいておられると。

今年は、宗教改革500年の記念すべき年でありますが、ルターさんにとっても、ほんとうに向きを変えることになったのは、自分が、神様の方に頑張っていかないといけないと思っていた、救いを勝ち取るために、もっと祈らねば、もっと奉仕せねば、もっと信仰を深めねば、とおもっていたところへ、気が付けば、罪深い自分のところへ、神様が来てくださることを知った、これを知った時でした。

こっちが頑張って神様に近づくのではなく、あの、飼い葉おけに寝かされたお姿、一緒に洗礼をお受けになるお姿のように、わたしたちのほうに、おいでになられる神さまを知った。

その時、救われるのは、人間の行いによるのではなく、神の恵みによって救われるのだ、これを信じる信仰によって救われるのだ、と気づきました。

まさに、大きな、方向転換。まさに、宗教改革、人生の改革、喜びの改革、救いの改革、信仰の改革が起こったのでありました。

イエスは、ヨハネが捕らえられ、時が満ちたことを知るや、天の国は近づいた。悔い改めよと宣言し、宣教を開始なさいました。

その時、具体的にはイエスは、ゼブルンとナフタリの地方の町、カファルナウムに行かれます。住み慣れたナザレの町をあとにして、ガリラヤ湖のほとり、カファルナウムに移り住まれ、そこで宣教活動を展開なさいます。

来週学びますが、この町で、シモン・ペトロら漁師さんたちを弟子にしていかれます。

さて、そのカファルナウムに行かれたことについて、少し説明がなされています。

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ」と。あまりなじみのない地名も次から次へと出てきますので、あまり面白味のないところとおもえることでしょう。

細かい説明は省きますが、このゼブルンの地とナフタリの地、とよばれるガリラヤ地方は、当時のユダヤの人々の中で、あまり注目されていない地方、注目されていないというよりは、侮られているところでした。

日本で言えば、東京、大阪、横浜、なんて聞けば、だれでも、すぐに大都会だ、何でもあるところだ、と思いますが、聞いたこともない、小さな町や、村の名前を聞かされても、ピンときません。

ピンとこないだけならまだよいのですが、何か、理由があって、悪いイメージを与えられてしまった地域があるものです。

わざわざそこへ移り住みたい、とあまり人が思わないような地域、町、村というものがあるものです。

いわば、ゼブルン、ナフタリの地方、ここに紹介されている地域は、そういうところでした。

それゆえ、暗闇に住む民、とか、死の影の地に住む者と書かれています。

そこに暮らす人は、暗闇に住む民だと。

そこに住む人は、死の影の地に住む者だと。そんなふうに言われる。

そういうところへ、イエスは、天から行かれました。それが、イエスの宣教でした。神のみこころでした。

洗礼者ヨハネが捕らえられ、いよいよご自身の活動する時が満ちると、イエスは、暗闇に住む民のもとへ、死の影の地に住む者のもとへ、行かれたのです。

「天の国は近づいた。」と言って。

「神様が、あなたのもとへおいでになった」と言って。

もう顔を伏せていなくていいのだ。顔をあげてごらん。

今、闇に閉じ込められていると思っているとしても、神は、あなたの方を向いておられる。あなたのところに来ておられる、もう、来ておられる。あなたを照らす光となって。

あの日、始まったイエスによる宣教は、まさに、世界をひっくり返す始まりでした。

あなたは愛されているのだ、何も心配いらないのだ。

そのままのあなたを、神は、こよなく愛しておられるのだ。

恵まれた人よ、さあ、顔をあげてごらん。

父なる神は、あなたに微笑みかけておられるから。

イエスの宣教は、こうして、幕を開けました。

わたしたちの教会も、歩みを続けてきました。守られて、歩んでまいりました。

その始まりは、暗闇に住む民のもとへ、死の影の地に住む者のもとへ、イエスが来てくださった、あの日から始まりました。

世にもたらされたこの救いの光を、届けたいものです。

主は、あなたのところにおいでになっておられます。

あなたの大切な、あの人のところにも、おいでになっておられます。

イエスさまの救いの光が、一人でも多くの人のもとに届くように、心から願います。